君の世界は劣等で
分厚く、堅牢な扉に触れる。手のひらから伝わってくる無機質な冷たさは、確かに、以前感じた感覚だ。
「……入るぞ……」
ティアとエナが同時に頷いたのを確認し、満身の力を両腕に込めた。ぱらぱらと扉から砂埃が舞い落ち、閉ざされていた扉が低い声で慟哭する。扉と扉の間、その隙間が広がる毎に、生暖かい風が髪を揺らし、つんとした黴の臭いが鼻についた。
完全に扉が開くと、微かに音が聞こえる。獲物を求め、迷宮内で闊歩しているであろう魔物の呻き声。それが幾重にも重なり、それがここにまで届いているのだろう。
背骨を冷たいものが這い、喉が勝手に生唾を飲み込んだ。
「行きます…………!」
ティアが意を決して、悠然と佇むダンジョンの口腔内に足を踏み入れた。その背中を俺とエナが追い掛けようと同時に足を入口の境界線の向こう側へと踏み込んだ直後、何かが俺たちを弾き飛ばした。倒れ込んだ状態で後ろに目をやる。すると、先程まで俺たちを向かい入れていた扉が、無慈悲に、ゆっくりと閉まって行っていた。
「クソッタレッ!!」
臆病な猫のように飛び上がり、扉へ向かって跳ねる。が、すんでのところで僅かに見えていた光が閉ざされてしまった。がこん、と小気味よい音と共に、辺りは漆黒に包まれる。開けていた視界が闇で遮られると、強い焦土感が喉の奥からせり上がってきた。
しかし、それも束の間、黒く塗られていた瞳に赤い光が彩られ始める。壁に立てかけてあった松明に、独りでにごうごうと燃え盛る火炎が灯ったのだ。それは俺の目の前にある一本だけでは無く、通路の壁中無数に設置しており、それら全てに明るい光が宿っていた。
「歓迎されて……る、のかな……?」
惚けた様子でエナがそう呟いた。
「そうだと良いがな……。俺が先陣を切ろう。お前らは後ろから付いてきてくれ」
少々怯えた様子を見せる二人を後ろに下がらせ、注意深く周りを観察しながら進む。
煌々と輝く松明に、苔むした石壁。微かに漂う獣臭に……これは……濃い、死臭。今まで嗅いだ中で、最も強い、臭い。
歩を進めると、にちゃりと何かを踏みつけた。粘着質な感触で、少しばかり足を取られる。着々と強みを増していく死臭を嗅ぎながら、足裏に目をやると、何か赤黒い物体が土踏まず付近に張り付いていた。摘んで引き剥がすと、それの間に黒い橋がかかって落ちる。
これは……肉片……? 一体何の……。いや、これは……
————
「気をつけろッ!!」
「キチチチチッ」
背後の二人に注意を促した刹那、俺の頭上から奇怪な音が聞こえた。後頭部がさあっと冷たくなり、吹き飛ぶように前方に向かって回避する。背後から一凪の風を感じ、眼に映る景色が目まぐるしく回転する。
「「フェオッ!!」さん?!」
立ち上がって見ると、先程まで俺が居た場所の石床が、深く細く抉れていた。その溝に前脚を突っ込み、きちきちと耳障りな音色を奏でる影が一体。
「危な……!」
その影は俺の声に反応したかのように、その醜悪な顔面を俺に向けた。やけに大きな目玉が顔の半分を覆い尽くし、残った下半分は、裂けんばかりに広がった口で隠されている。ぽたり、ぽたり、と半透明な涎がその口の端から滴り落としながら、そいつがゆったりと前脚を引き抜いた。その様子だけで、こいつの武器、戦闘方が容易に想像出来る。
巨大な虫のような輪郭から感じるのは、純粋で、一切の混ざり気無い、悪意。単純に獲物を殺そうとする殺意だけだ。
松明の灯りを反射し流麗に輝く鎌。
それがこいつの最も重要な武器なのだろう。
悍ましく、凶悪的なその形状は、貫かれた獲物の様を想像させる。
「刺さったらやばそうだ……」
「キチチチッ!!」
そいつが再び残響の如き鳴き声を上げると、目にも留まらぬ速さでそいつが床、壁、天井、と跳ね回り、俺の首元へと飛び掛かってきた。
「ちょっ! ちょ、ちょ、待てッ!!」
情けない声を漏らしつつ、死に物狂いで経路を予測し、間一髪で見えない斬撃を避ける。そうして背後で身構える二人の足元へ滑りこんだ。
「 ————ッ!」
背中が、熱い。火が線状に連なって伸びているかの様だ。躱しきれずに皮一枚もらってしまったらしい。
「フェオ、下がってて。ここは僕が出よう」
奴を睨みつける俺の前に少女が立ち塞がり、不気味にこちらを見据える虫と正面きって対峙する。寧ろ、余裕とも取れる笑みを浮かべて。
「キチチチチッ!!!」
先程よりも矮小な獲物が自ら来た————。そう言うかのように虫が口角を上げ、同じように通路を縦横無尽に刻みながらエナに迫る。床が、壁が、天井が、その凶悪な武器によって、切り刻まれていく。その傷は凄まじい速さでエナへと伸びるが、悠然と立つ少女は全く意に介さず、微動打にしない。飛び交う影が、その喉元の極限まで近付いた時、初めてエナが動きを見せた。
「えっーと……今ッ!!
少女の声帯が大きく震えると、四方八方の壁から、淡く発光する鎖が次々と現れ、エナの柔肌に右足を刺しこもうとする体制のまま虫が固まった。鎖がその硬質な体を雁字搦めに捉え、決して離そうとしない。自慢の鎌で切断しようとするが、きん、と力無く弾かれてしまった。
「こういう速い奴らはね、一度こうやって捉えて……」
エナが右手の人差し指を慎重に固定された虫に向け、微か呟く。すると、辺りの光がまるで吸い込まれるかのように彼女に集まったかと思うと、高速で指先から何かが飛び出し、虫の瞳と瞳の間を撃ち抜いた。
びくんと大きくその歪な体が震え、風前の灯を宿した虫がやたらめったらと暴れ出すが、巻き付いた鎖たちが一切の抵抗を許さない。やがて力無く鎌が垂れ下がり、ぴくりとも動かなくなった。
「終了、かな。案外呆気なかったね」
エナがその顔をこちらに向けると、光が淡い輝きを残して消え、物言わぬ骸と化した虫が、がしゃんとその体を床に落とした。
「フェオ! 大丈夫だった? 痛くない? 僕が後で治してあげるね。取り敢えず今は……」
すぐさま俺に駆け寄ったエナが、矢継ぎ早にそう喋り、俺の背中をぺたぺたと触る。傷口を布のようなもので軽く拭われた後、暖かいものがじんわりと背中を覆った。
「取り敢えず、応急処置はしておいたよ。万が一、毒があったら怖いしね」
「……助かる」
そう言って立ち上がろうとすると、突如走った高周波が、俺たちの鼓膜を劈いた。三人が三人とも耳を抑え、眉を歪ませる。発生源を探すと、確かに死んでいた筈の虫の死骸が、金切り声で啼いていた。
「キュイッ!! キュイキチチチチチ!!」
「あいつッ! 生きてッ!」
怒りとも、嘆きとも取れないその頭が割れるような咆哮は、ものの一分もしないうちに終了した。ぴんと張り詰めていた虫の首がぱたりと儚く落ちる。
「この虫……何処かで……」
「ティア、この虫を知ってるのか?」
「うーん…………あ、思い出しました。この虫は別名
トーリス。下位の魔物ですね。確か単体ではそれほど脅威ではなく、寧ろ真の脅威は————」
何故だろう。激しい悪寒と嫌な予感が体中を突く。
通路の奥から、何かが大量に走ってくる音が聞こえてきた。
「————死ぬ時に大量の仲間を呼び寄せる習性だと」
してやったり顔でティアが解説する————その後ろからわっと津波のように虫の大群が現れた。通路の奥からこちらに迫って来ている。どうにも嫌な予感が的中してしまったようだ。
あの虫の散り際の叫び、あれは厄介な事に仲間を呼び寄せていたのだ。
「もう少し早く思い出せ! ほら、さっさと逃げるぞ!」
二人の手を掴み、通路から伸びていた横道に逸れて疾走する。響く轟音を背中に浴びながら、俺はこの二人に着いてきた事に少しばかりの後悔を抱いてしてしまっていた————。
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