再会ー1

 山麓の町の宿に泊まって翌朝、ソルトは山登りの準備を始めていた。とはいえ、山の中腹に村があるので、それほどの準備が必要となるわけでもない。


 自動二輪車は昨日の内に配送ギルドに返却し終えているし、土産は期待していないと言われているから持ち物の心配も無い。体に不調は無いか、忘れ物は無いかなど、そういった簡単な確認程度のものである。


「特に問題なし。行くか」


 山麓の町からさらに南に十分ほど歩くと、小さな山の登山道に着く。


 その山は、特に名前を付けて呼ばれるほどに特徴のある山ではない。標高もそれほどなく、遭難者も出したことはない。極々稀に山篭りする変わり者がやってくることはあるが、凶悪な魔物などは生息していないため、すぐに他の山へと移ってゆく。割と、穏やかな山である。


 朝食を軽めで済ませたソルトは、何の気負いも持たずにさくさく山へと踏み入っていく。


 村人が麓へと往来するためか、道の出来は悪くない。とはいえ、獣道より大分マシと言った程度で、足を取られて転びそうになる凸凹が幾らもある。


 勾配はそれほどきつくはないが、自分の足で距離を歩くという習慣を怠ってしまうズボラな学校生活を送っていたから、ソルトにとっては結構きつい道程だ。


(だから田舎は困るんだよなぁ……体力が無いとやっていけないから……)


 胸中で愚痴を吐きつつ登っていたが、呼吸が苦しくなってきた辺りで彼は休憩を取ることを決断したのだろう。道筋から少し外れた木の根に向かい、ローブが汚れるのも構わずそのまま地べたに座り込んだ。


「ぐえぇ……きっつい……」


 腰に括りつけておいた水筒の中身をぐびぐびと飲みながら、ソルトは体力の無さを痛感する。


(実家に戻っても、肉体労働だけはやりたくないな……)


 体力をつけようなどと少しも考えることなく、彼は時間を掛けてゆっくりと呼吸を整える。急いだところで、誰が待ってるわけでもなし。慌てたところで、自分が無駄に疲れるだけだ。


 そういった考えを持っていたから、ソルトはそのままぼんやりと、枝葉の隙間から射し込んでくる弱々しい陽の光を浴びていた。


(そろそろ出発しようかな……)


 立ち上がったソルトが軽く伸びをしたとき、彼は側の草むらがざわりと震えた感覚を得た。


 そういった感覚を得るときは決まって良くないことが起こるので、彼は草むらから距離を取ろうと道へと戻る。否、戻ろうとした。


 足を踏み出して二歩三歩、といったところのことであった。草むらを飛び越えるようにして、いきり立った猪が飛び出してきたのである。体長はおよそ一メートル半といったところだろうか。大きくはないが、小さいということもない、平均的な体格の猪である。


 ソルトの住んでいた村の住民であれば、山をうろつくときに必ず銃を持っていくから、特に恐れるほどの獣でもない。とはいえ、彼は現在丸腰であるから、体当たりを食らうこともあるだろう。死に至るほどの傷を負わせてくることはほぼ無いと分かっていても、獣特有の臭気と存在感は、少なからず彼の平常心を奪っていた。


(……怖っ! 昔の僕はよくこんなのを平気で相手にできたな)


 そんなソルトの心情などつゆ知らず、猪は鼻息と鼻音を激しく噴き出しながら辺りを見回していた。しかしそれも、それほど離れていない位置に突っ立っているソルトを視界に入れると一瞬、怯えと恐れの色をその眼に映して動きを止めた。が、すぐにそれを塗り潰すようにして憤怒と覚悟の色を眼光に宿し、彼に向かって突進する。


 その走りに迷いはなく、確実に突撃しようとする強い意志の力がある。野生の獣であるために難しいことを考えず、単純な思考でもって最短且つ最善の行動へと移るのだ。


 けれどもそれは、相手が同じ野生の獣である場合にのみ有効であり、さらには格下の相手にのみ通用する方法である。相手が格上だと確信すれば、彼らは一も二もなく逃げ出すのだから。


(そういうところが、人間と違ってシンプルで好きだな)


 のんきにそんなことを思いつつ、ソルトはローブのポケットから幾つかの球を取り出していた。それらは一センチほどの大きさの、何の変哲もない鉄球である。鉄くずを丸めただけの簡素な代物で、もちろん、魔道具のような機構は備えていない。


 ソルトはすぐそこまで迫っている猪に向かって、その鉄球を投げつけた。


 ただ、何の力も加えずに投げつけたわけではない。彼は魔法学校で学んだ技術を、この場で用いたのである。


 魔法と呼ばれる、自然現象を人工的に起こす技術であった。物質に蓄積されている魔力を消費して発動されると言われているそれは、自然をも超越する超常現象を生み出す可能性があるとして、今もなお研究され続けている不確定要素の多い技術だ。


 このときソルトが鉄球に付加した魔法は、風に属する類であった。風には、野に咲く小さな花を優しく揺らす小風もあれば、人間の住む建物を軽々と分解させるほどの暴風もある。彼は後者に近しい風の力を借り受けて、鉄球を猪へと飛ばしたのである。


 結果、鉄球は目にも映らぬほどの速さで飛翔し、残らず猪の顔面へと食い込んだ。外皮を破り、肉を穿ち、生命の飛沫を散らしたのだった。


 猪には、何が起こったのかも分からなかっただろう。自分が死んだことさえも。


 命を失った肉体はなおも走りを止めなかったが、しかし脚をもつれさせ、その軌道を大きく変えて横倒れになった。地の表面を舐めるように滑り、そして間もなく動きを止めた。鉄球の穿った傷跡から、赤黒い血液がとめどなく溢れてくる。


「……慣れないことは……するもんじゃないな……」


 見事に猪を退治したソルトだったが、実のところはギリギリの勝利であり、少しでも対応が遅れていれば少なからず痛い思いをしていただろう。猪の滑走跡が彼のすぐ側に作られたことからも、決して余裕があったとは言えないことを証明している。


(まあ、助かったから良しとするか)


 ソルトはすぐに思考を切り替えて、倒れた猪の元へと向かった。猪の死体をそのまま放置して先に進む、というわけにはいかないからである。埋めるなり持ち帰るなりと、何らかの処置を施さなければならない。なぜなら、猪が流した血の臭いによって、他の獣たちが集まってくる可能性があるからだ。


「さて、どうしたものかな……」


 猪の死体を見下ろしてソルトは悩む。


 なにせ、肉塊の捌きなどをしたことがない彼である。幼い頃に大人たちが捌いていたのを見ていたことは覚えているが、実際に自分が捌いたわけではないし、それも物心がつく前のことであったから、あまり覚えてもいないのである。


 そうやって彼が悩んでいるそこに、


「どっこいしょー!」


 と、猪が出てきた草むらから、飛び出してきた人影があった。

 声から判断するに、少女である。


 背はソルトより頭一つ分高いが、年恰好は分からない。目元には色付きのゴーグルを掛け、頭全体をマスクで覆っている。手には大事そうに銃を抱え、上下には濃緑色の防護服を着込み、背には小さな袋を負っている。恐らくは獣を退治するための、選りに選った装備なのだろう。


 それらの装備から判断するに、相手は狩人のようであった。


「あ、君! 大丈夫!?」


 ソルトの視線を感じたのか、或いはその足元に転がっている猪の肉塊を視界に入れたのか、その少女は彼の側へと慌てたように近寄って、その頭や身体を軽くはたくように触れていく。


「……あの、怪我は無いですから」


「それは良かった!」


 困惑しているソルトの言うことを信じることなく、確かに怪我が無いことを自身で確認した後、少女は軽く息を吐いた。


「いやね? 追っていた猪の先に人がいるなんて思ってなかったからさー、慌てちゃったよね。迂闊だったなー!」


「迂闊ですね」


「……はい。迂闊でした、ごめんなさい……」


 少女は抱えていた銃を背負うと腰を曲げ、ソルトに向かって頭を下げた。どうやらソルトが思っていた以上に気にしているらしく、その姿はどんよりとした重たい影をも背負っている。


「……まあ、こうして無事でしたから。頭を上げてください」


「いや、ほんとにごめんなさい。お詫びってわけでもないけど、猪の処理は任せてくださ――」


 頭を上げている途中で、少女は言葉を止めてソルトの顔をじっと見始めた。


「んん?」


 そして再び遠慮も容赦もなく、彼の頭や身体をペタペタと触り始めた。フードを外し、髪の毛を梳き、掛けていた眼鏡も取り外す。睨むような彼の紅い眼をじっくりと注視しながら、背の高さを測ったり、脇の下に手を差し入れて身体を持ち上げたりしている。


「……あの?」


 困惑を隠せないソルトの声を聞いて、少女はようやく合点がいったらしい。

喜色を交えた笑いを上げつつ、少女は彼の頭をポンポンと軽く叩いた。


「君、ソルトでしょ? 昔と全然変わってないから驚いたよ! 背もほとんど伸びてない! 声すら変わってないとは思わなかった! 髪はすっごい伸びて跳ねてて、少し可愛くなってるけど!」


「……君、誰?」


「あれ? 忘れちゃった? 私だよ、わ・た・し!」


 少女はゴーグルを外し、頭を覆っていたメットを取った。


 炎のような赤い髪が一瞬舞うように広がり、すぐに白い首元へと毛先を揃える。短めの前髪の下では、澄み切った清水のような色を湛えた碧眼がソルトの紅眼を懐かしむように見つめている。顔貌のパーツは小さく綺麗に整っていて、美人と評される類の人間だ。


「ああ、シュガー姉さんだったのか……」


「そう! 私の正体は、君の姉貴分のシュガー姉さんだったのだよ!」


 シュガーは朗らかな笑みを浮かべながら、ソルトの顔を見下ろした。その太陽のように明るく眩しい表情は、彼の脳裏に幼い日々の記憶を呼び起こしてゆく。


 押されて転んで水たまりに飛び込んで泣いたところを笑われたり、服と背中の間にカエルを放り込まれたり、野生の毒キノコを共に食べて笑い死にそうになったり……。


(……うん、ロクでもない思い出ばっかりだな)


 しかしそれでも、懐かしいものだとソルトは思う。長じてからは道を分かち、彼は村を出て、彼女は村に残ったのだ。


 村を出てからはもっぱら知識と技術を吸収することに専念していた彼であるから、故郷から月に二、三度くる便りに目を通す暇も無かったが、どうやら彼女は立派に仕事を獲得し、彼女なりに職分を果たしているらしい。


(仕事に就けなかった僕とは大違いだな……)


 自身と相手の社会的立場を鑑みて、ソルトは静かに肩を落とした。


「ん? 久しぶりの再会なのに元気ないね? どしたの?」


「……いや、なんでもないよ」


「そう?」


 シュガーは首を傾げつつも、それほど気にした様子も無く、肉塊となった猪の側にしゃがみこんだ。確かに生命が失われていることを確認すると、何事かを低く呟いた。


 後からソルトが聞いたところ、呟いた言葉は狩人としての、獲物に対する儀礼のようなものであるらしい。生命に対する祈りと思っても、間違いではないそうだ。


 祈りを終えると、彼女は背負っている袋から小ぶりのナイフを取り出して、さくさくと肉塊の解体を始める。


 その捌きは実に鮮やかで、手の動きに迷いがない。皮を裂き、肉を部位ごとに分け、内臓も傷つけることなく取り外していく。捌いた臓物や肉だけではなく、血液にも利用価値があるらしい。流れてしまったもの以外はしっかりと管のような魔道具で吸い取り、皮袋にしっかりと封入していた。


「ま、こんなところでしょ!」


「へー、見事なもんだね。すっかりベテランの狩人って感じだ」


「まだまだ半人前だけどねー」


 捌いた獲物を冷気袋に保管した後は、その場を掘って血の臭いがついた土をしっかりと埋めていく。土を掘る道具も背負った小さな袋から出ており、その袋もどうやら魔道具らしいことが伺えた。


「狩人も魔道具を使うんだね」


「そりゃあ、便利な物は使っていくよ。わざわざ不便な思いをすることはないしさ!」


「ごもっとも」


 捌いた獲物や荷物を背負い袋に放り込むと、シュガーは立ち上がった。軽く伸びをし、骨を軽快に鳴らして、背負った銃を抱え持つ。


「いやー、それにしてもこんなところでソルトくんに会うとはね! 学校の方は順調なの?」


「んー……まあ一応」


 彼は、学校を卒業したとは口に出さなかった。言ったのならば、その後どうするかを聞かれるのが分かりきっているためだ。今後どうするつもりなのかは、彼自身ですらもまだ考えてはいないのである。


「そっか。まあ、こんなところで立ち話もなんだしさ。家に帰ろうよ。おじさんとおばさんもソルトくんの顔見たいだろうし、学校の話とか聞きたいだろうしさ!」


「学校の話はともかく、帰ることには賛成だね」


「よしよし! では出発ー!」


 シュガーはソルトを引き連れて、山道を進んでゆくのだった。

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