妹は2人いる
シーズーの肉球
第1話/家に帰れば妹が
家に帰ると妹がいる。そんなこと、妹を持つ兄にとってはべつに普通なことだ。
仕事を終えて帰宅すると、玄関に見覚えのある靴が置いてあった。妹の、千織の靴だ。
妹が一人暮らしをしている俺の部屋に来るなんて、初めてではなかろうか。両親ですら最近は顔を見ていない。
狭い廊下を進むと、部屋の中のベッドの上に千織が座っていた。久しぶりに会ったからか、痩せたように見えた。
「何でいるんだよ?」
「合い鍵、持ってるし」
千織はそれだけ言った。質問の答えになっていない。俺は合い鍵なんていつ作ったっけなと頭で考えながら、朝出る前の部屋とは見違えるくらい綺麗になった部屋に驚いた。俺がいない間に掃除をしてくれたのだろう。
床に置いていた薬がなくなっていたので、千織に聞いた。
「俺の薬どこ?」
「机の上に全部まとめといたよ。ほんとに整理整頓が苦手だよね、兄さん」
肩を竦めて、呆れたように千織は言った。
服用しているのは抗うつ剤だ。それを医者に言われている量よりも多く(本来なら駄目だが)口に入れると、手近にあったペットボトルの水を飲んで流し込んだ。
「どう、その薬。効果ある?」
千織の妙な質問に俺は当然だとばかりに頷いた。
だが、飲んだ時の感覚がいつもとどこか違う気がした。まあ、そういうこともあるだろう。
「それで、何でいるんだ?」
「暇だったから。それに兄さんのことが心配だったし」
もう一度聞くと、千織は答えた。だが、その答えに俺は思わず笑った。
「何その反応」
ムッと顔を顰めた彼女に俺は説明する。
「だって嫌いだっただろ、俺のこと」
俺と妹は幼い頃、喧嘩をよくする兄妹だった。お互いおそろしく負けん気が強く、喧嘩をすればどちらかが泣くまで終わらなかった。片方が泣いているのを見て、もう片方も泣くというのがいつもの流れだった。
そして成長した俺達は喧嘩するくらいなら、関わらなければいいという見解に至った。触らぬ神に祟りなしというやつだ。多分ずっと、このままの関係だろうって俺は思っていた。俺が就職して家を出ると、完全に妹との繋がりはなくなった。
「べつに……そこまで嫌いじゃなかったよ。むしろ、もっとたくさん話したかった」
「……」
俺は絶句した。妹はいつから、こんな恥ずかしい台詞を口にする奴になったのだろうか。
そもそも、どうしてわざわざ一人暮らしの兄の家に来て、部屋の掃除までしてくれたのか。何か裏でもないと納得できない。
千織の隣に座ると、俺は彼女の身に着けている物に気づいた。それは昔、そこまで仲が悪くなかった頃、誕生日プレゼントとしてあげたマフラーだ。ダサいと一蹴されて、あまり喜ばれなかったが。そのくせ、ボロボロになるまでずっと使っているようだ。単純に物持ちがいいだけなのかもしれないが、素直に嬉しかった。
何かの計略じゃないとおかしいくらい、露骨なまで兄へのポイントを稼いでいる。俺は疑心暗鬼になった。妹にはよく騙された記憶がある。この妙な態度も計画のうちではなかろうか。
「何か企んでいるのか?」
「何の話よ。それより兄さんに言いたいことがある」
あらたまった様子で真剣な顔をこちらに向けると、妹は言葉を続ける。
「薬のこと。そんなに使わない方がいいと思うな。依存したら大変だし」
「学生のお前には分からないだろうけど、社会人は大変なんだよ」
凄まじいまでの仕事量。優しい顔して出る杭を打つ上司。業務連絡だけしかしない同僚。悪いところは枚挙に暇がない。
そんな厄介な相手と戦わないといけないから、仕方なく薬を使うのだ。そりゃ使わないで済むなら使いたくない、誰だって。
「……だとしても、薬はあまり飲まないでほしい。心配だから」
妹は小さな声で呟いた。
狭い部屋の中が居心地の悪い空気になり、俺は話題を変えた。
「まっ、お前はもう少し将来のこと考えて生きることだな。適当に学校に行くくらいなら、何か自分の得意なことを伸ばす方がよっぽどいい。何の夢もないまま働く俺みたいになりたくなかったらな」
「社会人ゾンビってやつだ」
「何だって?」
「千織作の造語。生きているのか死んでいるのか分からないまま働く社会人のこと。なかなか言い得て妙じゃない?」
「ゾンビって。それは言い過ぎだろ」
俺が反論すると、千織は笑った。本当に久しぶりに妹の笑顔を見た気がする。子供の頃に戻ったかのような気分になり、思わず妹の頭を撫でた。
「っと、悪い」
———殴られる。次に来る行動を予測し、静電気が走ったかのようにパッと手を離した。すると、千織はきょとんとした顔でこちらを見た。
「何で謝るの?」
「いや、だって……昔っから俺に触れられるの嫌がったろ」ずっと昔、ふざけて抱きついたら思いきり殴られた記憶が蘇る。そういえばそれが兄妹での初めての喧嘩だったような気がする。
「そーだっけ。まあ、心境の変化ってやつだよ」
「……」
話が盛り上がっていて忘れかけていたが、やはり妹の様子がおかしいのは確かだ。こればかりは間違いない。
もしや、別人? なんて、馬鹿な考えで千織を凝視する。やはり、どう見ても記憶にある姿そのままだ。
「どうかしたの? そんなに見てさ……」
困惑した様子の千織に俺は笑いながら言った。
「いや、もしかして妹そっくりな別人じゃないかもって思ってな」
冗談として言うと、千織はニヤリと笑った。なにか悪戯を思いついたとき特有の表情だ。
「な、何だよ」
「ううん、べつに? ……じゃあね、兄さん」
それだけ言うとスッと立ち上がり、玄関から出ていってしまった。
「…………は?」
閉じたドアを見て、俺は茫然としていた。あまりにも唐突な展開に脳が追いついていない。
さすがにこのまま放っておけるわけもなく、部屋を出る。それほど時間が経っていないはずだというのに、周囲に千織の姿はなかった。
もしやどこかに隠れているのかと思った時、ポケットのスマホが震えた。どうやら電話らしい。画面を見ると、母親からだった。いつも忙しい時に限って電話がかかってくるのだ。
「なに? いま忙しい……」
電話に出た俺の声を遮り、母は涙声で言った。千織が亡くなったと。
「いやいや……冗談だろ? だって、さっきまで一緒に」
俺の話を母は聞いていないようだった。電話越しからは慟哭しか聞こえない。俺は涙一つ出なかった。当たり前だ。先ほどまで妹と話していたのだ。千織が死んでいるなんて、ありえないと知っている。
となると、これは千織のドッキリか何かか。やはり相変わらず性格が悪い。悪戯が趣味だなんて恥ずかしげもなく言うのが俺の妹なのだから。
躊躇なく電話を切る。騙されている母の相手をしている場合ではないのだ。とにかく千織に会って、真相を聞かなければ。
暗闇の中を闇雲に捜すが、頭が上手く働かない。この落ち着かない気分は妹が亡くなったと聞いたことによる動揺だけではないだろう。やはり、さっき飲んだあの薬は偽物だったのだ。
そもそもいつもと味が違った時点で怪しむべきだった。あの甘酸っぱい味は明らかラムネ菓子だ。妹が、薬を似た形のラムネ菓子にでも取り替えたのだろう。
「いったい何が目的で……」
思わず口にすると、静かな夜道に大きく響いた。目が慣れていないのもあるだろうが、とても暗くて視界が悪い。幽霊が出てきてもおかしくない雰囲気だ。
……もしかすると、先ほどの千織は幽霊だったのだろうか。そんな発想が頭に浮かんだ。
いや、それはありえないとすぐに否定する。俺は千織の頭を撫でた。触れることができたのだ。実体があればそれはもう幽霊ではないだろう。となると、千織は生きている。
俺は自分が安心していることに気づいていた。仲は良くなかったけど、たった一人の妹なのだから。
夜の街を走る。走る。走る。心臓の鼓動が激しいのが分かる。何度もスマホが震えていたけど、無視する。明日だって仕事が早いのにずっと、外が明るくなるまで妹の姿を捜し続けた。
だというのに、それは全て無駄に終わった。
けっきょく俺が次に千織の姿を見ることができたのは、ベッドの上で眠るように目を閉じた姿だったからだ。
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