003 根の国

 すべて想い出した。

 かくして彼の人生は、あえなく幕を閉じた――……はずであった。

 東雲しののめはおそるおそるといった様子で、両の手の平を握りしめた。


「お、おぉ……!」


 動く。足もある。

 ぱたぱたと全身をくまなく叩き、しまいには犬のようにその場でくるくると回り出した。


「い、生きている……! いや、やっぱり死んだのか!? どっちだ!?」


 彼を死にいたらしめた傷も、矢に塗りこまれていた毒も、きれいさっぱりなくなっている。こんな都合の良いことがあっていいのだろうか、まるで荒唐無稽な御伽草子のようだ。

 あまりに非現実的な展開に東雲は困惑し、胸や首筋に手を当てては、はやる心臓の脈動を何度も何度も確かめた。

 死後の世界など、ありはしないと思っていた。

 杉の巨木に身をあずけたまま、自分のすべてはあの瞬間に終わりを迎えるのだと絶望した。

 それがどうだ。こうして自由に動かせる五体満足の体がある。これ以上に望むことなどあろうか……。

 じわり、と全身が熱をおびる。次第に笑いが込み上げてきた。笑うなど何年もしていなかったので、引き攣りうまく声も出せなかったが、彼は忍者になってはじめて、腹の底から思う存分笑い転げた。


「くッ、ははッ……! 生きてる、生きているぞッ!」


 この際ここが地獄だろうと構わない。たとえ寝物語に聞くようなむごたらしい奈落の底であったとしても、――それがなんだというのだ。そんなことは些細な問題に思えた。


「……儲けたのう!!」


 歓喜のあまり全身が震え、じんわりと汗までかいてきた。

 黄泉の国のことなど詐欺法師の絵空事とまるで信じてはいなかったが、死後に続きがあるというならば、これまでのうつろな日々をやり直すことができる。東雲は息巻いた。どうせ一度は死んだ身である。鬼がいようと閻魔が出ようと、もうなにかに縛られるのはまっぴら御免こうむる。今度こそ何者にも指図されず、己の好きなようにやってやろうではないか。

 そうと決まれば、まずは先立つ物を得なければならない。

 浮かれてすっかり失念していたが、今の今まで、彼はずっとまっ裸でたけっていたのだ。新たな門出にこれはいただけない。

 東雲の視線は、おのずと石床に転がっている鬼の死体へたどりついた。


「あー……、つかぬことを聞くが、鬼も涙する時があるというだろう。お前さん、俺を哀れと思ってくれるなら、ちょいとめぐんではくれんか。なァに、死後に徳をつむというのもなかなか乙なもんだぞ」


 勝手きわまりない適当な言い分を並べたてながら、東雲はいそいそと鬼の衣服を剥ぎにかかった。

 ここでなんの躊躇もしないあたりが、彼が地獄に堕ちたゆえんに違いない。もっとも、忍に慈悲だの人情だのを説くこと自体おかしな話ではあるが。

 それはそうと、鬼の服というものはなんとも珍妙である。日ノ本の着物とはまるで違うつくりの衣服に、東雲はやや手間取ってしまった。どちらかといえばさかいの港にやってくる西洋人の装いに近いだろうか。特に皮製の分厚い上着などは、いたるところに留め金がついており、無駄に複雑な構造をしていた。


「風変わりな着物じゃな。――地獄は地獄でも、南蛮の魔境に落っこちちまったのか? さすがにバテレンの教えまでは覚えてねェぞ」


 さらに鬼の体格というものは、普通の人間と比べひとまわりもふたまわりも大きい。拳などは東雲の頭ほどもあり、これで殴られればまず骨はバラバラに砕けよう。

 すべての衣類を脱がせ終わる頃には、軽く息が上がるほどの重労働であった。クマと相撲をとらされた気分である。

 しかしせっかく着る物を手に入れたはいいが、いかんせん丈が大きすぎる。用途が分からない物もいくつかあり、上着の大部分は鬼の血で汚れていた。

 東雲は物珍しげにひとつひとつ見分しながら、手についてしまった少量の血をなめとった。


「牛のような臭いじゃ。まだ新しいな……」


 近くに他者の気配はない。鬼同士で殺し合いでもしたのだろうか。それとも、地獄には鬼すら襲う化け物がいるということか……。いずれにせよ、長居は無用である。

 東雲は薄い布の衣を縦に裂くと、ふんどしとしてあてがった。鬼はゴテゴテとした革靴をはいていたが、大きさが合うはずもないので、仕方なく余りの布を足に巻き、足袋の代わりとする。

 やけに頑丈な光沢のあるはかまも、丈が余った分は折り返し、だぼつく腰回りは裂いた布を帯として締め上げた。

 それから、上着の内側に着ていたためかろうじて血が付着していない袖なしの黒い服を、頭からかぶる。

 最後に、これまた細く裂いた布の余りで後ろ髪を適当に結わうと、不格好ながらもなんとか体裁は整った。

 東雲は部屋を見まわし、隅に置かれた麻袋のひとつを開いた。

 中には米粒ほどの種がぎっしりとつまっていた。ビードロのように淡く透きとおったそれらは、炎の灯りを柔らかく反射して宝石のようにきらきら照り輝いている。


「――こりゃまた面妖な……、もらえるもんはもらっておくか」


 数粒つまんで腰帯にはさむ。さらに、例の白い植物を根巻きしている太い縄を解くと、これも短く束ねて帯につないだ。

 他にめぼしい物はないようだ。

 東雲はいよいよ古びた木戸の前に立った。向こう側に動く者の気配がないことを確認すると、音を立てぬようそっと取っ手を押し開く。

 しかし、その先にあったのは――暗い闇と行き止まりであった。




――――――――――

◆堺の港=現在の大阪湾に位置する。戦国時代における海外貿易の要としてポルトガルや明などと盛んに交流し、「東洋のベニス」と謳われるほどの栄華を極めた。


◆ビードロ=ガラスの古称。この時代は交易品であるガラスのことをポルトガル語で呼んだ。


◆バテレン=キリスト教の宣教師。

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