2章 24話 追加参戦

『美歌ちゃんまだ悩んでるんか?』


「うん……」



 男爵家の屋敷、そのあてがわれた一室の窓から見える町をぐるっと囲う外壁を浮かない顔で眺めている美歌に、テンが何とか励まそうと声を掛けた。

 彼女が落ち込んでいるのは彼のモチベーションにも関わってくる。心なしかいつもピンと張っているヒゲも萎れているようだった。


 ただ美歌が気にしているもはもちろんそんな圧迫感のある無機質な壁ではなく、本当はその先――あの巨大な敵がやって来るのを見たかったのだ。

 それが壁に邪魔され、モヤモヤとしたものを胸の内に潜ませながら外の景色に目をやっている。


 今頃、兵士や冒険者、それに同じ大和伝のプレイヤーである葵が決死の覚悟を持ちあの向こうで戦っているはずだ。だというのにそれに加わるのを拒否した自分が屋敷の屋根から高みの見物をするのは間違っているんじゃないか、というもどかしい想いを抱いていた。


 ここから分かるのは兵士たちが住人の避難を進めようとしているが、ほとんどの人はまともに取り合っていない様子が垣間見えるぐらい。

 外壁の高さを超える建物は少なく、また危険だからと正門は閉じているのであの化物を直接目で見た人があまりいないせいだろうか。

 美歌はそれを異常だと思いながらも、ひょっとしたらみんな平気そうだしこの世界ではよくあることで大丈夫なのかな? と無理やり気持ちを抑えて思うことにしたが、やはり気分は晴れない。

 


『美歌ちゃんの選択は間違ってるとは思わんよ。勝てるかも分からん敵に突っ込むんはアホのすることや。それに若様を護る仕事もあるんやし』

 

 

 美歌が衣食住のお世話になっているドリストルム男爵は一人息子――ジークの命を助けてくれた彼女にいたく感謝し逗留とうりゅうを勧めてきた。

 最愛の妻が死に、その負った心の傷の隙間を埋めるかのように美歌に息子がくっついて離れなくなったのもある。

 さらに接していると美歌が奇跡的な術を備え、身体能力も一流の戦士を超えるものを持っていることを知った男爵は、美歌に食客として息子の護衛を頼むことにした。

 その後、美歌が始めた治療活動で聖女ブームが起こり、その尻拭いなどに忙殺されていくことになっても男爵は後悔は一度もしていなかった。


 現在、彼はもし何かあればジークを抱いてこの町を離れて欲しいと言い含めて、ゴーレムから町の人間を避難させるために領主不在の中、町の主立った者たちが集まっている会議へと出席をしている。

 残念ながらあまりにもゴーレムが到着するまでに時間が無さすぎ、また平和ボケした町の人間がまともに受け取らずほとんど機能していなかったのは皮肉な話であったが。


 

「でも、あんなに薄情にならんでも良かったかなぁって。何か自分が嫌になるわ」



 元から人の目を気にして引きこもりがちになった少女が、この世界に来てすぐ遭遇したのが人間の悪意だった。

 短絡的に他人を殺して糊口ここうを凌ごうとする浅はかな男たち。あの体験は今も人間不信の一つとして美歌を縛っている。

 今でこそこの屋敷で一月以上住んでいるから全員とはいかないまでも一部のメイドたちとは親しく慣れてきている部分もあったが、それでもそういった精神の惰弱さは未だ克服できていない。

 それが葵とコミュニケーションが上手く取れずに意固地になってしまった要因でもあった。



『気にすることはないで。ワイは美歌ちゃんの選択を支持する』


「そっか。ありがとう」



 美歌は薄く微笑む。

 テンは決めることがあった場合、たいていは美歌に選ばせてきた。

 自分で主張をすることは少なく、あるとすれば葵との会談のような危険に関わる場合ぐらいで、彼女の決断を尊重する動きを見せる。

 それは美歌にとって楽なことではないが、自分のことを思ってくれているんだということは理解できた。

 もし命を捨てなければいけない場面でも彼は迷わず自分を助けるだろうと、この世界での本当の味方は彼だけなのだという実感がある。

 ゆえに結果は芳しくはなかったものの、彼の意見でメイドたちに嘘を吐かせ影武者を立てたのもフルプレートの鎧に隠れる案にも黙って従った。



『こう考えたらええ。もし本当に倒せる程度のものならあの葵って姉ちゃんが倒してくれるし、無理なら端から無理やった。それだけや。【忍者】は素早いから逃げ足だって速いやろうし大事にはならんやろう。あの姉ちゃんもやばくなったらすぐ逃げるて』


「そうやね。無理はせんよね」



 テンの気遣うようなフォローに、同じプレイヤーを見捨ててしまったという負い目による罪悪感が少しだけ軽くなる。

 言っていることも間違っていないと思うし、確かに逃げるだけなら簡単だろうから。

 ただここで美歌は、葵が他の人間を見捨てて逃亡を選ぶ人間ではないことを考えきれていなかった。その思考は楽観的な希望的観測が多分に入っている意識がない。幼い少女としては無理からぬことではあったが。

 

 そこに、トントン、とノックの音を耳が拾う。

 「どうぞ」と美歌が言うと勢い良くドアが開かれ身なりの良いブロンドの髪を短く揃えた小さな男の子が飛び出してきた。

 その子は美歌を見つけると真っしぐらに向かってきて腰に抱き着き、頭を撫でられると純粋な弾ける笑顔を見せる。



「ミカ! 用事は済んだ?」


「うん? あぁまぁ一応な。ジーク」



 迷いのある表情で窓の外を一目だけ見て美歌は吹っ切るようにカーテンを閉めた。


 まだ八歳のジークと呼ばれた少年はあの事件から自由時間があると、刷り込みされたカルガモの親子みたいにずっと美歌の後を付いて回ってくるようになっていた。

 さすがに毎日そうだと煩わしさも感じなくもなかったが、基本的に頼られるのは悪い気はしない美歌にとって弟のような存在となっている。



「坊ちゃま、無作法ですよ。そのようなことを目の前でされてはマナーのお勉強の時間を増やさなければいけません」


「えー! ごめんなさい! 許して!」



 ジークの後ろから部屋に入ってきたのは葵との顔合わせのときにもいたメイドのニナだ。

 自分が憎まれ役だというのを自覚している彼女はお小言を紡ぐのが日課で、ジークからはあまり良い印象を抱かれていないのが澄ました顔の裏での悩みの種だったりする。

 ただこうして、しゅん、と怒られた子犬のように上目遣いに懇願してくる彼を見ると同時にゾクゾクと刺激されるような嗜虐心も感じていた。人間色々ある。



『なかなかの業を背負っとるな』



 この中でそれを見抜いているのはテンぐらいだ。

 


「みんな避難はしないんですか?」


「旦那様からは自由にして良いとはご指示頂いており一部の者は家族の元へと帰りました。ですが半分以上は残っております。帰るところもありません――いえここが私たちの帰る場所ですから」



 ニナは途中で横に首を振って言い直した。

 ドリストルム男爵はメイドや下男などを雇う際に、身寄りがない者をあえて選んできた。

 住み込みで働くとなればなかなか家にも帰れない職業柄もあり、毎日顔を合わすのだから雇い雇われの関係だけでなく、ここを自分たちの家と思って欲しいという願いがあったからだ。

 自然と他の貴族家より使用人との関係は気安いものにはなったが、それを彼女も快く思っていた。

 だからジークの母が盗賊に襲われて亡くなったという訃報を聞いた時は、家中の者たちが数日何も手に付かないほどに呆然としむせび泣いた。

 その有様に、ここの貴族は使用人たちに慕われていて、やっぱり悪いのはあの盗賊たちの方だったんだと美歌は再確認するに至る。

 そして夫人の忘れ形見であるジークを助けてくれた彼女に一同が大いに感謝を述べ、世話をすることに決めたのだった。



「でも本当にやばくなったら逃げて下さいよ。私じゃ全員を護れないと思いますし」



 美歌の自己評価が低いのは性格のせいもあるが、【巫女】という後衛寄りの職業であることと、あまりPvP対人戦の経験が無いこと、そしてここの世界に来てからほとんど戦ったことがないことにある。

 大和伝のモンスターであれば動きのパターンはあるし、見た目は怖くてもしょせんはAI。

 けれど自分の力がどこまでやれるのかの研究も進んでおらず、前情報がほとんど無いリアルの相手にどう戦えばいいのか分からなくて怖気づいてしまっていた。

 そういう意味では屋敷でぬくぬくとしていたツケが今きている。



「もちろんですわ。でももし私たちに何かあってもミカ様は坊ちゃまを優先的にお守りして頂きますようお願い致します」


「それはそうしますけど……」



 美歌としては危機に直面したら仲良くなったここにいる全員を助けてあげたい。

 でもジークの母親が死んでこの屋敷の住人たちはジークの優先度が高くなっていた。それは自分の命を差し置いてもだ。忠誠心の高さやアットホームな雰囲気は美歌にとって居心地が良かったが、あまりにもその考えは危うい。

 だからこそ彼らの身が心配で葵の誘いに乗ってあまりここから離れたくなかったという面もある。 

 そんな彼女たちの真摯しんしな思いに逆らえずそんなふうに言うしかなかった。



「大丈夫だよ、この町の兵士は強いって評判なんだ。どれだけ大きい魔物だろうとダルフォールさんがやっつけてくれる!」



 ジークがそう言って場を和まそうとした瞬間だった。

 いきなり外壁が爆散し、けたたましい音の衝撃波が遠く離れたこの屋敷にまでガラスを揺らし伝わってくる。

 それどころで収まらず突然発生した稲妻は町を斬り裂いた。

 石畳は一瞬で黒焦げになり、直線上の建物は無残にもえぐられる。


 もうもうと崩れた外壁に煙が立ち込め黒い影がスクリーンのごとくぬっとそこに映った。

 いや、頭は上にはみ出ている。それほどの巨大さ。

 屋根の上から一度確認した折はここまでハッキリと見られなかったが、それは石でできたゴーレムのようだった。

 そいつは無遠慮に開いた壁を通り、堂々と町へと侵入してくる。


 そしてそれまで静寂だった町の至るところから悲痛な悲鳴が湧き上がった。



「な、なんやあれ……」


『あ、改めて見ると、ご、ごっついな……』



 今まで軽口を叩いていつも大人ぶってたテンですらあまりの衝撃に平静さを欠いて唖然としている。

 美歌ですら足元にいたら首が痛くなるほど見上げないといけない巨体。テンからしたら本当に山のようなサイズだろう。



「あれが入ってきたということは……」



 ニナの言葉にその続きを連想した。

 それは町の外で迎撃に出向いた兵士たちが――壊滅したということだ。

 


「そんなアホな!」



 美歌の記憶の中では強面のボディービルダーのようにムキムキな兵士や冒険者たちが数百人規模で事に当たったはずで、その中にはレベル百の【忍者】だっていた。

 それがやられたという事実に美歌はおののく。



「うちが助けんかったからみんな死んだんか!?」


 

 てっきりあの強そうな大人たちが勝手にやっつけてくれるものだと美歌は思っていた。

 対岸の火事のようにどこか他人事で、自分が何もしなくてもあれだけの数の戦闘のプロがいて負けるはずがないとタカをくくっていた。

 なのにそれが間違いだったと痛烈に思い知らされる。


 急に手に体温を感じる。

 ジークが震えながら美歌の手にすがってきていたのだ。



「ミカ、怖いよ……どうしよう……」


「し、心配せんでいい。逃げるだけならできるから」



 子供一人を抱えて逃亡するだけなら簡単だった。

 そういう意味ではまだ彼女には虚勢を張れる余裕がある。



「ミカ様、私どもは手荷物をまとめ町の外に逃げる準備を早めさせて参ります。ジーク坊ちゃまを何卒、お願い致します」


「それは任せてください。でもまずはみんなで逃げましょ」


「分かりました。では玄関ホールでお待ち下さい。すぐに支度をして参ります」



 いつも動じないニナですらあの壁を破壊して町を蹂躙しようとしているゴーレムを目にして青い顔を隠せなかった。

 それでも彼女はジークを美歌に託し務めを果たそうと部屋を出て動き出す。



「ミカ……」


「とりあえずうちらは下で待機や。みんなの準備が整ったらすぐ移動するで」



 不安そうなジークを連れて屋敷のエントランスホールへ向かう。

 屋敷の一人息子でまだ子供のジークには荷物は持たせられないし、美歌はウィンドウに仕舞えるので整理の必要もなく、普段では絶対に聞けないドタバタと音を出して走り回るメイドや使用人たちの足音を待った。

 今か今かとやきもきしながら待機していると外から誰かの騒いでいる声が聞こえてきた。



「何やろ?」


「私が見て参ります」



 すでに準備を終えて他の者を待つだけだったニナがリュックを降ろし、玄関扉から出て行く。

 美歌は興味本位からその扉を少しだけ開けて隙間から様子を覗いた。



「いいから聖女を出せよ! いるのは分かってるんだ!」


「何とかして下さい! 子供が瓦礫に挟まれて怪我をしたんです!」


「俺らの金で良いもん食ってるのに、逃げようとするのかよ! こういう時こそ体を張れよ卑怯者!」



 彼女が目撃したのは、庭を挟んで門扉の向こう側で大勢の人だかりが何やら興奮して大声で叫んでいる光景。

 好き勝手に罵声を浴びせたり不満をぶつけている者が大半で、それはなぜかこちらに敵意を向けてきていた。

 あまりにも要求がバラバラなのに共通していることは、彼らが持っているストレスや批判がこちらに収束しているということだけ。

 まるでデモのようで、膨らんでいつ破裂するかもしれない風船のようにも感じられた。


 その穏やかではない集団の前に立ちはだかるのは今出て行ったニナだ。

 彼女は事態をすぐに察して自分一人で矢面に立とうとしていた。


 数十、あるいは数百にも至る集団の剥き出しの感情に晒される中、ニナは良く通る声で毅然と言い放ち頭を下げる。



「私は当家のメイドです。主は町の避難誘導のなどを設定する会議に出掛けており現在不在です。現在は緊急事態ですのでご用件はまた後ほど窺わせ頂けますようお願い致します」



 しかしその堂々とした態度が勘に触ったのか、返答が宜しくなかったのか集団の熱気は輪をかけて大きくなった。



「ふざけんな! そんな嘘信じられるかよ、とっくに逃げ出してるんだろ! 責任を取れよ」


「聖女がいるだろ聖女が! あの化物と戦わせろよ!! 俺らを護れ! それが義務ってもんだろうが」


「婆ちゃんが倒れて目を覚まさないんだ! 助けてくれよ!」


「俺らを置いて逃げ出すのなら屋敷に火を点けるぞ!」


「聖女様なら必ずや私たちをお救い頂けるはずです! さぁみなさん祈ろうではありませんか」



 もはや正気を失った暴徒だ。

 最初こそは逃げる際に怪我をした家族を癒やしてもらおうと集まった人が数名で、そこから不満を誰かにぶちまけないと平静を取り戻せない者が徐々に集まりこのような暴動一歩手前となっていた。中にはこの騒動を利用して火事場泥棒を働こうと考えているやつまで実はいる。

 野次どころの話じゃなく、鉄で作られた門扉もギシギシと揺れて嫌な音を立て始めていた。


 それを見て美歌は身がすくみそうになる。

 あの門が壊され外れればどうなるか、想像は容易いからだ。きっと枷が無くなった彼らは勢いそのままに雪崩込んでくるだろう。

 ここで貴族や聖女をバッシングしたところで自分たちが助かるはずもないのに彼らは責任を押し付け縋ろうとしてくる。

 言っていることも無茶苦茶ですでに理屈ではなくなっており、追い詰められた精神が人間を異常へと駆り立てていた。

 行き場の無くなった群衆が何かを求めてくる姿はただただ恐怖でしかない。



「な、なんなんやあれは!」



 ヒステリーになった民衆の心など理解できるはずもなく、あまりにも想像を絶する外の光景に美歌は身を震わせた。

 同じく覗いていたジークが強く手を握り返してくる。


 美歌がパニックにならなかったのは年下である彼が傍にいるからに他ならない。ギリギリのところでこの年下の少年を守らなければならないという意志が彼女に気力を与えていた。



『こりゃあ厄介やな。ジーク一人だけなら抱えて逃げられるやろうけど、あんなに取り囲まれてたらメイドたちが逃げられへん』



 美歌たちの足元からひょっこりと同じく外を窺うテンはそう分析し、背筋が寒くなるのを感じる。

 さっきのやり取りが本当になったのだ。ここまで一ヶ月半ほど一緒に同じ屋根の下で生活してきた仲の深まったメイドや使用人たちを置き去りにしなければならない状況がやってきてしまった。



「そ、それはあかん。そんなん受け入れられへん!」


『それやったらあいつら全員ボコボコにして逃がそう。数分もあればワイと美歌ちゃんならやれるやろうし、術を使うならすぐ終わる』


「それもちょっと待とうや。だって中には怪我をして治して欲しいってだけの人もいるんやで?」


『せやかてそれが誰かなんてあの人数の中から選別している暇なんてあらへん。あんなんまともに説き伏せるのはもう無理やろ。冷静に話し合うタイミングは過ぎとる。しかも向こうが勝手に打ち切っとるんや。見知らぬあんな虫のいいことばっか言うやつらよりも、世話になったこの屋敷の住人の方が大切ちゃうかな?』



 子供のダダをあやすかのようにテンは選択肢を突き付ける。

 分かりやすい二択だ。

 時間もどれほど残っているのかも分からない。遠く離れたここでも町が破壊されている音は終始耳に響いてくる。急がなければならない。

 美歌の頭の中は混乱していてうまく回らなかった。 


 力ずくで暴徒を排除するというのならそれは美歌にしかできないことで、それはつまり自分で責任を持って行動しないといけない。

 もしここで負った傷が原因であそこのいる誰かが逃げ遅れ、あのゴーレムに潰されたならそれは美歌の行った結果に起因することとなる。 

 他人を押しのけてまで自分の我を通し、自分の大切なものを護るかどうかそれを決めなければいけなかった。


 再び運命は重い決断を美歌に迫ることになる。



「何を言われようと私共の返答は同じです。主は不在であなた方の要求にはお応えしかねます。聖女様もあのような化物を倒せるような力は持っておりません。お引取り下さ――きゃっ!?」



 興奮しきった民衆の視線と悪しざまに言う声を一身に受け続けていたニナが急に倒れた。

 その原因は石だった。誰かが苛立ちと共に彼女に足元にでも落ちていたそれを投げ付けたのだ。

 不幸にもそれはニナの額に当たり、薄く肌が裂けて血が滲んでいた。

 


「あいつらっ!!」



 カっとなった美歌はジークが掴む手を離し、扉から出てしまう。

 屋敷から出てきた奇異な格好をした彼女を数十の瞳が射抜く。

 勇んで出てきたのにたったそれだけで膨れ上がった怒りの火が小さく萎みそうになった。



「ミ、ミカ様。出てきてはいけません! これぐらい大したことありませんのでお戻り下さい」



 ニナは自分の負った傷よりも美歌を気遣う姿勢を見せてくる。その素振りが憐れに思えて余計に美歌の暴徒たちへの心を逆撫で、消えそうになった怒気がまた膨らんでいく。

 そして彼らの中にはこの関係性に気付く者が出始める。



「おい、あれがひょっとして聖女じゃないのか?」


「あれが? まだ子供だぞ? あんなのが聖女様なわけがあるもんかよ」


「メイドが庇ってるし、見たことのない服を着ているし、あり得ると思うぞ」



 ある意味では美歌の登場によってここで一旦勢いが薄まったのだが、火に油を注ぐが如く美歌は『降神術』を使用してしまう。

 


「―【降神術】少彦名命すくなびこなのみこと 薬泉の霧―」



 彼女がSPを消費することによって喚び出した少年のおかげでみるみるうちにニナの傷が治っていき、仕事が終わるとその姿が消える。

 その不可思議な現象を目の当たりにした人々はぽかんと口を開けて眺めていた。

 


「ま、マジかよ。あれは何だ? 精霊か? 怪我を治して消えたよな?」


「尊い……まるで女神様のように優しげだった」


「じゃ、じゃああれが本当に聖女様?」



 目の前にいる少女が奇跡の術を使う聖女だというのがその場にいた全員に知れ渡っていく。

 まだ半ば信じきれていない者もいたが、目の前で起こったのは確かに自分たちがよく知る魔術とは一線を画す奇跡だったのだ。

 疑いようにも疑いきれない。



「せ、聖女様助けて下さい! うちの子も怪我をして動けないんです!」


「そんな力があればあの化物もやれるぞ! 俺たちは助かる!」


「聖女様万歳!! リィム様万歳!!」



 それが分かると反応は劇的だった。

 少しの間、収まっていた熱気はぶり返す。いやむしろひどくなったかもしれない。

 今まで八割が罵声だったのが反転したので多少はマシになったと言うべきなのかもしれないが、収集がつかない騒ぎとしては一段増してしまった。

 

 美歌はなおも自分勝手に喚き立てる『大人』たちに憤りうんざりしていた。

 だからこれ見よがしに術を使ったのだ。



「お前らなんかにこの術は使わん。絶対に助けてやるもんか! 順序いうもんがあるやろう! 助けて欲しかったら手を付いて土下座して今すぐ謝れ! そんなんもできないんやったらお前らなんか死んでしまったらいいんや!」



 怒りに任せてこう言い放つために。


 それはあまりにも幼稚な衝動だった。

 意地が悪いと言い直してもいい。メイドには使うがお前らには使わない、と見せつけるためだけにやった無為な行動だ。

 

 無論、美歌の視点からは彼らはあまりにも好き勝手にほざいて誰もそれをかえりみようとせず、世話になっているメイドまで傷付けた悪人でしかない。

 自分が被害者だからと居直っている厄介なクレイマーのようなものだ。それに怪我を治して欲しいだけの人もそれをいさめようともせず、それは美歌からすると同罪だった。

 そんな人たちに彼女が情けを掛けなければいけない道理などどこにも存在しない。

 せめて頭を下げてお願いしてくるのなら筋も通ろうが、やってきたのは上から目線の脅迫のようなもので、彼らの中ではもう美歌が怪我人を癒やし戦いに赴くと決まっていた。そんなものに応じる気持ちなど一欠片も湧かなかった。


 テンに全員をボコボコにしようと提案されつい止めてしまったが、それも構わないとさえ考えるほどに今はストレスを感じている。

 『大人』に任せておけばどうにかなると思っていた美歌。でもこんなのが大人ならそりゃあ上手くいかないわけだ、と変な納得の仕方をしていた。



「ふ、ふざけんなこのガキが!!!」


「そんな不思議な魔術が使えるならあれを止めるために兵士たちに協力してこいよ!」


「こんなでかいお屋敷に逃げ込んで卑怯だろうがよ! 冒険者たちもみんな命張ってんだ。お前だけ安全な場所で何を逃げようとしているんだよ!!」


「俺たちは何の力もない一般市民なんだぞ。力持ってるやつが働くのは当然だろうが!」



 どっちもどっちと言うべきか、いくら聖女でも年下の女の子にここまで散々にけなされ素直に反省や謝ろうとする人間は少ない。

 そもそもそんな冷静な人間が多ければこんな事態になってはいないということもある。

 ただ美歌のこの言動は火に油どころかガソリンをぶち撒けたかのように燃え盛った。

 


「そっちこそふざけんなや! ただ逃げればいいものを人の邪魔して、やれ卑怯やとか自分らの代わりになって戦えやとかお前らの方こそなんやねん! あまつさえ人を怪我させて! 男爵さんはやれることやっとるし、うちがお前らを体張って護る義理がどこにあるんや! 自分だけが被害者面すんな、うちらも被害者なんや!」

 

  

 人見知りを起こしていた美歌は、ここにきて幸か不幸かあまりの憤怒にそんなものとうに吹っ飛んでいた。

 目を吊り上げ物怖じせずに真っ向から向き合う。

 その様子を斜め後ろから観察しているテンは嬉しそうに眺めていた。

 


『せや、自分らが弱いから助かりたいのは分かる。だからって強いもんが前に出なあかんことはないし、少なくてもこんな悪意を向けられて動くはずがないやろ! 少しは脳みそ働かせろやボケナス共!』



 テンからするとこの世界の人間全てと美歌のどっちが大切かと聞かれれば迷いなく美歌と答える。それほどまでに優先順位に差があるのだ。

 だから怒りに我を忘れたこんな状況で荒療治でも彼女が精神的にタフになっていっていることに喜んでいた。

 ちなみにこの中でテンの言葉が分かるのは美歌だけなので、キーキーとたぬき顔の小動物が喚いているようにしか映ってないが、それでも何かしら動物も主人の味方をしているっぽいことだけは伝わっている。



「失望したわ! 聖女様がこんな短慮な子供で、力を女神様から授けて頂いている意味も理解していないなんて!!」


「生憎とな、うちはその女神様から何にもお世話になったことはないんや。何が聖女や。お前らがうちの何を知っとんねん! 今まで許可も取らんと名前使って商売して、勝手に理想作って勝手に失望して、それで次はあの化物と戦えやと? お前らがうちを使い潰そうとしている魂胆は見え見えなんや。別に感謝しろとは言わんけど、寝たきりの怪我人もいっぱい治したのに何か一つでもお前らがうちにしてくれたことは何かあるんか? あるんやったら言ってみろや!」

 

「まぁ! リィム様に向かってそのような不遜な発言! やはりこんな人間を聖女なんて呼ぶのは愚行でしかないわ!!」


「そもそも聖女って何やねん。神様の代弁者とかそういう意味ちゃうんか? うちが一回でもそんなこと言ったか? したか? 単に怪我人治しただけやろが。力しか見てないくせに好き勝手なことほざくな!」


「きぃぃぃぃ!!! 力の使い道も知らない子供が偉そうにぃぃぃ!!」



 教会のロゴが描かれたペンダントを握りしめるやや宗教じみた女性が、ヒステリックに唾を吐いて反応した。

 補足するなら女神様らしき存在からポーションはもらってはいる。ただそれだけで他に何にもされておらず、むしろ美歌は女神には不親切という印象を持っていた。

 この内包する力も大和伝の術もあっちのもので、むしろそいつのせいでこっちに落とされた可能性だってあり、その女性が信奉している神様に感謝などできやしないのが現状だ。 

 もっと言うならそんなやつの代弁者などという肩書きはお金をもらってもいらないというのが本音だった。



「だったら、怪我だけでも治してくれよ! 骨が折れてるかもしれないんだよ」


「これだけ悪口言われてて止めもせんくせによう自分らだけ欲しがるな! 他にも治癒できる人はいるやろ、何でうちにだけ頼むねん」


「お前は無償で治してるだろうが! 俺も治せよ!」



 すぐさま完治させるほどの高位の治癒師ヒーラーは少ないが、確かに治療できる人間は他にもいるし応急処置ぐらいは自分たちでもできる。

 ぱっと見、すぐ死にそうな重傷者も見当たらない。そんな努力の跡も見えずただ一目散にここを目指した短絡的で面の皮が厚いそうした面子にも同情は向かなかった。

 自分や自分の家族のことが心配なら、なぜその何分の一でもこっちへ擁護の心を回してくれなかったのか。味方になってくれなかったのか。

 美歌の幼く癇癪を起こして狭量となった精神にはそれらがわだかまりとなって引っかかっていた。



「何やねん、大人のくせに……!」



 悔しくて目を瞑り思いっきり拳を握る。

 完全に美歌はこの世界の住人のせいで傷心し落胆していた。

 もちろん全員がそうだったわけではないが、盗賊しかり、ここにいる人々しかり、まだ十三歳の彼女に人間の卑しい部分が曝け出されてばかりで心は失意の底にまで沈まされていたのだった。


 ――こんな醜くて汚い世界なんていらんやろ!


 彼らは美歌のことを一ミリも分かろうとはせず、聖女という虚像を創り出して自己中心的にそれを当てはめようとしてくる。

 他意があろうと無かろうとこれではイジメだ。

 まだ幼さの残る双眸からは理解不能の化物たちを相手にして涙が滲む。

 

 何を言っても無駄でもう押し問答しているも限界。言葉で言っても変わらないのであればあとは力ずくで退かすのみ。

 最終的にそう結論を出しウィンドウから薙刀を取り出そうと指を動かそうとした時だった。



「――いい加減にして!!」



 美歌よりも一層幼い声がその重苦しい空間に響き渡り上書きをする。

 驚いた彼女が振り向くと自分のすぐ後ろにお屋敷から抜け出したジークがやってきていた。

 彼は目蓋に涙を溜めながら下から美歌を睨め付ける。

 

 ジークからそんな感情や顔を向けられたことが初めてで美歌は怯えて及び腰になった。



「ジーク……どうしたんや?」


「何やってるんだよ! 喧嘩する必要なんてないだろ! 何で仲良くできないの!」


「ジーク、そういうことやない――」


「そういうことだよ! 僕たちが言い合って一体何になるの!? 悪いのはあいつだろ!」



 彼が指を差すのは今なおも我が物顔で暴れているゴーレム。

 外で迎撃していた兵士たちは全滅したわけではなく、救援がやってきていてまだ戦いは継続しているようだった。



「それは確かにそうや。でもここにいる連中が邪魔するんやったら蹴散らすしかないやろ。みんなとあいつらならうちはみんなを優先する。他がどうなっても構わへん」



 今なお美歌と民衆の意思は平行線だ。

 そんな不毛なやり取りを続けるつもりはとうに無くなっていたので、彼女から荒っぽい言葉がつい口から出てしまい、それを察してジークは決意する。



「ミカ。ミカは言ったよね。頼みたいなら土下座しろって」


「ちょっとジーク!」



 言ってその場で彼は手と膝を地面に突いた。

 美歌は突然のその行為に度肝を抜かれ血の気が失せそうになる。


 年下の少年でしかも自分の護衛対象。それにずっと一緒に暮らしてきた弟のような存在が、そんな暴挙に出るなど想像もしようもなく大いに面食らってしまう。

 一方、子供とは言え本物の貴族が土下座したことに、門の前の人間たちは気後れして一心不乱にその二人のやり取りを見つめ始めた。

 


「あの人たちの言ったことは僕が全部代表して謝ります。ごめんなさい! ミカの気が済むまで僕が謝ります。だからどうか力を貸して下さい! この町を救うためにミカの助けが必要なんです!」


「ジ、ジーク……」



 額を地面に付ける。

 ジークの伏した懇願にわなわなと唇が震え混乱して、美歌は二の句が継げなかった。

 


「私からもお願い致します! あの方々のことは謝罪致します。どうかお力添えをお願い致します」



 そこにニナも加わる。

 彼女はジークの隣に来て同じように額を地面に付けた。

 さらに屋敷の隙間から覗いていた他のメイドや使用人たちも走って駆け付けてきて同様の行為をしていく。


 十数人の叩頭による謝罪と嘆願に、もはや一般人を傷付けるという覚悟までした美歌もたじろぐしかなかった。



「何でなん、何でそこまでやれるん!? あいつらはさっきまでみんなを非難していたんやで!? 何であんなやつらのために頭を下げれるん!?」



 理解ができなかった。

 門の外にいる人間は全員敵だとすでに認識していたのに、それを味方だと思っていたジークたちが庇おうとするなんて、その行為があまりに理解の範疇外で心が拒否をする。

 


「あの人たちの言い分でご納得されないのは当然です。美歌様がおっしゃっていることが正論なのも彼らは分かっています。なのになぜ逃げずにここで留まってあなたに縋るのか? それはカッシーラを壊されたくないからなんです。逃げても町が破壊され戻る場所が失くなれば意味がない。愛する故郷を守りたいという想いがパニックになって歪んであなたに伝わっているだけなんです。同じくここに暮らす住人としてそれが痛いほど分かるんです」



 ニナの説明に今まで疑問だったことに合点がいった。

 なぜ逃げずにこんな無駄なことを続けているのかさっぱり美歌には納得できなかったが、住んでいる土地をどうにかして守りたいというのなら、確かにそれならば話は分かる。

 ただそれにしたってあまりにも稚拙というか尊大というか無茶苦茶だった。



「うちが行っても勝てるかどうかの保証なんてないんやで?」


「身勝手なことなのは承知しております。それでも今もあそこで命を懸けて戦っている兵士たちの支援をして頂き、勝利に貢献して頂ければこの町で生きている者としてこの上ない喜びでございます。あなた様のお力であれば傷付いた兵士や冒険者たちを癒やすことも可能なはず。もちろん危なければ逃げて頂いて構いません」


「いやだからあんな大きいやつに勝てる確率の方が少ないって」


「もう簡単に勝てるなんて言わないけど、それでもミカが行ってくれたら助かる命もあるはずなんだ。僕なんかのためにここにいるよりも本当はあっちにいるべき人なんだよ。それにさ、本当はミカが一番あそこに行きたいと思っているんじゃない?」


「それはそうかもやけど……」



 ジークの指摘は当たっていた。

 レベル百の【巫女】がこんなところで押し問答しているよりも最前線にいる方がいくらでも活躍の場があるのは間違いない。

 さらに今もずっと心の奥で葵の誘いを断ってしまったことを悔やんでいるのを見抜かれていた。


 もう門の向こうで怒鳴り合いをしていた者たちなどどうでもよかった。

 あんな腑抜けた連中よりもここにいる十数人の方がよっぽど美歌の胸に訴えかけてくる。



「ミカ様が私に恩恵を下さったのは何かを倒すものではなく、私の治癒力を高めるものでした。そのお優しい慈悲の心をどうか今一度お向け頂けないでしょうか」



 葵を騙すために聖女として自分の代わりに演じてくれたパルファも続く。

 美歌が『師弟システム』で【精神集中】という精神力のステータスが高まる後衛職必須のスキルをパルファに与えて伸ばしたのは、単に治癒の魔術の素養がある彼女ならマッチすると思ったからで、そんな慈悲とか言われるような気持ちでやったのではなかった。

 ただ彼女とは歳が近く、この一ヶ月以上で最も身近にいた人物の一人でもある。

 ドジっ娘だけど、魔力が高まるとこれで他人の役に立てると本当に喜んでいた。

 思い込むととんでもないことをし出かす子で、葵の目の前で腕を斬った時などは浅くでいいのにざっくりいってしまって後ろから見ていてかなり内心で慌てたものだった。



「お、おい。俺らもするぞ」


「えぇそうよね。あんな子供が頑張っているのに、私たちの方が本当に情けなかったのが分かったわ」



 メイドたちと美歌のやり取りを見て、ようやく冷静になった者たちがも次々と膝を折っていく。

 ここでいさかいをしてもジークの言う通り無意味だと気付いたらしい。



「な、なんだよお前ら。あんなガキに土下座するのかよ……」



 未だ全員ではない。

 全体の半分ぐらいだが、それでもメイドたちと同じように平伏して無言で祈るように頭を下げ、その数は徐々に増えていった。

 美歌の前にはジークたちを始め数十人の頭を地に付けひたむきに嘆願する姿が映る。



『何か美歌ちゃんほんまもんの……』


 

 美歌の足元で目を丸くしているテンの呟きが途中で途切れる。

 他人に勝手に冠を被せられて押し付けられた称号でしかなかった。

 しかしこの光景は、まさに信徒たちに希望を託され祈られる『本当の聖女』のようで彼は言葉に詰まったのだ。

 

 それらを見て美歌はまた目を瞑って手を力いっぱい握りしめる。

 気持ちの切り替えが必要だった。これはそのための儀式だ。

 そしてカっと目を見開き宣言する。



「分かったわ。やるわ。やったるわ! だからもう立って。みんながそんな格好してるの見るの忍びないし、こっちが困るからさ」


「ミカ!」


 

 その答えを聞いたジークが跳ね起きて駆け寄り、いつものように腰に抱き着く。

 小さな頭を撫でてながらため息混じりの苦笑いを美歌がする。



「あーあ、こんな頼まれ方されたらやるしかないやん」


「ごめんね。でもあそこには本当にミカを必要としている人がたくさんいるはずなんだ。その人たちを助けてあげて欲しくて……」 



 ジークも最初、民衆たちにニナを傷付けられ美歌が責められ続けていることに相当に腹が立った。

 けれども後ろで眺めていると、彼女が自分たちのために力ずくで一般人に危害を加えようとするんじゃないかということに気付いてしまう。

 それだけは必ず避けさせなければならなかった。それをしたら彼女は町中の敵になってしまうからだ。大好きな人にそんなことはさせられなかった。

 だからどうにかして冷静にさせて両者の矛先を変えようと苦心の末に出した答えが、間に入って土下座で驚かせ言い聞かせるというものだったのだ。


 もちろんこんな衆人環視の中に出て行くのも怖かったし、その視線が突き刺さりながらの土下座など恥ずかしくて進んでやりたいわけなどない。

 だが、そんなことよりも何よりもっと大事なのは美歌を守りたい衝動に駆られた『男としてのプライド』が彼を突き動かしたのだ。格好悪い姿を見られても彼女のためになるならと公衆の面前で率先して頭を下げた。

 自覚はまだしていないが、もう少ししたらきっとこれが『初恋』であると気付くことだろう。



「子供や思ってたのに、成長したんやな。ジークから勇気もらったわ」

 


 美歌のジークへの印象はやはり母の突然の死に傷付いた幼い子供というのが強かった。

 今でこそまだ普通に見えるが、盗賊から助けてからしばらくは本当に服を掴んで離れなかったのだ。

 それにふと母の死を思い出すと昼でも夜でも悲しくて涙を流した。

 ご飯もお風呂も寝る時もずっと一緒で、男爵やメイドが離そうとすると喚いていたのはまだ記憶に新しい。

 それが男を見せた。手の掛かる弟が成長した瞬間だった。


 だから不出来でも姉としてはここでビビって逃げる背中を見せるわけにはいかなかった。



 ――翔ちゃん、うちこっちで自慢の弟ができて、お姉ちゃんになったよ……。今度こそは良いお姉ちゃんになりたいな。



 この温もりを守り通さねばならないと決心を固くする。

 


「ごめん。みんなの話を聞いて本当はうちもジークとかみんなを言い訳にして逃げてただけなんじゃないかと思ったわ。活を入れてもらった。だから頑張ってくるよ」


「うん! ミカ頑張って!」



 ただ笑顔を作る裏で美歌の手は恐怖で微かに震えていた。

 しかし純真に彼女の活躍を信じているジークの眼差しを前にして美歌は姉として見栄を張る。

 そしてそれは相方でもあり、兄や父親のように助言をし支えてきた立場の目ざといテンにはお見通しでもあった。



『美歌ちゃん。無理せんでええんやで。怖いときは怖い言うべきや。なんも恥ずかしいことなんてあらへん』


「それはわかってる。でもなもう決めたんや。本当にあかんかったら逃げるから」


『せやったらワイも当然付いていくで。こうなったらワイのワイルドなところを見せたるわ! あぁ今のはシャレやないからな!』



 美歌は困った顔をして今も和ませようとしてくれるテンに「ありがとう」と紡ぎながら、彼の脇を持ち上げ顔に近付かせてそっと耳に囁く。



「……でもなテンにはここを頼みたいんよ。まだちょっと怪しい雰囲気のやつもいるやろ。テンが護ってあげて欲しい」



 一時の興奮は収まったものの、まだ納得せず美歌を憎らしそうに睨む人間はいる。

 ひょっとしたらただ屋敷に押し入るのが目的ではないのかと疑いたくなるような者もいるのに勘付いていた。

 なので安心して前線に出向くためには最も信頼するテンにここの防備を任せるしかなかった。



『美歌ちゃんそれはあかん! そんなんは承服できんて! もし目を離している間に美歌ちゃんに何かあったらワイは悔やんでも悔やみきれん!』



 抱き上げられたテンはジタバタと宙に短い手足を動かし異を唱えて抗議する。

 唯一無二のパートナーが、妹でもあり娘のような愛らしい子が、一人で苦境に臨もうとしているのを指を咥えて見送れるはずがなかった。



「もし二人で行ってその間にあいつらにジークたちが襲われた元も子もないやろ。うちはテンを信じてる。テンはうちを信じてくれないんか?」


『ッ!? 美歌ちゃん……それは卑怯やで……』



 途端に耳と尻尾とヒゲが元気を失くして垂れ下がり、恨めしそうな表情を見せる。

 肯定すれば信頼を損ない、否定しても一人で行かせることになる。テンにとってどっちも選べない選択肢だ。

 


「ごめんな。やばかったらすぐ逃げる。これは必ず約束する。テンがここにいてくれたらうちは心置きなく戦えるんや」


『そんなおだてに……あぁもう勝手にせい!』


「わがまま言うてほんまにごめん」


『もうええ。女のわがままに応えるのが男の役目や。男は辛いなぁ! でも絶対、無事に帰って来るんやで!』


「うん!」



 美歌としてもこの世界に来てからずっとテンと一緒で、いつもサポートしてくれた彼と離れるのは不安がある。しかしやると覚悟を決めた。もう誰にも止められない。

 それの思惑を痛いほど汲み取ったテンはそれ以上、強く反対できなかった。



「―【降神術】少彦名命すくなびこなのみこと 薬泉の霧―」



 テンを地面に降ろした美歌は術を発動させる。

 傷を回復させる霧が門の前にいる人々に降り掛かって次々と完治していき、歓声が上がった。


 この術に本来、ここまでの効果範囲は無い。

 もし葵がここにいればそれは疑問に思ったことだろう。

 それは唯一、美歌がこの世界で発見した『裏技』だった。



「それで動けるようになったやろ。こんなところにいつまでもおらんとさっさと逃げや!」



 集まった人々に大声で言い放ち少女はしっかりと地面を踏みしめ駆け出す。

 だがその先は高いお屋敷の壁だ。


 そもそも中にいる美歌がゴーレムの元へと赴くためには門を開けなければならない。

 虎視眈々と火事場泥棒を狙う輩たちは実はその瞬間を狙っていた。

 だがその企みは次の瞬間に崩れ去る。 


 あわや衝突かと見ていた人々は自然と目を覆いたくなる衝動に駆られるが、美歌はスカートを翻しひとっ飛びで高い塀を越えたのだ。

 「わぁ!」とその信じられない運動能力を目撃した全員の口々から嘆息がもれ、呆気に取られている間に家々の屋根の上をぴょんぴょんと飛び跳ね向かう彼女の姿はすぐに豆粒ほどになっていった。



「ミカ。お願い、みんなを助けてあげて!」



 ジークと人々の希望を背中に受けて、


 ――少女が戦場へと参戦する。 

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