夜半の寝覚めはだれそれと

lager

寝覚

 金縛りというものに、あったことがあるだろうか。


 古来より霊的な現象として洋の東西を問わず様々な言い伝えや体験談が残されているが、実際には疲労や精神的な要因によって起きる睡眠障害の一種であろうというのが、現代医学のものの見方というやつであるらしい。

 ただまあ、俺が最初にその単語に触れたのはポケットに収まるモンスターのゲームの技の名前であったので、あんまり恐ろしいとか不気味だとかっていう印象はなかったりするのだけど、人によっては何かしら重大な疾患のサインであったりするらしいので、注意が必要なのだそうだ。


 ところで皆さん、金縛りって、あったことあります?

 俺はある。

 というか今、なってる。

 意識ははっきりしているのに、体が動かない。

 ぴくりとも動かない。

 おっかしいなー。

 何がおかしいって、あなた。

 ストレスが原因で起こる睡眠麻痺?

 いやいやいやいや。


 俺の目の前に見えるのは、薄らと透き通った、青白い顔をした男の顔。

 その肩から伸ばされた腕が、俺の身体をぎゅうぎゅうと押さえつけている。

 生気の感じられない表情。

 だらしなく開いた口元。

 …………どう見ても幽霊です。


 めちゃくちゃ心霊現象じゃねえか!!


 周りは真っ暗なはずなのに、不思議なほどはっきりと見える虚ろな顔が、俺を真上から見下ろしている。

 俺の両肩を抑える骨ばった腕からは、なんの感触も感じられない。それなのに、その掌が触れている個所から伝わる薄っすらとした冷気が俺の体を支配し、一切の動きが封じられている。


 しかも。

 俺はその顔に、見覚えがあった。

 それは確かに、死んだはずの男なのだ。

 生きているはずがないし、生きているようにも見えない。

 その口元が僅かに動き、掠れるような声が漏れ聞こえてくる。


「……い」


 始めは、枯葉の擦れるような音が。


「……く…い」


 やがて子音が聞こえるようになり。


「死」


 言葉が意味を持ち始める。


「……たく……」


 ああ。


「…に…くない」


 分かるよ、言いたいこと。


「しにたくない」


 そりゃそうだろう。

 誰だって、死にたくない。

 けどなあ、お前。

 そんな半透明になって。

 黒目も表情筋もなくしちゃって。


「いきたい」


 やめろよ。


「死にたくない」


 ふざけんな。


 俺の体は、相変わらず動かない。

 けど、どうやら顔の筋肉だけは動かせるらしい。


 俺は歯を食いしばった。

 根限り瞼を見開き、瞳の先に火を灯すように、男の顔を睨みつけた。


 消えろ。

「しにたくない」

 消えろ。

「いやだ」

 消えろ!

「いきたい」


 お前はもう、死んだんだ!!


 その時。


 ずるり。


 と、腐った泥沼をかき混ぜるような音と共に、目の前に真白い刃が飛び出してきた。


「……あ」


 幽霊男の胸の真ん中から、刃物の先が覗いている。

 幽霊男が、ぽかんとした顔でそれを見下ろす。

 次の瞬間。

 ぴし、と音を立てて、幽霊男の体が罅割れた。

 刃を中心に、蜘蛛の巣のような罅割れが、全身に伝っていく。

 ぴしり。ぴしり。


「あ。……あ。…やだ。いやだ。…あ」

 幽霊男が身体を掻き毟る。

 罅割れが、余計に広がっていく。

 ぴしり。ぴしり。


「嫌だ。…ああ。しにたくない。しに……しにたく……あ」


 ぱりん。


 シャンパングラスの割れたような、甲高い音。


 眩い光の粒子となって。

 男の体が、弾けて消えた。


 その青白い光の中に、俺は見た。

 それは、女だった。

 小さく、細い女だ。

 触れれば折れそうなほど細い手足を、フリルがたっぷりとあしらわれた真白いワンピースから覗かせている。

 その手に握る、大振りのナイフ。

 髪は黒。

 前は目の上にかかる程。後ろは腰に届く程。

 ぎょろりとした大きな目の下に、濃い隈。

 薄い唇は青紫で。

 ひと目見ただけで暗黒に引きずりこまれそうな、女の姿だった。


 女と目が合った、気がした。


 それは一瞬で弾けた光の粒と共に、闇に溶けて消え、俺の前から姿を消した。

 後にはただ、無音の闇だけが残った。

 きぃぃん、と、耳鳴りが響く。


 ……何だったんだ、一体。


 俺は目と頭と喉に痛みを覚え、ようやく自分が瞬きと呼吸を忘れていることに気づいた。

 咳き込むように荒い息をつき、力一杯目を瞑り、開く。

 額を流れ落ちる大量の汗を拭ったところで、金縛りも解けていることに気づく。


 何が何だか分からないが、この異常な事態は、取り敢えず収束したということでいいのだろうか。

 闇の中で手を握っては開き、身体におかしなところがないのを確かめる。

 今何時だ?

 ぐっしょりと濡れたシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。

 喉もカラカラだった。


 取り敢えず、水が飲みたい。

 服も着替えよう。

 俺はむくりと起き上がると、重たいシャツを乱雑に脱ぎ捨て、手探りで部屋の電球の紐を探し出し、引いた。


 そして。

 再び目の前に現れた女と、今度こそしっかりと眼が合った。


「「……………え?」」


 一秒だけ、見つめ合い。


「おわああああ!!!」

「きゃああああ!!!」


 六畳間の和室に、二人分の悲鳴が響き渡った。


 ……二人分??

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