映画にまつわる話でも

@largent

壁の染みに見出すもの「ROOM237」

 壁の染みや空に浮かぶ雲、あるいは写真が捉えた一瞬の水面のさざ波に、人の顔を見出してしまうことがある。「○○であるかのように見える」という錯覚はパレイドリアという名称で呼ばれる心理現象であり、この錯覚を体験するとき、我々はそれが錯覚であることを知っている。もっとも統合失調症やLSDを服用した状況下では、錯覚かどうか分からなくなったり、この現象が度を越して頻繁に起きたりする。

 P.K.ディックの小説『ヴァリス』で、薬物に溺れた主人公がSF映画『VALIS』を観る場面がある。その映画に描かれている内容は、彼自身の神秘体験と奇妙な一致を見せる。画面に、主人公だけにひそかに送られたサインが隠されているかのごとく。ヴァリスの主人公と同じように、映画から特殊なサインやメッセージを見出してしまう人は存在する。彼らはそれを自分だけが発見できた(≒自分にひそかに向けられた)と解釈しがちな傾向がある。パレイドリアという現象が複雑化したようではないだろうか。スタンリー・キューブリックの映画『シャイニング』からこのようなメッセージを受け取ってしまった人達が、自分の解読したストーリーを極めてまじめに、なおかつてんで勝手に熱弁するドキュメンタリー映画が、『ROOM 237』である。


 基本的に、劇中で語られることは与太話だと言っていいだろう。時にはアポロ月面着陸の映像をキューブリックが作ったという有名な都市伝説まで飛び出し、『シャイニング』はそれを告発する映画なのだと語る人もいる。彼によればこのことを主張し始めてからずっと政府の人間に監視されているように感じるのだとか。また、冒頭のクレジット、“STANLEY KUBRICK”という青い文字が上へ流れていって消えたまさにその瞬間に一時停止して背景を注視すると、背景の雲の中に監督の顔が見出せるという主張もある。僕も目を凝らしたが、クスリの量が足りなかったのかどこにもそんな顔は見えなかった。他にも、カットが切り替わると映っていたはずの車が消えているのはなぜなのか(意味があるはずだ)とか、タイプライターがドイツ製である意味だとか、ディゾルブによって一瞬重なるモノに意味を見出したり、ダニーがおもちゃの車に乗って走った軌跡に暗喩を見出したり、ホテルの駐車場に停められている車の数に注目したり、まさしく、狂っている。この辺はどうしても笑ってしまう。

 まともに感じられる解釈も混じっているところがミソである。例えば、このホテルはインディアンの墓地に建てられており、これは小説から引き継がれた設定である。映画では、ホテルでかつて起こった血塗られた事件、家族のなかにある虐待のような忌まわしい記憶、そしてインディアンの墓地(=先住民の虐殺)という封じ込められ忘れられた過去が重ね合わせられている。そしてエレベーターからあふれ出す血。インディアンの墓地の上に建てられているのなら、エレベーターのシャフトはまさに血のにじんだ土地を貫いているはずであり、あふれ出す血はフロイト的に言って抑圧された過去である――この辺は、シャイニングという映画に対する“妥当な”解釈の一つとして十分成立している。その一方で、都市伝説だとかサブリミナルだとかが出てくるのである。そういうある程度の妥当さ――とわれわれが信じているもの――を守った領域とその先の『どうかしちゃってる』領域とがまだらに混在しているわけである。


 映画を見て笑いながら、同時に考え込んでしまうのは、我々と彼らとがどう違うのか、ということである。我々もやはり、スクリーンに映し出される色や光や音の連なり……それ自体は単なる人工的に機械によって作り出された現象でしかないものに、それぞれの意味を見出し、笑い、泣き、怒り、怯え、感動したりもする。これが狂人でなくて何なのか。

我々と彼らは違うという反論もありうる。作者であるキューブリックを考えたとき、この映画で主張されたような全ての複合的ストーリー/暗喩を一本の映画に詰め込んで表現できるわけがないからだ。このドキュメンタリー自体が、その解釈の量によって、それぞれの解釈の間接的な否定になっているようなものである。映画製作にはもっと現実的な問題がいくつも立ちはだかり、それに対応するだけで精いっぱいだろう。そんな神業がこなせるとしたら神しかいない……しかし、考えてみれば誰もキューブリックを知っている人などいるわけがないのである。「あなたの想定した監督キューブリック像は恣意的なものに過ぎない」という否定は、もっと現実的で妥当そうなキューブリック像を頭に描いている我々にそのまま返ってくる。要するに、我々はキューブリックではなくフィルムを、スクリーンを、画面だけを見ているのだから、そのような反論の仕方はアンフェアなのだ。それを受け入れたとき、映画の中における「キューブリック」という名前は神の別名になる。彼らは神の意図について語っているのである。

 

 終盤で、映画に登場する奇妙な見かたの中でもとびきり奇妙な見かたが飛び出す。映画を普通に再生した映像の上に、逆再生し映像を重ねて上映するというものである。二つの場面が重なり合って、新たな意味を生むというのだ。登場人物の顔が重なることも多いという。そりゃあ、二つのものがくっついたら新たな意味が生まれるのは当然だし、一人の人間が撮った同じ映画なのだからあまりにもちぐはぐなもののようには見えないだろうし、顔が重なるという主張にしても、そもそも映画において可能な顔の映し方、そのサイズや位置のバリエーションには限界がある。特にキューブリックは人の顔をよく映す作家なので、キャラクターの顔が重なったところでそれはそういうことも多くあるのではないかという感想が正直なところだし、登場人物も限られた作品であるから、顔が重なったときの人物の組み合わせかたもまたとっぴなものにはなりすぎないはずだ。また『シャイニング』の、上映時間が異なるバージョンについてどう説明を付けるつもりなのかも気になるところではある。

 映画を逆再生して重ねる—―この手法に対して、もはやオリジナルを素材として勝手なものを創作しているだけじゃないかという反論もできる。しかし……確かに我々は、自分の頭の中で観た映画を好き勝手に分断し、自らの知識経験とつなぎ合わせて、勝手気ままに創作してしまっているのである。ならば映画を、逆再生した映像と重ね合わせて見てはいけないなどと誰が決められるだろうか。

 

 結論として、我々も、このドキュメンタリーに出てくる彼らも、同じことをしているのだと思う。色や光や音の連なりに意味を見出すことと、壁の染みに顔を見出すことと、何か違いはあるだろうか。何もない。映画に出会ってしまうこと、憑りつかれてしまうこと、そこに深遠で神秘的な想像を超えた何かが映っているのではないかと信じてしまうこと……我々はみんな狂人なのだ。そして自分だけに向けられたひそかなサインをキャッチするため、再び映画館に足を運んでしまうのである。

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