021 夢の手帳

 ゆるやかに再開された酒盛りは、語られた壮絶な戦場いくさばの余韻を引きずりながら、しめやかに続けられた。

 夜が深まるにつれ、にぎやかな宴も次第に瞼を重くし、物思いに沈む者、あの時はこうだったと、国にいた頃の出来事をとりとめもなく吐露する者が、語り部役を引き継いだ。

 しみじみとした穏やかな空気を肴に、東雲は蜂蜜酒をなめていた。いい加減、甘ったるい美酒にやや飽きもきていたが、西大陸には出まわっていない島独自の酒であると聞いては、まだ切り上げてしまうには名残おしい。

 しかしそうは言っても、ともとなるつまみは皿の上からあらかた消えうせ、かわりに泥酔した飲兵衛のんべえどもの屍が折り重なるように高いびきをかいている。風情や情緒とは縁遠いありさまである。

 東雲は酒樽を転がして、トトの横に尻を落とした。


「勇壮の士とは思えぬ憂い顔じゃな」


「!」


「眉間にシワが寄っているぞ、ネズ公」


 トトはパッと小さな手で顔をぬぐうと、困ったように苦く笑った。


「シノ殿は、なんでも御見通しでございますなぁ」


「いやさいやさ」


 むしろネズミほど分かりやすい者もそういないのだが、東雲はあいまいに相槌をうっておいた。


「赤鬼どもに勝利し、故郷を奪還し、明日には念願の船が出る。こんなめでたい席でなにを憂うことがある?」


 トトはためらうように数度逡巡したが、やがて観念して、ぽつりぽつりと言葉をこぼした。


「勝利、確かに勝利でございましょう……。ミクトランは穀物を豊富に産する土地。時に泥をなめ、朝露で咽喉をうるおすほどに困窮していた我らには、夢ような都でございます」


 しかし、と大きな瞳が悲嘆に暮れた。


「たった一度の勝利を築くために、あまりにも、あまりにも多くの同胞を失いました。親も、兄弟も、苦楽を分かちあった友朋ともさえも、皆トトを置いて、偉大なる真白き環のもとへ還ってしまった……」


 東雲は神妙な顔で黙っていた。ついぞ他人と心を通わせてこなかった彼には、到底解りえない苦悩である。

 ただ、この小さな生き物が、恐るべき巨躯と怪力を誇る敵を相手にしのぎを削るには、おびただしい犠牲が必要であったことだけは、容易に想像がついた。


「喜びを分かち合う仲間もおらず、どうして勝利に酔いしれることができましょう」


 彼の小さな背中には、どんなに言葉を尽くしても語り尽くせぬ苦悩が重くのしかかっているようだった。しかし、そんな過去の暗い幻影を振り払うように、トトは首を振った。


「ミクトランを陥落せしめ、一族の夢は成し遂げられました。ですからトトは、残された人生を、自分の夢のために使おうと決めたのです」


「自分の夢?」


西大陸ユーラヘイムを旅することにございます」


 トトは肌身離さず背負っていた鞄の中から、ずいぶんと年季の入った一冊の手帳を取り出した。日に焼け、黄ばんだ分厚い頁には、米粒ほどの小さな文字がびっしりと隙間なく埋められている。東雲には読めない、異国の文字であった。


「祖父の遺品です」


 まるで玩具の宝物を自慢する子供のように、トトは手帳をめくってみせた。


「我らはご覧のとおり身体が小さい種族ですので、船を操り海を渡ることができぬのです。しかし若く好奇心旺盛だった祖父は、無謀にも赤鬼オグルの海賊船へ潜り込み、西大陸ユーラヘイムを十余年旅して、再び東大陸ホルンガルドへ舞い戻ってきた、奇特なチミーでした」


 誇らしげにトトは語った。


「一族の者の中には、祖父の話をホラと笑う者もおりましたが、トトは幼い頃から祖父の話す摩訶不思議な冒険譚が大好きで、暇さえあれば旅の話をねだったものです」


 まだ観ぬ空想の景色へ想いをはせるように、トトはゆるりと目を細めた。


「いつか自分の足で西の大陸を歩き、祖父の話が本当であったと確かめるのが夢でございました」


 ふいに、トトは東雲を振りあおぐと、あの陽だまりのような輝く笑みを浮かべた。


「しかしシノ殿と出逢い、トトはすでに夢をひとつ叶えてしまいました!」


「……俺が? そりゃまたどういう?」


 いそいそと開かれた頁をむけられて、東雲は軽く目を見開いた。そこに描かれていたのは、全裸の人間の図であった。


西大陸ユーラヘイムの人々に人間ニンゲンと呼ばれるその生き物は、住んでいる場所も、生活の様式も一切が謎に包まれた、噂のみに聞く種族である。その姿、青鬼ユニルとおおよそ似かよっているが、角はなく、耳は短く丸い形状で、髪色はさまざま……。祖父の記録どおりでございました!」


「……そうだな」


 読みあげられた内容に対していろいろと気になる点はあるが、あまりにもネズミが楽しそうなので、こまかく突っつくのはやめにしておいた。酔いと疲労からくる心地よい倦怠感が、小難しい話など明日以降にせよ、と駄々をこねたのもある。

 たまにはいいじゃないか、と東雲は甘い誘惑に身をゆだねた。今は、小さな毛玉が語るまぶしい夢の話を、もっと聞いていたかった。


「それで、着いたらどこへ行く? 西の大陸にはなにがあるんだ?」


「それはもちろん、寄港した場所から手あたり次第に!」


 トトは謡うような軽やかな口振りで、旅先の候補地を手帳から拾いあげていった。美食の街フルークトゥス、水中都市グッタ、宝石の山脈ミネラ、獣人の棲む領域ナトゥーラ。そして西大陸に住む種族についても、面白おかしく逸話を語った。黒き領民インペット、小柄な凄腕職人コポント、美しき鳥人ハルピュリア。

 とめどなく紡がれる物語を聞いているうちに、東雲はいつしか自分が彼の地へ立って旅をしているような夢想につつまれた。

 興味がそそられるままに西へ東へ、あてなく気ままな旅暮らしは、きっと毎日が驚きに満ち、胸躍る日々に違いない。


「そりゃあ楽しみだな」


 無意識に、東雲は笑っていた。

 すると突然、トトがずい、と身を乗り出してきた。


「よろしければご一緒しましょう! トトは、シノ殿とともに旅をしてみとうございます!」


 東雲はそのあまりの勢いにぽかんと呆けた後、腹の底から笑い声をあげた。


「俺もそう思っていたところだ」


 打算ではなく、心からの言葉だった。彼との旅はさぞかし楽しいことだろう。

 二人は顔を見合わせて、ニッと白い歯をみせた。

 そして、ボロボロの擦り切れた小さな手帳を覗きこみ、額をつきあわせるようにして、飽きることなく未知なる冒険の計画に華を咲かせたのだった。

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