030 呵呵大勝

 東雲はレイラを船縁に横たえると、その手から海図を抜き取った。


「なんなんだ、貴様らは……!」


 腕の痛みにうめきながら、混じり者の男が激昂した。

 彼には理解できなかった。計画は万全だったはずだ。なのになぜ、自分は今、血を流し倒れ伏しているのか……。


「なぜいたずらにあらがう!」


 たった一隻の小さな貿易船に、なぜ国家公認の観測艦隊が翻弄されなければならないのだ。なぜ、脆弱な青鬼ユニルが、主人である赤鬼オグルに噛みつき、あまつさえ対等に接戦を演じることができるのだ。なぜ、こいつらは叩き潰しても叩き潰しても、その瞳の光を失わない……。


「貴様らの抵抗など、無駄なことだとわからんのか! たとえその海図が手に入らなくとも、すでに西大陸ユーラヘイムには本国の息のかかった者が何人も入り込んでいる。侵攻は時間の問題だ!」


 男は立ち上がり、無事な方の腕で東雲を指さした。


「貴様が賊の砦を荒らしたことも、いずれは上へ報告がいくぞ!」


 男の濁った双眸が弧を描いた。さあ絶望しろ、とそう言うのだ。

 しかし、東雲にとってはその程度の状況など、どこ吹く風である。

 敵国に間者を送り込むなど、戦国の世では当たり前のことであるし、仮に赤鬼からお尋ね者として追い回されたとて、それがなんだというのだ。


「まぁそん時は、そん時だ」


「な、に……?」


 ダネルは唖然と東雲を凝視した。信じられない異物を見るような眼であった。

 しかしてその瞳が瞬きを思い出すより先に、東雲は転がっていた片刃刀を蹴り上げ、駆け抜けるように男の動脈を斬り裂いた。


「――さァて」


 ふいに、一陣の風が船のまわりを取り巻いた。


「仕上げといこうか」


 巨大な白壁のごとき雲海がすぐそこにそびえたっている。

 迷路海流の入り口が、小さな船を誘うように、暗い門を開けて潮風を吸いこんでいた。静寂にたゆたっていた海も次第にうねりを増し、帆が音をたててひるがえった。

 ここにきて赤鬼オグルたちは焦りをみせた。海図という生命線が東雲の手にある限り、白濁の海域へ雲隠れした船を追うすべはない。もはや処断うんぬんと遊んでいる場合ではなかった。

 鞘鳴さやなりが連鎖した。青鬼たちの血で赤黒く光る刀身が、走りくる黒衣の男へ狙いをさだめる。


「海図を渡せッ!」


 焦燥に浮足だった彼らは、一斉に東雲へと襲い掛かった。

 功を急ぐあまり、血走った金の瞳が色褪せた紙の束へ釘づけとなっている。


「そんなに欲しけりゃくれてやる」


 東雲は腕を大きく振りかぶって、分厚い書巻を天高く放り投げた。

 瞬間、すべての視線が驚きとともに上空を仰いだ。おろそかになった足もとをふたつの残像がすり抜け、新たな鮮血が甲板を濡らした。東雲と、阿吽の呼吸で飛び出したトトが、赤鬼どもの足の腱をかすめ斬ったのである。

 ぐらり、と巨躯が傾いたのと同時に、雷光のごとき大音声だいおんじょうが轟いた。


「海へ突き落せ!」


 古兵ふるつわものの船長の一声に、修羅場を戦い抜いた青鬼たちは破竹の勢いで飛び出した。負傷者とは思われぬ気勢で赤鬼にしがみつき、手の平へ歯をたて剣を奪い、数人掛かりで押し倒す。

 激戦によってあちこち欠損した船もまた、主たちの最後の抵抗に加勢した。波にあおられて船体が揺れ、足の腱を傷つけられた赤鬼たちは堪らず転倒した。

 いかに剛腕を誇る肉体であっても、下半身の支えがなければ、ただデカイだけの木偶でくである。

 さらなる血潮が風に舞い、大きな水しぶきがいくつもあがった。

 果てしない歳月をかけて緻密に築きあげられた戦場の盤面は、ここにもろくも崩れ去った。いまや人の和は乱れに乱れ、艦隊という地の利も瓦解し、ついには天の時までもが小さな貿易船へ微笑みかけた。

 血で濡れた甲板が一挙に白濁の大気で覆われる。そびえたつ海霧の壁が船を呑みこんだのだ。

 大勢は決した。東雲の銛が赤鬼の最後のひとりを貫き、もはや彼らを縛る者はいない。


 かくして、雲海の謎を記した叡智の書は、またしても濃厚な灰白の霧のむこうへと、その姿を消したのである。

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