2章 15話 聖女の事情

相川美歌あいかわみか(十三歳)』が人気オンラインゲーム大和伝をプレイ中に異世界らしき場所に放り出されたのは、葵がカッシーラに着く約一ヶ月半前に遡る。

 フィールドを探索中、突如開いた穴に落ちてしまい気付いた時にはすでに別世界だった。

 

 もちろん最初こそはまさか大和伝から逸脱しているとは全く気付かず思いもよらなかった。

 単なる森フィールドに何らかの原因で迷い込んでしまったとしか頭が回らずぼうっと景色を眺めるだけ。

 しかし、あまりにも細部のハッキリした草や木、そして実際に動いて飛ぶ鳥などを目撃すると明らかにおかしい事態に遭っていることに勘付くまでそう時間は掛からない。

 

 すぐさまメニューを叩き位置情報を確認するも、地図もフレンドリストも真っ黒でGMゲームマスターへのお問い合わせもできず頭が真っ白になりそうになる。

 ただし『メール』が着ていることには早々に気付けた。


 神様っぽい人物からの通達を何度も最初から最後まで読み直し、一応の安堵は手に入れられた。

 

 トンネルを抜けると雪国だった、という有名なフレーズがあるが、暗闇の先が異世界だったなどアニメか漫画にしかない展開で、美歌は物語の主人公になったかのような気になってしまう。

 特に最近の美歌は自分を取り繕い、他人の目を気にすることが多く、とあることがキッカケで引きこもりがちになってしまっていた。それらのストレスから開放されていたのはゲームをしている時間ぐらいで、それすらも一日数時間だけ。現実世界から抜け出せて神様ありがとうという気持ちが大きかった。

 ただそんな浮かれ気分は周りから聴こえてくる森に息づく生き物たちの気配のせいで、ものの数十秒で萎れる。

 自分の居場所も分からず、明日どころか一分先でも生きられるかの保証もないことを悟ってしまったからだ。心はまだ中学生のままだった。

 

 焦燥感が溢れる思考でいち早く気付いたのは自分の格好。

 自分がカスタマイズした花緑青はなろくしょうの長い髪を掻き分け掴む。

 その下にあるのは白い生地の衣に、濃い菫色のロングスカートの派手な和服だった。その出で立ちはいわゆる巫女服や大正時代の女学生服に近い。

 すぐにゲームの衣装そのままであることに思い至り、そこからいつもいる相棒がいないことを連想する。


 美歌は即座にお供の‘ハクビシン’の『テン』を呼び出すことにした。

 コマンドがちゃんと使えるのかどうかの実験をするため、精神的な安定のため、まずは護衛となりゲームでもサポートしてくれた相棒を出すことを優先したかったというのが理由だ。


 ハクビシンとはフォルムはイタチに似た動物で、顔は白いピンと張った髭があってたぬき寄り、しかし種目はジャコウネコ科というなんだかよく分からない生物なのだが、さらに名前をイタチ科の「テン」にしているあたりもっとややこしいことになっていた。

 一般的には掲示板などでよく盛り上がる『お供はどれが良いかランキング』に良くも悪くもほとんど名前が出てこない微妙な人気の相棒だったが、小さくてじゃれ付く仕草に当たりだったと美歌は常日頃から感じている。


ボタンを押すとしゃんしゃんと鳴る鈴の音色が鼓膜に響き、いつも通りに地面に魔方陣のようなものが現れ相棒が出現した。

 顔の真ん中に白い線が入り、たぬきみたいに顔に黒い模様があって、体系はイタチに酷似していて尻尾はかなり長い。間違いなくテンだった。

 美歌と彼との付き合いは大和伝歴と同じで約一年になる。

 

美歌からしたらすねぐらいしかない体高のテンを見下ろすと、彼は器用にニ本の足で立って鼻をヒクヒクとさせながら辺りを何度も見回して丸い眼で見返した。



『おう、美歌ちゃん大丈夫か? なんやけったいなとこやなここ』



 ――なんで関西弁なの!!


 日本語でしゃべってきたのも予想外の上、さらには口調が若干おっさんっぽい関西弁。

 今まで抱いてきたテンのイメージから斜め上過ぎて、思わずくらっと倒れそうになるのをギリギリのところで踏みとどまる。



「て、テン……な……の?」



 見た目はいつも通りの相棒なのに、まさかのギャップで信じたくない気持ちが口をわなわなと震えさせる。



『なんやその冗談おもろないで? ホンマにワイを忘れたわけやないやろな? 嫌いな虫系の敵と戦うときいつも泣きそうな顔してんのを助けたったやないか』


「げ、ホントにテンだ」



 虫が苦手な美歌は、虫系、特に蜘蛛とかサソリとかの多足にゲームでもかなりの忌避感があり、それを克服できないでいた。

 テンに助けてもらったことは一度や二度ではない。マルチプレイだとナンパとかに嫌気が差していたのでソロが多めだった自分のそんな隠したい記憶をを知っているのは数限られたものでしかなく、テンで間違いなさそうであることは理解した。

 ただ頭で分かってもこの見た目と話し方との乖離については納得はできず、つい『げ』と口に出てしまい目を細めて睨まれる。



『なんやなんやご挨拶やねぇ大人なワイでも傷つくで?』



 すねる仕草は可愛いもののやっぱり話し方は慣れず「ご、ごめん」とだけ返すだけに留まった。

 本気でいじけてたようではないらしく、テンは自分の毛並みを整え普通の態度に戻る。



『ま、ええわ。体は小さくても懐と器はでっかくて子供と婦女子には甘いのが男っちゅーもんや。って、それでここどこや?』


「それが、私にも全然分からないの」



 不安げに美歌が覚えている限りのことを伝えた。

 それを全部聞き終えてからテンは鼻の横から生えている白いヒゲを梳かすように指でしごきながら答える。



『ふーん、でもとりあえずどっか動くしかないんちゃう? こんなとこいつまでもいても埒あかんやろ。ちょうどあっちなんか生き物の反応がいくつかあるし、行ってみん?』


「え、危険な動物とか虫だったらどうするの!? それにもし人だったら……」


『美歌ちゃん、やっぱり人が怖いか?』


「う、うん……」



 美歌は元々関西の生まれでずっとそこで育ってきた。

 しかしながら両親の離婚という不幸に見舞われ、母に引き取られて小学校六年生の時に母方の実家のある関東へと引越しを余儀なくされた経緯がある。

 それだけならまだ良かったのだが、不幸なことに転校のタイミングが中途半端な時期もあってなかなか友達が持てず、しかも関西弁をからかわれてすでに完成している輪に入ることができずぼっちだった。

 いつも一人でいることに幼い精神がどれだけ磨耗するのか、想像に難くない。


 中学生になり、新しい面子も増えて積極的に関西弁を隠す努力をしたおかげで最初は何とか女子グループに入ることに成功した。

 ただどうしても意識しながらのおしゃべりでは控えめになりがちで楽しくもない。いつも他人を気にするような毎日だった。

 そしてある日、つい慣れた日常で心のタガが緩んでぽろっと隠していた口調が出てしまい、再びからかわれてしまう。


 女友達たちからすればそこに悪意はない。けれどそれ以来、何かにつけていじられるようになってしまう。

 それは小学生の時のトラウマが蘇るには十分だった。幼い時分の両親の離婚という大きなショックに、転校という環境の変化、相談できる相手がいないこと、全てが積み重なって美歌は逃げ出した。

 家族以外の人間と話すことが怖くなってしまったのだ。


 ゲームの中でのコミュニケーションですら他人と触れ合うことは美歌には多大な負担だった。

 だからソロでプレイすることも可能な大和伝に目をつけ、やり始めてももっぱらパーティーはNPCと組んでばかり。戦闘はそれでもなんとかなったし、欲しいアイテムや装備があるときも自動で売り買いできる露天に売り出されるまで我慢する。

 そんな彼女も無邪気に戯れるテンとNPCの前でだけは年相応の女の子になれていた。



『いやまぁ遠くから覗くだけやし。それにワイらそんな弱くはないやろ。もし見つかっても逃げるぐらいはできるはずやって』


「えーーー」


『えー、やあらへん。まず自分の立ってる場所ぐらい把握しようや』



 美歌のレベルは百。素手で魔物ぐらい撲殺できる能力があるのだが、この時はそれを知る由もなく完全にびびっていた。特に苦手な虫がいるかもしれない確率はそう低くないせいで。



「あのさ、マジ、虫だったらすぐ逃げるからね?」


『かまへんかまへん。人生なんてどんだけ怖がろうが逃げようが最後に立ってたもんが勝ちやしな。せやけどもしそんなんが出てきたら全身全霊で守ったるさかい安心してや』



 背を反らしテンが握った手で胸を叩く仕草をする。

 吹けば飛ぶような体の小ささなのに格好良く自信はたっぷりに見えた。


 立ち上がっても自分の膝ぐらいしかないハクビシンに守ると言われても素直に信じきれるはずもなかったけれど、美歌の記憶に過ぎったのはテンとの一年に及ぶ思い出だった。

 どんな相手にも、それこそ自分が見上げるような敵にも迷わず突っ掛かっていく映像だ。彼からするととてつもない山みたいな相手だというのに、恐れず立ち向かっていくのはどれほどの勇気が要るのだろうか。

 育まれた絆は信頼して信じるべきだと促していた。 


 ――うん、いつも小さな体でぴょんぴょん跳ねて頑張ってたよね。



「分かった。行ってみる」


『おう、美歌ちゃんはやればできる子やからな、そう言ってくれると思ってたわ』


「親か!」


『なっはっは、ええツッコミやな。暗い顔せんと笑って生きようや。どんなときでも人事を尽くして天命を待つ。そしたらたいがい悪いことにはならんよ』


「それでも悪いことが起きたら?」


『ま、諦めるしかないってことやな。遺書は書いときや? なっはっは、冗談や。さぁ行こか、あっちや!』



 気楽そうに笑い地面に四本の足を付いてテンは美歌を先導してテクテクと歩き出す。

 その足取りに迷いはなく、スキルがちゃんと発動していることが察せられる動きだった。


 土と草を踏み枝葉を掻き分けて進むとやがてテンの足がぴたりと止まる。

 


『すぐそこ抜けたらいるはずや。見つからんようにな』



 動物だとしてもこの世界の生き物との初遭遇だ。そう身構えるとドキドキと心臓の脈打つ音がうるさいぐらいに体を木霊した。

 大きな木の陰に隠れながらそうっと覗く。 

 

 ――それは壮絶な事故現場だった。

 

 横倒しになって損壊している馬車があって、車輪やパーツなどは散乱しそこらこちらがひしゃげている。そこから繋がれた馬は首の骨があらぬ方向へとへし折れて血だまりが出来上がっており、血が乾いていないことからこの惨劇が生まれてからそう時間が経っていないことだけは読み取れた。

 奥に見上げるほどの高い崖があってそこから落ちたことは一目瞭然だった。

 

 その惨たらしい場面を見て美歌は一瞬だけ、うっと喉に詰まったが、思った以上の嫌悪感は生まれてこずにそのまま凝視する。

 


「これは……」


『事故やな。問題は偶然なんか意図的なもんかってことや』


「意図的?」


『せや。あぁほらあっち見てみ』



 テンが小さな顔を左へ向けると、そちらの方角から男たちが六人ほどやってくるのが見えた。

 身なりはボロく野性味溢れる顔立ちで服には生々しく赤い返り血の跡が付いている。

 手には思い思いの剣や弓など凶器が握られており、そいつらは獲物でも追いかけるかのように口の端を吊り上げて馬車に近づいていく。



「あの人たちまさか……」


『盗賊、追い剥ぎ、悪党、好きな名前で呼んだらいいと思うで』



 テンが挙げるそれら全てにぴたりと当てはまりそうだった。

 けれど……とそうでないことを期待してしまう。

 美歌からすると異世界には自分の知らない常識やルールがあることは予想がつく。だから目の前のこの惨劇がひょっとしたら何か正当な理由があって行われていることなのではないかと、縋りつきたい気持ちで男たちが馬車に近付くのを黙認していた。

 聞き耳を立てながら自然と幹を掴む手に力がこもる。



「へぇ、ちょうど良い具合になってんじゃん」


「バカ、貴族を殺しやがって。これですぐにここら一帯は盗賊狩りをされることになるんだよ。新しい住処を探さなきゃなんねーだろうがよ」


「だって仕方ねーだろうよ、足止め用に撃った矢で馬がびびって落ちちまったんだからよ。そこまでは予想できねーぜ」


「まぁ盗るもん盗ってさっさとずらかればいいんじゃね? 手荷物だって相当な金額で売れるだろ。上の護衛の装備と合わせたらかなりの額になるだろうからさっさと換金して逃げればいいじゃん」


「いいけどガルシア商会は使えないぞ? あいつらにとって貴族は上客だし貴族の物を持っていっただけでこっちがぶっ殺されっからな」



 なのに、交わされる内容はどんどんと美歌の薄っぺらい希望を打ち砕いていく。

 現代日本ではなかなかお目にかかれない犯行を今目の前にしている。本当ならすぐ傍にある恐怖と対面したせいでガチガチと震えるほどの恐怖に苛まされるところなのだが、彼女の思考はどちらかというと困惑で満ちていた。



「なぜ? なぜあんなことをするの?」


『そりゃ盗賊やからやろうな』



 返ってくるテンの答えは素っ気ない。

 それは頭では理解している。美歌が言いたかったのは『なぜ平気で人を殺せるのか』、『なぜ身勝手に人の物を奪えるのか』ということだった。

 


「なんでこんなこと……」


『追い詰められたら人間、いや生き物っちゅーのは何でもするんや。美歌ちゃんだって今までこういう場面に遭遇したし、何度も助けてきたやろ?』


「それは……」



 それはゲーム大和伝での話だ、と言いそうになって喉元で止まる。テンにあの世界はゲームだったと話してもいいか迷ったからだ。

 今は大和伝と同じように親身にサポートしてくれているが、それを知られたらどういう反応をされるか分からない。もし失望されて一人になったら? そうなったら寂しくてきっと泣いてしまう。

 自分の姑息な計算高さに美歌は小さく震える。



『どうかした?』


「いえ、なんでもないわ。確かにそういうこともあったわね」



 大和伝で任務クエストや突発的なイベントなどで山賊退治や追い剥ぎに襲われている旅人を救うということは何度も起こり、こなしてきたことがあった。しかしあくまでヴァーチャルでのことで、こんなリアルな出来事は経験したことがない。

 美歌はまとまらない思考で成り行きを見守るしかなかった。


 男たちは当然美歌が悩んで自問自答している時間など与えてくれないようで、ずけずけと馬車に群がると元の形から無残に変形したドアを無理やりこじ開けていく。

 そこから引っ張り上げて取り出したのは二人の人間だった。身なりの良い服装の二十代後半ぐらいに見える女性一人と、その子供らしい子が一人。いずれも意識が無く、血を流してぐったりとしている。

 


「あー、やっぱり死んでるな」


「手間が省けていいじゃん」


「お宝を探るぞ。馬車の中にも指輪とか落ちてるかもしれん。見落とすなよ」



 その台詞にがつんと殴られたような感覚を美歌は味わった。


 ――人が死んだ? なんであの男たちはそんなに冷静なの? あの女の人たちはそんなことをされないといけない人たちだったの?


 テレビの映画や漫画でよくあるような残酷な風景。それはフィクションとしてなら受け入れられた。けれど現実として目の当たりにさせられると、とんでもないおぞましさとして美歌の心にショックを与えてくる。

 思わず左手で口を押さえる。吐き気はない。だというのに気持ちの悪いものが感情として吐いて出てきそうだった。

 たとえ死体でも女性や子供を人ではなく、物を扱うような粗雑さに人間の底知れぬ傲慢さと悪意を垣間見て胸が苦しかった。



『で、どうするんや?』



 どうするんや? その意味が理解できなくて目を瞬く。

 テンはニ本足で立ち腕を組んで真っ直ぐに美歌を見つめ返していた。

 


『退治するか、放っておくかや』



 冷淡に言い放つテンに顔が凍り付く。

 真っ先に思いついたのは「関わり合いになりたくない」という拒否の台詞だ。

 きっと物語として安全な位置での傍観者でいられたなら正義感と共に怒りの感情が湧いてくるのだろう。

 しかしながら、今も死んだ人間の衣服や身に付けている装飾品を卑しく漁る正視するに耐えない男たちの行為に、ただただ不快さしか感じなかった。 

 

 逃げよう、ここから立ち去ろう。あの人たちは運が悪かったんだ。もう私にできることは何もない。この世界の人のことはこの世界の人同士でやるのが筋でしょ。そもそも他人のために何かをしないといけない義務なんてない。


 いくつもの、関わらない理由が浮かんだ。

 なのに――



「お、このガキまだ生きてんじゃん」


「親が抱いて庇ったんだろうな。と言ってもこの怪我じゃすぐ死ぬけどな」


「苦しまずに殺してやろうか? 俺って優しいからよ」


「バカ、せめて身に着けてるもん取ってからにしろよ。血で汚れる」



 まだ子供は生きていた。まだ美歌にできることがあった。

 だというのにそれでも決断は鈍り足は動かない。

 自分で決めるのが怖いのだ。人の生き死に関わるのに恐れがある。なぜかパニックにならなかったが余計にその選択の重みを実感させられた。

 思わずテンを頼るように見てしまう。



『ワイにそれを求めてもあかんで。決めるのは美歌ちゃんや』



 小さな相棒に美歌の卑怯な心は見透かされていた。

 逡巡するように子供にも視線を向ける。

 意識もないのに閉じられた瞼からは涙がこぼれていた。痛みのせいかまるで悪夢を見ているかのようにその顔は歪んでいる。

 その面影が美歌の記憶を刺激した。


 ――美歌ちゃんアイドルみたいやね!


 ふいに思い出したのはまだ関西に居た幼い頃の無垢で無知で無鉄砲だった自分と、とある親戚の男の子。

 近くに住んでいた親戚の二つ下の男の子は体が弱く学校も休みがちで、一人っ子だった美歌にとっては守ってあげないといけない弟のような存在だった。

 彼を元気づけるために色んなことをした。その中でも一緒にアニメの歌を歌って踊ると彼は喜んだ。

 

 もちろんそんなものは子供の時の些細なやり取りで、彼も自分も本気でアイドルを目指すなんて思ったわけではない。それでもその頃は真摯に取り組めば何でもできると思っていたし、彼の病気もただただ祈れば治るものだと思い込んでいた。

 けれどある日、病気が悪化した彼はけたたましい音を鳴らす救急車で病院に緊急搬送され、それからは痛々しい点滴のチューブが体中に取り付けられて、日に日に腕や頬は痩せこけ細くなっていくことになる。


 現実が美歌の幼い願望を打ち砕き叩きのめした。


 怖かった。何にもできない自分と、むざむざと目の前で命の炎が消え失われていくその様子にわけもなく美歌は恐怖して泣くしかできなかった。

 泣きたいのは彼の方だったろう。だけどどうしてもその横たわり枯れ木みたいになっていく姿を見ていると怖くて悲しくて涙が止まらなかった。

 母とお見舞いに訪れるたびに悲惨な気持ちになってやがて行きたくないとダダをこねるようになる。

 最後に会ったのは彼が亡くなるニ日前だ。

 もう意識も保てない日があると知らされ、グズる美歌を母が無理やり連れて行った。


 ――美歌ちゃん……僕の……分まで……生きて……や


 たどたどしく、声量もない囁くような声は、もはや自分の死を覚悟した願いだった。

 その場で最も助けを必要とする人間がいるのに何もできない。

 その無力感に苛まれ、涙を目蓋に溜め無言で病室を逃げ出した。

 廊下の奥で一人亀のように人目もはばからず蹲って嗚咽をもらして湧き上がる感情が全部無くなるまで泣いた。


 ――何でなん? 何であの子がこんな目に合わなあかんの? 何にも悪いことしてないやん!!!


 少女の慟哭に大人たちの誰も答えを持つ者はいなかった。

  

 その日から美歌は頑張るということをしなくなる。逃げ癖がついてしまっていたのだ。

 世の中にはどれだけ努力しても祈っても報われないことがあると知って熱を持てなくなった。

 それが引きこもりに繋がる一つの原因でもあるのだが、その彼と目の前の少年が重なる。



「翔ちゃん……」  

 


 美歌の瞳からも突然涙が流れた。それを無理やり袖で拭い目を閉じる。

 

 ――今、あの子を救えるのは私だけだ。私なら救える。なのに救わなかったら私はまた翔ちゃんを見殺しにすることになる! そんなのもう嫌だ!!


 開けた瞳には今までよりも一層強い光が帯びていた。


 そして、



「テン、あの子助けるで!」


『ほいきた合点承知や! 美歌ちゃんならそう言うと思っとったで、任せとき! ……あとな一個だけ言ってええか?』


「なに?」


『美歌ちゃん、そっちの素のしゃべりの方が可愛いで』



 親や親戚以外から可愛いなんてそんなに言われた経験がほとんど無く、テンの言葉に意表を突かれ少し頬を染め顔を逸らして恥じらう。

 ゲームをやりながら呟く愚痴などは関西弁も多かった。だからテンにも素の口調は知られていたのだろう。

 落涙のせいで少しだけ赤く腫れた目で羞恥心を隠すよう睨みつけた。

 


「う、うっさいわ。負けたら許さへんで?」


『なっはっは。お姫様の期待には最大限応えんとな。いくで!』



 掛け声と共にテンが草むらから飛び出した。

 体長五、六十センチ程度でしかなく小さな足を高速で動かし突貫する。

 ただしその速度は速く、茂みで音がして男たちが振り返ったと思ったらすでに押し迫っていた。



『この腐れ外道どもが!』



 美歌以外にはネズミにも似たきゅーとしか聴こえない甲高い鳴き声で威嚇され、男たちは一斉に緊張を解く。

 やけにすばしっこいがしょせんは小動物だと舐めて掛かった。


 そして次の瞬間、テンの赤ん坊サイズのパンチを食らい男が一人キリモミ回転しながら宙を舞う。

 数メートル吹っ飛び地面に激突して動かなくなる仲間を見て、その場の誰もが唖然と固まる。



『ほらお前らこんな小さいワイにすら勝てんのか? 生きてる価値ないでクズども』



 自らのお尻を向け手で叩いて挑発するテン。その馬鹿にした様子に男たちの瞳に色が戻ってくる。

 目的は子供から男たちを遠ざけるための誘導だった。正面から殴り倒すこともできたが距離を取って安全策を取るつもりである。



「な、なんだこいつただのイタチじゃねぇよな!? 新種の魔物か? 逃がすんじゃねぇ」


「お、おう」


「皮を剥ぎ取って吊るしてやる!」



 その作戦は半分だけ成功する。

 残り五人のうち四人だけがテンに向かっていった。それを見てテンが付いてこれる速度で走り出す。

 失敗なのは一人が残ってしまったこと。このグループの中ではリーダー格っぽい男だ。テンもそれには気付いていたが一瞥だけ美歌の顔を見て問題ないと判断した。

 どんどんと離れていく男たちを横目に美歌も藪から姿を現す。特に意識していなかったので枝葉が服に擦れて音で存在を知れてしまう。



「あ? お、お前はなんだ? その格好は!?」



 突然現れた異様な見た目の女の子にさしもの男も戸惑うばかり。

 美歌はその男と足元で気絶している少年とを目で追った。



「なんであなたはそんなことできるの?」


「は?」



 身なりもそうだったが、美歌から発せられた言葉は男からするとすっとんきょうなものだった。



「その人たちを殺さないといけない事情があったの?」


「あん? さっきから何言ってんだお前」


「なんでそこまでせんとあかんかったんかって訊いてんねや! はよ答えろ!」


「っ!」



 突如口調の変わった美歌に男は気圧される。

 無論、明らかに年下の少女の激高だけにたじろぐほどヤワな人生を歩んではいない。今しがた人を崖から落として殺した男がそんな容易い人物であるはずがなかった。

 ただ少女から発せられる得たいの知れないプレッシャーを感じ取ってしまったせいだ。

 


「こ、こいつらが金持ちだからだ」


「だからなんや?」


「俺らが安い飯を食っているのに、こいつらは汗を掻くことすらしないのに良い生活をしてるだろ。そんなのおかしいじゃねぇか」


「そんな理由で……」


「そんな理由だよ! いくら俺らが努力したところでたかが知れてる。どれだけ教会のやつらが神様の前ではみんな平等だと唱えても平等であるわけがない。だったらそいつらから奪ってもいいだろ」



 目の前の男が裕福な生活をしているとは到底思えなかった。ひょっとしたら美歌には想像もできない辛い過去があるのかもしれない。

 それでもだからといってこの事態を正当化して良い理由にはどうしても思えなかった。

 

 人の生まれは平等ではない。人が暮らす世界は公平ではない。人は公正ではない。

 そんなの誰だって知っている。男が言うようにそんなことを真面目くさった顔で説法を説く人間は詐欺師かとんでもない阿呆のどちらかだろう。

 しかしながら、だからと言ってそれが他人を害する言い訳には繋がらない。そんな理屈は自らの行いを正当化する卑怯な振る舞いだ。

 美歌はそう感じた。


 だからその自分勝手な言い分を訊いて彼女の心に火が灯る。


 男は美歌を警戒しながら持っていたナイフを子供の喉に当てた。

 今の会話と気にしている視線から美歌が子供を助けようとしているのに勘付かれたせいだ。

 思ったよりも小賢しく美歌は唇を噛んだ。



「唯一平等なのは血が流れれば死ぬってことぐらいだな。それぐらいは分かるだろ? それ以上近寄るんじゃねぇ!」



 迂闊にも人質を取られてしまう。

 もし美歌が変な質問をせず、狼狽しているうちにただ普通に殴り掛かろうとすればこんなことになっていないかったろう。

 だけれども、どうしても質問がしたかった。問い質さないと行動ができなかった。この悲劇に意味があったのか? と。

 そして覚悟はとうに決まっていた。



「うちは丸腰や。そのナイフで突きたいんやったら好きにすればええ」


「確かにそうみたいだが……後ろを向け」



 男の警戒心は異常とも言っていい。何も持たない少女相手にさらに後ろを向かせるほどの徹底ぶりで、きっとロープがあればそれで自分の手足を縛れと命令したかもしれない。

 それほどの何かを美歌から感じ取っていた。


 美歌が言われるまま背中を見せる。

 そこでようやく男は子供を地面に置き、ゆっくりとナイフを前にして美歌に近寄っていく。

 ただしなおも油断がない。変な動きをすれば即座に踵を返して子供を人質に取る気で、それは美歌にも分かっていた。だから下手に動けない。


 五歩、四歩、三歩、命を刈り取る凶器が美歌のもうすぐ傍までやってきていた。

 しかしながら、残り三歩。

 ここで男の足は止まる。



「ぐっ……」



 腹部に強烈な痛みを感じ、その弾みでナイフを落として、いきなり臆面もなく地面に転がりのた打ち回ったのだった。

 彼を攻撃したのは長い柄だ。それはいつの間にか美歌の手に握られていた。


 美歌はニメートルはあるそれをくるりと回しながら男を見下ろし突きつけた。

 一見、槍のようだったが、刃先が曲がっている。‘薙刀’だ。

 彼女は後ろを向きながら見つからないよう指だけでメニュー操作し、タイミング良くその武器を男の進行方向に塞がるよう手に出現させたのだった。



「悪いけどあんたに同情する余地はもうあらへんよ」



 トドメとばかりに顔を柄でぶち当てて気絶させると、気になっていた子供のところまで小走りで駆け寄り容態を看る。

 と言っても医療の知識など無く本当に見るだけであったが、それでも顔色は悪く腕や足などもアザがいくつも見受けられ、放っておくとまずいことぐらいは分かった。

 もしかしたら体の内側では骨も折れているかもしれない。 


 それから手を伸ばせば届くほどの距離で静かに横たわる彼の母親に目を向ける。

 こっちはもう生命の残り香も感じなかった。 



「ごめんなさい、私がもっと早く動いてたらあなたを助けられたかもしれないのに。でもお子さんだけは必ず助けます」



 祈りを込め、悔恨と決意を胸に秘め、美歌はタップして『降神術』を使う。

 美歌の職業は【巫女】だ。術を使う場合は基本的に神をその身に宿す。



「―【降神術】少彦名命すくなびこなのみこと 薬泉の霧―」



 淡い光の粒が彼女の頭上に集う。

 それが急速に集まり収束し出すとくっついていきどんどんと大きく形を象っていく。

 あっという間に人の上半身のようなシルエットになったと思うと、まるで守護霊のようにそこには少年が映し出されていた。

 黒く長い髪を結って後ろに束ね衣装は牛若丸のような平安時代を彷彿とさせる緑の鮮やかな着物姿である。

 しかし小さな男の子の容姿とは裏腹に、慈愛すら感じさせる優しげな眼差しとかなりの歳を経ていることが窺えるような微笑は、それだけで心が穏やかになっていくようなオーラに包まれていた。


 少彦名命すくなびこなのみこと――古事記や日本書紀に登場する国造りに協力した神の一柱で、医薬や酒造など多岐に渡る性質を持つ神とされている。


 彼はどこから取り出したのか手に持つひょうたんの蓋を開け、その中身を腕を振ってぶちまける。中から出てきた液体は空気に触れるとキラキラと輝く霧の水しぶきになり、倒れている少年に降りかかっていった。

 すると録画映像を巻き戻ししているかのごとく、なんとみるみるうちに変色し腫れていた箇所が無くなっていき、顔色も血色の良い通常の素肌に戻っていく。数瞬の間に健康状態に回復し美歌はほっと息を吐いて安堵した。

 それを見届け満足したように少彦名命は消え去る。


 同時にそこへすでに他の男たちを倒したテンが怪我一つない状態で戻ってきた。

 彼は助かった少年と間に合わなかった母親を見比べ状況をすぐさま把握する。



『子供の治療はできたみたいやな』


「……うんそうみたいや」


『思いつめたらあかんよ。美歌ちゃんは自分ができる範囲でできることをやった。褒められはしても責められるようなことは何一つあらへん』


「分かってる。それでもやっぱりやりきれないんよ。うちがもっと早く決断していたら助かったかもしれへんのに。それにこの子は怪我は治したけど目を覚ましてお母さんが亡くなってるなんて知ったら、きっと悲しくて心がずたずたになる。その心の傷はうちの術では癒してあげられないんや」



 もし自分の母親が死んだら? そう仮定の話をイメージするだけで胸が鷲づかみにされたかのように苦しくなる。なのにそれが現実になったとしたらどれほどの精神的な苦痛を伴うのか。

 それを癒す術を美歌は持っていなかったし、あってもしてはいけないように思えた。

 直面する悲しみからは避けてはいけない、それは乗り越えるものだから。言葉にはできずとも彼女にはそれは何となく感じていた。

 ただ今は安らかに眠る少年が目覚めたときを考えると、おそらく泣き叫ぶ彼に何もしてあげられない自分を予想して無力感が重く圧し掛かり心はどうしても晴れない。



『そうか。でもワイらがおらんかったらその子も助からんかったんや。それは忘れたらあかんで』


「……うん」


『ならこの子を家まで送るとこまで面倒見よか』


「うん。テンありがとう」


『ええよ。それになこれだけは覚えといて。ワイだけは何があっても美歌ちゃんの味方やからな』



 美歌の頬に悔恨の涙が一粒流れる。

 痛む心に何かにしがみつきたくなってテンの暖かでふわふわした体をがっしりと掴み顔を埋め、少年に見られないように隠れて泣いた。


 これが相川美歌がこの世界に来て最初に体験したことだった。

 やがて贖罪のように美歌はカッシーラの町で重症患者を優先的に治し、それが聖女と言われることになるのだが、それはもう少し先になる。

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