・ミカンジュース

「ミカンジュース飲みたい」


 光明はそんな台詞を聞いて困惑する。御影の顔は真剣そのものだった。


「御影」


 右を向きながら光明は問いかける。御影が長い髪を撫でながら、なに、と問いかけてきたの耳にしつつ、今、俺たちがどこにいるのか覚えているか、と尋ね返した。


「ミカンジュース飲みたい」


 御影は繰り返しそう口にする。光明は現実逃避の最中かと察し、こんな山の上にそんなものあるはずないだろう、と言ってから目の前に広がる一面の銀世界を眺めた。見晴らしの良さだけは最高だったものの、地上からの遠さは折り紙つきである。ミカンジュースにありつくためには少なくとも数時間を要するに違いなかった。


「三ツ矢サイダーでもかまわない」


 光明は、三ツ矢サイダーという単語に少々の懐かしさを覚えつつも、いやそういう問題じゃないだろう、と心の中で突っこむ。御影の言葉に誘われ光明自身も段々とコーラが飲みたくなってきたりしていたものの、だからといってないものを出すことはできないため、もう数時間前待て、と口にした。御影は首を横に振り、今すぐ飲みたい、とわがまま口にする。


 光明は、この女にも困ったものだ、などと思いつつも、この手のわがままは十年来の付き合いゆえに慣れていたため、はいはい行くぞ、と手を掴んだ。


「ミルクレープも一緒に食べたいよぉ」


 三ツ矢サイダーの隣に新機軸のわがままが加えられたものの、無視してずるずる引っ張っていく。御影の妄言をいちいち気にして何時間も経っていることはざらであったし、何よりも今冬山の上であることを考えれば、あまり長居はできない。御影に叩き起こされたのが朝だったのもあって、今は幸い昼ちょっと過ぎくらいではあるものの、これからするのは雪を避けながら下山であるうえ、幼馴染の女がふらふらして道に迷ったりでもしたら遭難もありうる。


 ミルクレープ、三ツ矢サイダー、ミカンジュース、水飴でもいいから、なんて立て続けに放たれる文句。光明は、はいはいまた後でな、と適当にいなしつつ、足元に気をつけながら慎重に進んでいった。御影もまたいくら口にしても現実が曲がらないことを悟ったらしく、途中から手を離し足早に下山しはじめる。自らの手を少しだけ名残惜しげに見つめたあと、光明は、滑るなよ、と口にしてから後を追いはじめた。


「道、ちゃんと覚えてるか。御影のせいで遭難とか勘弁だからな」


 御影がひらひらと気楽げに手を振ってみせるのを逆に不安に思い、一歩遅れた位置に陣取る。見立て、というよりも覚えている通りであれば、今のところ行きと同じ道を逆行しているはずだった。光明はほっと胸を撫で下ろしながら、早足の幼馴染の靴あとが雪の上にできていくのを眺める。御影の靴跡に続くようにして俺の靴跡もできているんだろうな、と思ってから、似たようなものを見たことがあった気がして、頭の中をぐちゃぐちゃと探っていった。


 光明が思い当たったのは、子供の頃。御影と知り合って何年目だったかわからない冬。身勝手さを今と同じように発揮した幼馴染に窓越しに誘われ軽い吹雪の中に連れだされた。光明は活発な少女だった幼馴染に頭があがらず、この日も親に怒られるのに怯えながら、もこもこに着こんで家を抜け出した。


 御影と合流後、家族にびくついていたのも忘れてハイになり、雪合戦やら雪だるま作りやらに熱中し小一時間後、予想通りというかなんというか、吹雪が強くなり案の定遭難じみた迷子になった。光明が混乱する中、大丈夫、と胸を張る幼馴染み。三日後に、いやぁ、もうダメだと思ってましたわ、なんて言われて白い目で見たりはしたものの、この時にかぎっていえばこれほど心強い幼馴染の姿もなく、泣いたりちょびったりするのを抑えられたのだから結果オーライだったかもしれないしそうじゃないかもしれない。


 身を包むコートをぎゅっと体側に寄せるようにして、凍える体を守りながら元来た道を探ろうとするものの、吹雪のせいで視界は真っ白で、どっちに行っていいのかすらわからなくなっていた。


 みっちゃん、大丈夫だよ。御影はそんな風に言って毅然としていたものの、前述したとおり内心ではダメだと思っていた最中である。光明にしたところでそれは同じで、むしろ諦めの方に傾いていて、パパママごめんなさい、なんて念仏のように心の中で呟いて、俯いた。


 御影の靴跡とおぼしきものが見えたのはそんな時で、ちょこっと尖ったどんぐりみたいなかたちのものが一つまた一つとできあがっていく。みつけた瞬間こそさして思うところはなかったものの、一歩一歩と踏み重ねられていくにつれて段々と心強さのようなものが増していって、少しほんの少しだけ寂しくなくなって、寒さとかやっぱり心細さで体を震わせたりしながらも、後についていき、結果として両親に怒られながら救助された。


 光明が今振り返るに、動くのはあまり得策ではなかった気がした。見つけてもらったから良かったものの、更なる遭難をして二人揃って冷たくなっていた可能性だってある。御影は信じられないことにその後も特に反省もせず、勝手気ままに今日までの日々を駆け抜けていた。


 みっちゃんも来てくれるよね。耳にすると同時にうんざりする誘いの台詞は、しかし幼い頃に築かれた関係性に基づいて断わることを許さないし、なによりよほどの用事がなければ断われないような気にさせられた。光明としても情けないことではあるが、いまだに幼馴染みの誘いを断われた試しはなく、だからといってそのままでいるのを良しとしたわけではない。


 御影が危険な時はなんとかできるような人間にはなろう。御影のためであるかと聞かれれば、必ずしもそういうわけではなく、どちらかといえばこのまま幼馴染の調子に付き合っていたら命がいくつあっても足りないだろうという危機感から、密かにそんな決意をした。


「みっちゃん、なにぼうっとしてるの」


 自らに付けられた慣れ親しんだ愛称を耳にして我に返ると、既に登山口が近いことに気付いた。光明は、ごめん、と一言謝ったあと、そう言えば幼馴染みも、みっちゃん、というあだ名でもおかしくないだろうし、むしろ二人を知らない人が名前だけ聞いて同じ音を聞いたらどちらがどちらかわからなくなるだろうな、なんてどうでもいいことに思いいたる。


「みっちゃんの笑い方、キモい」


 御影にじっとりとした目で睨まれている。光明の頭の中では、幼馴染のことを、みっちゃん、と呼ぶ想像が膨らんだあと、似合わないなという結論に思いいたり、わけもわからずおかしくなった。


「みっちゃんがおかしくなった」


 御影の呆然とした顔に、いつも頭がおかしいのはお前の方なんだけどな、と思ったあと、足元に視線を落とす。見れば変わらず幼馴染みの靴跡はあって、当然のように昔よりも大きくなっていた。光明は、かつてよりも大きくなった御影の足を想像したあと、果たして自分はかつて思い描いたような人間になれているだろうかと首を捻る。御影も自分もいまだ五体満足で命を落としていないという意味であれば、目的を達成したといえるかもしれなかったものの、振り回される状況が変わらない現状、常に後手後手に回らざるを得ず、命の危機は常に迫っているとも言えた。身勝手な幼馴染みは変わらないだろうし、実のところ光明自身もあまり変わって欲しいと思っていない節がある。


「見て見て、販売機あるよ」


 御影が元気良く指差したあと、鉄砲玉のようにして走っていく。ミカンジュース、三ツ矢サイダー、ミッキー、などと楽しげに歌う後ろ姿を追いながら、たぶんなるようにしかならないだろうな、と勝手にまとめる。光明のできることなんてたかが知れていて、死ぬ時は死ぬだろうし助かる時は勝手に助かるだろうし、きっとそういうものだ。


「ミカンジュースも三ツ矢サイダーもミッキーもないよぉ」


 御影が元気よく悲鳴をあげるのに苦笑しながら歩み寄る。光明はミッキーはいないだろうと思いつつ、冬だしな、なんて当り障りない答えを口にした。御影は頬を膨らまして、


「ミカンジュースが飲みたい」

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