暗転します
一色星人
第一話
五年ぶりに訪れた思い出の高校は、まだ、そこにあった。有り体に言うならば、あの頃と何ら変わってはいなかった。校庭は茶色い砂でおおわれているし、テニスコートもクレーのままだ。エレベーターもないし水道からコーラも出ない。開いた窓から飛び込んでくるのは野球部の叫び声。金属バットがソフトボールを打つ音。それよりもさらに大きなボール追いかけるサッカー部がおこした砂煙。この教室からもかすかに聞こえる金管楽器の音色。ん?音楽室ってどこだ。三年間、選択授業の音楽を取らなかった僕はこの音色の音源を知らない。フルートだか、トロンボーンだか、聞いたことのあるメロディだ。あの頃は何も気にならなかったそれが、今では気になって仕方がない。
「あっ、やっぱここにいたか」
窓から出ていた僕の首を振り向かせたのは、教室のドアから聞こえた妻の声だった。麦わら帽子とワンピースという、「今は夏です」と言っているような恰好をしている。片手に持っているのが手提げバッグであれば完璧だ。その手には格好とは不釣り合いな、黒いラケットケースが握られていた。あの頃よりも伸びた黒髪は帽子を飛び出し、腰の位置まで届いている。
「アキも部活、顔出せばよかったのに。先生が、秋山君もつれてきなさいって」
「今頃OB面して行くのなんか嫌だよ。暑いし」
蝉の声こそ聞こえないものの、七月の太陽の光が燦燦と降り注いでいる。思えば、このなかラケットを振り回していた自分は偉大だった。あの頃の自分はもういない。崇め奉ることにしよう。僕は目を閉じ、なむなむと手を合わせる。十秒ほどの追悼が終わった僕が目を開けると、すべてを無視した麦わらの彼女が隣にいた。
「春香との思い出はいつもこの教室だったな」
「……うん。そうだね。あの事件も。」
「……あーあ。あの頃はよかったなー」
「なにそれ。おじさんみたい」
こちらを見てケラケラと笑っていた妻は、でも、とつぶやく。
「もうその話はいいよ」
そう言った妻はなぜだか少し悲しげな表情を浮かべている。学生時代から付き合っていた僕らだが、わからないことは分からない。結婚した今でも僕が妻について知らないことがあるのだろう。
目を細めて校庭を眺める彼女を見ていると、あの頃の記憶が蘇ってきた。五年前の同じ季節、この教室が舞台となった少し不思議な事件があった。事件というほどでもないが。僕と妻が付き合うきっかけでもあったその事件に、僕は感謝すべきなのかもしれない。しかし、そのことを思い出すと胸がもやもやするのだ。もやもやという言葉では表現できない。僕はまだ、この感情の表現方法を探している。今、この教室で探したら見つかる気がした。
「よかったよこのくらいの傷で済んで」
「えっと……こんなに包帯必要ですか?」
「それでも少ないくらいだよ」
薬品の匂いが鼻を抜けていく。消毒のツンとした匂いが部屋中を覆っているが、この匂いの根源はどうやら自分の頭みたいだ。傷口に塗った塗り薬と、眉から上の頭全体をぐるぐるに巻いている包帯。この状態が続くと思うと気が滅入る。目の前にいる初老の医者は僕には無関心なのか、さっきからパソコンばかりを凝視していた。そんなに目を細めて画面が見えるのだろうか。
もう処置が済んだのなら学校に行かなければ。そう思いカバンを背負い席を立つ…今からなら一時間目の間には間に合うな。診察室を出ようとドアの取手に手をかける。
「君、昨日事故にあったって聞いたけど。そのとき病院行かなかったの?」
振り向くと、声を発した医者はまだパソコンを凝視していた。僕はドアにかけていた手を頭に持っていく。
「ちょっと面倒になって帰っちゃいました」
右手で頭をポリポリ掻く僕は冷や汗をかいていた。その日に病院に行かなかったことを叱られると思ったからだ。覚悟して次の言葉を待っていると、医者は口から息を漏らし
「いや、大丈夫ならいいけど」
ほっ。今度は僕が息を漏らす。意外と患者に無関心な医者も悪くないかもしれない。
「ありがとございましたー」
頭を下げてから、今度こそドアに手をかけ診察室を出ようとする。こんな辛気臭い空気の部屋とは早めにおさらばしたい。診察室から待合室へと移り、ドアを閉めようとすると、医者から「あっ、ちょっと」と呼び止められた。めんどうくさいと思いながらもしょうがなくドアの進行を止める。
「秋山くん、もう血、滲んでるよ」
「おろ?」
言われて、自分のこめかみに手を持っていく。ザラザラした包帯に触れてみると、指には血がついている。唐紅というような色ではない、もっと淀んでいる赤だ。黒ずんだその液体が自分のものだとは思えなかった。
「何も痛くはないのに血は出るんですね」
「まあそういうもんだよね。もう少し巻くからこっち来て」
自分の体内から赤い液体がでるというのは怖い。なので、おとなしく従うことにする。包帯を巻き直す丁寧な手付きを見ると、一時間目の間には間に合わないと察する。まあしょうがない。主役は遅れてくるものだ。この医者が思ったよりも親切ということがわかっただけ良しとしよう。
廊下には多くの生徒がいた。どうやら一時間目後の休み時間みたいだ。教室の前まで行くと中に入るのをためらった。学校に途中から行くのって妙に気まずいんだよな…
決心して教室のドアを開けると、クラスメイトたちが一斉に僕の方へ目を動かした。それはよくある、教室の前のドアを開けるときにつきものの視線、ではなく明らかにそれとは違う好奇の視線のように感じる。僕はウーパールーパーにでもなってしまったのだろうか。僕がウーパールーパーではない限り、考えられるのは昨日の交通事故だろう。
僕が出くわした交通事故は割と大きなニュースになっているらしい。車と車の激しい衝突事故で、片方の車に乗車していた運転手の人が足と腰の骨を折る大怪我だったそうだ。すぐ近くを歩いていた僕の方へ、海外のアクション映画みたいにスピンしたワゴン車がとんできたときは、急いで走馬灯を流す準備をした。僕が怪我をしたということも何故だか知られているらしい。新聞に載っていた僕の名前は【男子高校生(17)】だ。その男子高校生が僕である、とバラした奴がいるはずだ。情報を漏らした犯人は既に見当がついている。どうせ、おしゃべりなあいつのことだ、今朝みんなにばらまいたのだろう。
「はぁ……」
これ見よがしにため息をつき自席へと向かう。ざわめく人の壁を抜けると、席にはすでに犯人が座っていた。
「やっぱり冬木か……」
そこにはこちらを振り向き、大きな瞳をさらに広げた少女、冬木なつみが座っていた。夏服から伸びる腕は相変わらずたくましく、いかにもテニス部らしい健康的に焼けた肌だ。同じテニス部といえど、ここまで差が出るものか。自分のひょろひょろした細い腕を隠したくなった。
「ごめんごめん!これ内緒だった?」
短く切られたこげ茶色の髪を靡かせてふざけたように頭を上下に振る。これで謝って
いるのか。謝罪の気持ちがあるならとりあえず僕の椅子を返してほしい。
眉間にシワを寄せて謎生物を見る僕には気づかず、冬木はさらに話を続ける。
「まあ、事故にあったのは気の毒だけどさ」
そこで一呼吸置くと、冬木はニヤッと口角を上げ言った。
「春香と付き合えるんだからいいでしょ」
「え?」
その瞬間、周りにいたクラスメイトたちが騒ぎ始めた。指笛を吹いて手を叩くものもいれば、ひたすらに羨望の眼差しを浴びせてくるものもいる。
いつの間にか、この教室が舞台の劇でも始まったかのように感じられた。舞台上に立っている役者は僕だけだ。生まれて初めて、主人公の役を与えられた。つい口元がゆるんでしまう。いや、そんなことよりだ。冬木はなんて言った。僕の聞き間違いだったのだろうか。たしかに今、冬木は“僕と春香が付き合う”と言った。僕の耳にはそう聞こえた。周りの喝采に驚いていると、何か察したのだろうか、冬木はあちゃー、という表情になり
「ごめんさっき春香から聞いたんだ、秋山とのこと。そのときつい大声出しちゃってこんな感じに‥‥‥」
冬木は顔の前に手を合わせ目をつぶっている。今回は本当に申し訳ない、と言った顔だ。
「土曜に春香から告白したんだって」
「そしたらオッケーだったって!」
僕の周りに来た女子たちが顔を赤くしてキャーキャーと騒ぎ出す。
なんだ、何を言っているんだこいつらは。この教室にいるクラスメイト全員が信じているのか。僕の知らないことをみんなが知っているということはとても気持ちが悪い。
「僕は春香と付き合ってなんか……!」
その瞬間、周りを囲んでいる人たちの視線が一斉に僕に集まった。ぎょろりと動いたみんなの目はなんだか怖かった。明らかに”僕”を見ているそれではない。それでもかまわず僕は続ける。
「ないよ」
「春香……」
冬木がつぶやく。とうとう会話までできなくなったか。いい加減に、と言いかけやめた。冬木は僕など見てはいなかった。周りのみんなも僕を見てはいなかった。視線は僕のさらに後方へ、黒板の前ほどに集まっていた。
そこに春香がいた。
テニス部とは思えないほど病的に白い肌、肩の上で切りそろえられた黒髪が多くの人の目を引いた。一欠けらの白さえも許さない髪と同じ色の瞳が、だんだん湿ってきているのが分かった。
「もしかして、昨日の事故で記憶喪失になった、とか?」
遅れてきたヒロイン、春香の一言で舞台はさらに静まり返る。周りの観客達は、頭上にハテナを浮かべてお互い顔を見合わせていた。さらに春香は続ける。
「軽い脳震盪でも記憶は消えるって言うし……アキがあのこと覚えていないなんて……告白したときはあんなによろこんでくれたのに。」
一瞬とも数十秒とも感じられた静寂の後、春香が声を上げて泣き出した。
冬木もみんなも唖然として、ぼくと春香を交互に見る。遠くにいた名前も知らないクラスメイトまで顔を手で覆って鼻をすすっている。男子たちは
「すげー。漫画みたい……」
「記憶喪失なんて現実であるんだな」
なんて、興奮していた。そんな場合ではない。僕はいち早く、このざわつく舞台から降りたくてしかたがなかった。僕は春香を見つめる。睨んではいない。
「君は何で……!」
その時、僕は次に続く言葉を発することができなかった。周りを囲むみんなは怪訝そうに僕を見る。春香は手で目元をこすりながら目線を送った。何故だろうか。僕は蛇に睨まれているカエルの気分だった。
僕は決心を決めた。いや決心というほどのものでもない。僕の、春香に対する気持ちは昔から何も変わっていないはずだ。
「ごめん春香。みんなの言う通り僕は土曜日の記憶がないんだ」
「……うん」
「でも、僕は確かに春香が好きだった。よかったら、付き合ってほしい」
その瞬間、泣き止んでいた春香が顔を両手で覆う。四方八方から手をたたく音が聞こえ、指笛が鳴り、クラッカーが弾け、紙吹雪が舞っている。誰もが僕たちを祝福してくれているようだ。僕は、顔を上げ頬が朱色に染まった、春香の頭上に舞う紙吹雪の行方だけを追っていた。僕だけが誰からも祝われていないみたいだった。僕は舞台の終わりを告げるチャイムだけを欲した。一枚だけ肩に降ってきた紙吹雪を手に取った。何故だろう。金色の紙に写った僕は笑っていたんだ。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムの音で目が開いた。目を前方へ向けると黒板の前に先生はいなかった。ほっと息をつく。いつもはこんな音では目は覚まさない。どこか遠くから聞こえるこの音は、私にとって眠るときに流れるBGMにすぎない。しかし、今日は偶然、目覚まし時計になったようだ。うーん、と背伸びをしてから首を回す。周りのクラスメイトたちはもう席を立ち始めていた。
「あれ。いつから寝てたんだっけ……これ何限?」
時間の感覚がなかった。気になったので前でカバンに教科書を詰めている彼女に聞く。首を傾けて机の中を覗いている。普段はその黒髪に隠れているうなじがちらっと見えた。ごくりと、思わず生唾を飲み込んでしまった。
「もー、なつみ何言ってるの。部活いこ」
呆れて笑っている彼女、春香はもう準備万端といった感じだ。私の前に立った彼女の方には既にラケットケースがかけられていた。
「大会近いんだから早く練習行かなきゃ」
「はいはい。もうちょい待ってて」
そう言って準備を始める。
春香はうずうずした様子で胸の前で握りこぶしを作っている。こんな仕草ができるのも男子から慕われるポイントなんだろうな、とぼんやりと考える。これが素であることは中学から5年間一緒のわたしがよく知っている。女の私でも彼女の容姿と行動には照れてしまうことがあるくらいだ。男子だったらなおさらだろう。昔から「一目惚れしました!」の多重事故が起こることも少なくないんだ。春香と目が合うと何を感じたか、怪訝そうな顔をした。わたしは首を振って立ち上がった。羨ましいなんて思ってないんだからね。
そーいえば春香と部活行くの久しぶりだな。そう思っていると「あ」と声が漏れた。
「秋山は?今日は一緒に行かなくていいの?」
「あー、アキは先行くって。先生に呼ばれてる、だっけな」
「……そっか。残念だね、私で。」
ふざけてそう言うと、春香は眉間にシワを寄せた。
「もー、そんなこと言わないでよ。私はなつみと一緒で嬉しいのに」
頬を膨らませて言う春香に私は一瞬真顔を作ってしまう。それ、本当に素でやってる?こんな質問、中学の頃はよくしていた。私は彼女の行動すべてを疑った。何人かで集まって彼女を追求したこともあったな……。お前は男に媚びうっていると、ぶりっ子だと。
そんなことをしていたら、いつの間にかわたしが堕ちていた。ある日、教室に行ったら私の存在はなくなっていた。誰の肩を掴んでも、みんな下を向いてしまう。誰の名前を呼んでも反応する人はいない。何ヶ月か経ったとき、春香が笑って話しかけにきてくれた。その日、わたしは生き返ったんだ。
「なつみー、昨日さーテレビでね……」
「……うん、うん……えー、うそだー」
「ホントだってえ。それにさー……」
わたしたちはケラケラと笑い合う。他愛のない世間話で笑い合う。スマホに保存したおもしろ動画で笑い合う。自然と右手で左手首を抑えていることに気がついた。脈はゆったり落ち着いている。手足の力も緩んでいる。
大丈夫だ、大丈夫。何故か安心してほっと息をつく。
そのとき、聞き覚えのある曲が聴こえた。わたしの大好きな曲。片手に持っていたスマホからだった。それとなく画面を見る。少しだけ頬の筋肉が硬直するのを感じた。
「あ。電話するから、春香先行ってて」
「オッケー」
春香は手を振って離れていく。わたしはその姿が廊下の角から消えるのを待って、スマホを耳に当てた。
『どしたの?こんな時間に。てか先生に呼ばれたんじゃないの?』
『……』
通話相手はなかなか喋ってくれない。いたずら電話ならさっさと切ろうと思った。春香に隠れて電話しているようで気分も悪い。平穏だった脈が、少しずつ波打ってきているのがわかった。
『僕は』
嫌な予感がする、という表現を初めて使おうと思う。
『記憶喪失なんかじゃない』
ほら。ちょっとした日常なんてほんの少しの波でくずれてしまうんだ。
「おまえもっと端いってくれよー」
頼むからもう少し痩せてくれ。
「めいいっぱい詰めてるって。ここギリギリ」
梅雨があけるのを待っていました、と言わんばかりの暑さはこの時間になると少しはましになる。テニスコートから部室への帰り道では、軽やかな風が焼けた肌の上をスキップしていた。だが、練習終わりの男子部員で埋め尽くされたこの部室は別だ。一つだけある小さな窓から入ってくる風も、僕のもとへ届く頃には温風と化している。生ぬるい空気と、いろんな香りの制汗剤が混ざった匂いに目がくらむ。
壁に沿って並べられた椅子は各自に与えられていた。ぼくが、この太ましい部員の隣をひいてしまったときは天を仰いだ。体でぶつかることが嫌でサッカーを辞めたのに、何故ここで肉弾戦をしなければならないのか。おかげで、圧迫された僕のイスは軋んでいた。
「はあー、いいよな秋山は。あんな美人と付き合えて」
今日、何回目だよそれ。
「でも春香も見る目ないよなー。なんで秋山なんかと」
それも何度も聞いたって。どうやら、今日一日の間に僕と春香が付き合った、というニュースは各地を駆け巡ったらしい。
女子テニス部の春香は、男子部員の憧れ……好意の的だった。教室での彼女と何ら変わらない。どこであっても彼女は一番に輝いている。今まで何人もが春香を越えようとしてきた。その存在を邪険に思い、自分の容姿や振る舞いに自信のあるひとたちが何人も。彼女たちはどうにか春香を貶めようと、裏で様々な線を巡らせた。表には決して現れない卑劣なやり方だった。僕も春香を憎む彼女たちの一人からこの話を聞いた。聞かなければ知る由もなかっただろう。今でも彼女とは連絡を取り合っている。
だが、春香が所属している団体において、彼女より輝こうとする行為は無駄だ。僕はその後の彼女たちの結末を知っている。
「記憶喪失の悲劇のヒロインみたいな感じだからでしょ。なんか良く見えちゃったんだよ」
誰がヒロインだ。そんなツッコミは噛み砕いて、シュレッダーにかけ、消化液で溶かす。
部室の扉を開け外へ出ると、既に太陽が消えていた。部室にいた短時間の間にいなくなってしまったのか。あたりの木々からは蝉の鳴き声が降り注ぐ。近くの木を見ると幾匹ものセミが羽を休めているのが分かった。
そういえば、先程の練習時には、あの特徴的な音を発するツクツクボウシが喚いていた気がする。今はその声は聞こえない。代わりに耳に届いたのはヒグラシの声だ。カナカナカナカナ、と。この表現が正しいのかはわからない。
「おい、秋山帰んねーの?」
ハッとして入り口を見ると、帰る準備万端といった部員たちが立っていた。なんと言おうか迷っていると一人の部員があっ、と声を出した。
「ほら、春香が……」
「あー……なるほど。じゃあな秋山」
ガタガタと音を立て、荒い手付きでドアは閉められた。外からは部員たちのゲラゲラと笑う声が聞こえてきた。僕は、ただそこに座り騒音が遠ざかるのを待つ。その音が消えるとき、舞台に立っているのは僕だけだ。
頭なんて打っていない。
脳震盪でもない。
僕が交通事故で負った傷は切り傷だけだ。大きな事故だったといえど、ぼくはただ少しだけ巻き込まれただけに過ぎない。記憶喪失になんかなっていない。
でも、僕は彼女のついた嘘を飲み込んでしまった。
僕に彼女の相手役は荷が重い。そう感じて断ったんだ。僕は舞台に上がっている彼女を照らす照明でいいと思っていた。その役目に誇りがあると考えていたんだ。
彼女はそれを許さなかった。聴衆の面々に引っ張り出して、僕にNOの選択肢を与えなかった。断ることはできたのかもしれない。僕が一言、
「土曜のこと?断ったよね?何言ってるの?」
と、返したらよかったのかもしれないな。でも、そうしたら元の照明の役目に戻れただろうか。おそらく僕はその職を失う。彼女の手によって。なんの役目も与えられない。無実の罪で牢屋に入れられてしまうだろう。頭の中ではサイレンが鳴っている。救急車かパトカーだかは分からない。ただ、その音はだんだん遠くへ離れていったんだ。
僕と春香は二人、海と陸の境界線にいた。僕は線香花火を持っていた。
彼女が発した警告は耳を澄ませばなんとか聞こえるくらいの小さな音だった。波の寄せる音、パチパチと跳ねる火花の音にかき消されるように思われた。だけど、その声は僕の耳にへばりついた。僕が持っている紅い雫は落ちてくれない。揺さぶっても、息を吹きかけても消えない。いくら角度を変えたって何も変わらず、細く脆い紐の先についている。
そのとき、湿った砂の上に落ちた雫は、僕の頬をつたったものだった。海がさらっていたはずの、それが落ちた跡は僕の足元にくっきりと残っていた。
僕が望んだことだった。
僕も、舞台に上がりたかったんだ。
「おまたせアキ」
瞬時に片手に胸を当て、入口を見た。右手は喉元に当てられていた。ヒグラシの声は聞こえない。夜でも構わず鳴くときいていたのに。なんだか拍子抜けした。春香は急いで来てくれたのだろう。はあはあと息をつく彼女の額には汗が光っている。それをハンカチで拭う姿さえ美しくみえた。
「大丈夫、居残り練おつかれ」
「ごめんね~遅くまで」
「いいよいいよ。さあ帰ろ」
春香は手を差し出した。僕はその手を強く握る。どんな理由だっていい。僕は何も聞かない。いつ、どこにいても主役は春香だ。一人だけピンスポットに照らされた彼女には敵わない。だが、僕にも役は与えられた。彼女のおかげだ。僕はその役を全うするつもりでいる。彼女と一緒ならどこでも輝ける気がした。
「おーい……おい。アキー……アキ!」
ビクンと体が跳ねた。恐る恐る、声がした右隣を見る。そこには、妻が首を傾け僕の顔を覗き込んでいた。
「明後日の方向見ちゃって。どうかした?アキ」
「いや……なんでもないよ、なつみ」
名前を呼ばれた妻、なつみはニコッとして「ならよし!」と言った。その姿はよく似ていた。部活を辞め、白くなった肌も、黒く染まった髪も、僕へのアキという呼び方も。
冬木なつみとは東京の大学で再会した。再会したと言うより、それまで意図的に再会しなかったと言ったほうが正しい。高校の途中から同じゼミに入るまでの4年間、なつみとは話していなかった。春香と付き合いだしてからなぜだか疎遠になった。僕と春香は1年ほど付き合った。別れた理由に面白いところはない。もうすぐ受験、だとか、他に好きな人ができた、などが重なったからだ。どちらからフッたかなども曖昧だ。僕と春香は特別ではなかった。そこらじゅうにいるカップルと同じだ。
僕は、高校の時のあの事件も、これからの二人のことも、全てが映画の世界のようになると思っていた。非日常な事件が起こったことで僕は何かを恐れた。ただ同時に、それがトリガーとなって僕らは特別になるかもしれないという期待を抱いていたんだ。
キーンコーン。
「あっチャイム」
なつみがつぶやく。休日でも関係なくチャイムは働いている。ご苦労さまなことだ。
「アキ、そろそろ帰ろ。チャイムが鳴ったら下校の時間だよ」
「……ああ。帰ろうか」
あの頃、あんなにも欲していた終わりの鐘はこんなにもあっさりと鳴ってしまう。妻と目が合う。ニカッとはにかんだ彼女に、僕はうまく笑えただろうか。
あのとき殺してしまった僕はもういないのだ。もし、春香の告白に素直に応えていたら、いや、もし本当に記憶喪失になっていたらどうだっただろうか。足元を見るとそこにはなつみの黒いラケットケースが転がっていた。僕はそれを拾い上げ、中にあったラケットを握りしめた。妻は怪訝そうに僕を見ている。
『軽い脳震盪でも記憶は消えるって言うし……』
あのとき、春香が言った言葉が蘇る。あの場面で春香が言ったほんとのことはこれだけだったな……。テキトーなことばかり言って。ラケットを両手で持ち、フレーム部分を顔の前に持ってくる。僕は、それを思いきり頭へ振りかざした。こうでもしないと舞台に上がる準備ができないんだよ。《ルビを入力…》
暗転します 一色星人 @iishikiseito
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