貧乏くじ男、東奔西走

鈴木田

1. 西田は呼び出される

 肌寒さを感じて目を覚ました。


「……さむ」


 そう呟いて散らかった布団を抱き寄せる。


 家賃三万円という格安のアパートにありがちな壁の薄さによって、真冬の厳しい寒さが昼夜問わず襲ってくる。こんなペラペラの布団ではこの寒さをしのげるはずもなく、灯油の入っていないストーブはそもそも意味をなしていない。


 布団の中から手を伸ばし、友人から誕生日プレゼントとして譲り受けた置時計を掴む。時刻は午前八時五分を示している。


 土曜日が始まった。すべての自由が許される平和な一日、いくらのんびりしようが誰の迷惑にもならない。ヒンヤリした畳が敷き詰められた一人暮らしの居城で、私は冬の寒さに負けず、二度寝を決め込むことにした。真冬の寒さなどに負けてはいられない。


 生まれつき怠惰な私は、いついかなる時であろうと家でのんびりすることを好む。もちろん、お金があれば買い物に出掛けるなり、ちょっと遠くまで足を伸ばしてみるなり、やりたいことはいくつか見つかるし、そのためなら朝早く家を出ることを考える余地もある。


 しかし、現実として貧乏大学生に許されていることと言えば、寒空の下、一人寂しく大学へ向かい、同じく寂しげな研究室仲間と肩を並べて、自分の研究をわずかに進めることだけである。大学生は研究を進めることでしか人権を得ることができない。そのため、布団の中で一生を過ごしたい欲望を押し込めて、私もしぶしぶ研究室へ向かうことになる。とは言ってもこれは平日の話だ。


 今日は土曜日、私は断固として休日に大学へ向かうなどといった愚行はおかさない。土曜日は一日中を布団の中にいても許されるのである。大学当局の中には、「大学生に休日なし、大学生は常に研究するべし」などという暴論を展開する輩もいるが、私はそれらの愚かな意見に対して真っ向から異を唱える。


 どんなに優秀な人間であろうと、しっかりと休まなければ頭は回らない。頭が回らなければ研究は進まない。そして、研究が進まなければ学位を手に入れることはできないのだ。つまり、私は自分の人生を懸けて休日をのんびり過ごしているのである。


 そんな屁理屈めいた考えを頭の中で駆け巡らせながら、そろそろ二度寝に入れそうだと思ったその時、私のスマートフォンが小さく振動を始めた。誰かから電話がかかってきたようである。時刻は八時三十五分。


 せっかくの眠気もどこかへ去り、二度寝を邪魔された苛立ちを抱えたままスマートフォンを手に取る。


「……はい?」


 電話に出た。寝起きなので口がうまく回らない。


「俺だ、井上だ」


 電話の相手は、同じ研究室の同期である井上だった。大学に入ったときからの友人であり、何かと世話になっている。

 彼は大学を首席で卒業しようかというほどの優秀さに加えて、そのクールな見た目とは裏腹にアイドルオタクでもある。人を偏見の目で見てはいけない。


「どうした、こんな朝っぱらから?」


「この前の借りを今日返してくれ」


「この前の借り? なんだそれは、勝手なことを言うんじゃない」


 急に借りを返せと言われても思い当たる節が何一つない。流石に寝起きだとしても、こんな短絡的な嘘に騙されるような私ではなかった。


「ちなみに、どんな借りがあったっけ?」


「先週、実験を手伝ってやっただろ。それとこれまでに貸してきた金、だいたい五万円くらいか」


 どうやら私の記憶に反して、かなりの借りが井上にあるらしい。それにしても五万円も借りていたとは驚きだ。しかし、よくよく考えてみれば一年の内で財布を持って大学へ来たのは数えるほどしかなく、昼食はいつも井上にツケてもらっていたから、五万円借りていたとしても間違いではなかった。


 私は、私が思っているよりもクズ野郎だったようだ。これはマズイ。借りた恩は返さねば、友人として失格である。


「分かった、借りを返そう。どうすればいい?」


「その前に、今日が学園祭当日だということは知ってるか?」


「まさか、知るわけない。休日にわざわざ大学に出向いてまで遊びまくる行事などやるくらいなら、論文の一つや二つ読んで、のんびりしていた方が有意義な時間を過ごせる」


 どうやら今日は大学の学園祭があるらしい。しかし、もちろん私には関係ない。休日まで大学に出向くというのは、自分の体を労らない馬鹿がやることだからだ。


「今すぐ大学に来い、お前に頼みがある」

 

「俺の話、聞いてたか?」


「借りを返してくれるんだろう。俺が学園祭の責任者になったのはいいが、人手がまるで足らん。みんな遊ぶことに夢中で、このままでは学園祭が無法地帯と化してしまう」


 学園祭の指揮をとっているとは、実に井上らしいことだ。高校生の頃は生徒会長をやっていたほどの男であり、井上は人を監督する素質に溢れている。学園祭など行きたくもないが井上に借りを返すためならば考えないこともない。


「それで俺に何をさせる気だ」


「風紀委員長だ。学園祭の風紀はお前が守れ」


 こいつは何を言っているのか。好きなアイドルが結婚発表でもしたのだろうか。頭がおかしくなっている。


「正気か」


「ああ。学園祭を見回り、何かしら怪しいことがあれば取り締まってくれ。それだけでいい」


「俺ほど風紀を乱す奴も珍しいというのに、そんな奴に風紀委員長など務まると思うか?」


「正直、お前に任せるのは馬鹿げていると思っている。だが本当に人手が足らん。それに風紀委員といってもお前と熊沢の二人だけだから安心しろ」


 熊沢とはその名の通り、熊のように巨大な体を持った研究室の同期である。誰もが恐れおののく風体をしているが、実際は心優しき好青年なのである。人を偏見の目で見てはいけない。


「たしかに熊沢がいれば百人力ではあるが、そもそも風紀委員が二人しかいないとはおかしな話だ。なぜそんなに人手が足りていない?」


 学園祭というものは大学が総力を上げて取り組む行事のはずであるから、人員も有り余るほど集められるはずだ。


 しかし、井上は言葉を濁した。


「そんなことお前は気にしなくていい。とりあえず大学に来い」


 井上は最後にそう告げて電話を切った。


 井上が何かを隠しているのは明らかだが、現状では情報が少なすぎる。大学に行っても研究室にこもりっきりの私では、大学の情報も学園祭の情報も何一つ持ち合わせていない。


 仕方なく出掛ける準備を始めた。






###### つづく ######

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