君の世界は敬愛で

 万物が息を殺し、漆黒の闇に紛れて蠢く夜。エナの家のソファーに体を預けていた俺は、どうも眠りに入れずに居た。


 枕が変わると眠れない、そう言う人が少なからず居るとよく聞く。例に漏れず、俺もその類の人間だった。どうにも、落ち着かない。夜風にでも当たってこようか。


 そう思い立ち、倒れていた背中を起こす。すると、甘く、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。それと同時に透き通るような声が背中を叩く。


「あ、フェオ、起きてたんだ」


 エナが袖を手のひらまで伸ばし、湯気が立ち上るカップを両手で抱えていた。この香りの根源は恐らくあのカップだろう。


「ああ。ん? お前もティアと寝たんじゃなかったのか?」


「どうも寝付けなくてね……。フェオも僕と同じだろ? ————あちち、ふーっ、ふーっ」


 口をカップから離し、さも熱げに息を吹きかけて冷まそうとする。そんな様子を、音も無く見つめる俺にエナが気付くとこう言った。


「ただのココアだけど…………飲む?」


「ああ……」


 間髪入れずに即答する。実のところ、ちょうど口が寂しいところだった。そう、適度な甘味を体が欲している、そんな状態。こんな深夜に取る糖分は、いかんせん体調を整えるには優れない。だが、まあ、良いだろう。たまには欲求に従うのも悪くない。


「はは……じゃあ、どうぞ」


 目線を左右に泳がせながら、エナがおずおずと自らのカップを差し出した。何の気なしに受け取り、口を付けて少しだけ口に含む。


 刹那、破壊的な甘味が俺の味蕾を深く抉った。どろりとした感触が舌全体を撫で回し、その度に痛みとも取れる味が脳髄を突き刺す。そんな毒物を簡単に飲み込める筈もなく、俺は勢いよく前方に口の中で蔓延る異物を吐き出した。


「ブハッ!!!」


「わあっ!! な、何するんだよ!!」


「飲めるかこんなもん!! 砂糖入れ過ぎなんだよ!!」


 目の前で、茶色く濁った液体を全身に纏ったエナが怒りを露わにする。全て俺が盛大に振り撒いた、ココアによるものだ。純白の肌も、漆黒の髪も全て清々しいほどに黄土色だ。


「あーあ……べたべたじゃないか……」

 

「ご、ごめんな……」


「…………お風呂入ってくるよ」


 そう言って、エナが浴室に入って行った。胡桃の雫が足跡のように落ちている。近くにあったタオルを手に取り、一心不乱に床を拭いていると、不意に浴室のドアがかちゃりと動いた。その隙間からエナが顔を出す。


「ねえ、フェオ」


「な、なんだよ。風邪引くぞ」


「僕がわざわざ入り直す事になったのはさ。殆どフェオの所為だよね?」


「いや……まあ……」


 そう俺が答えると、見えているエナの顔が不気味に微笑んだ。まるで、獲物を捕らえた蛇のように。


「じゃあ、責任取ってさ、僕の体を洗ってよ」


「はあっ?!」


「良いじゃないか。減るものでもあるまいしっ!」


 咄嗟に腕を掴まれ、おおよそ少女の息を超えている膂力で中へと引きずり込まれた。叫び声を上げる暇すら無い。中で転がされると、鼻息を荒くしたエナが眼前に立ち塞がった。原始的な恐怖を身近に感じる。


「ま、待て。落ち着け」


「僕は至って落ち着いているよ?」


 そう言いながら、頰が紅く高揚させたエナが俺の服の襟に細指を掛けた。彼女が少し指を動かすだけで、容易く床に服が落ちる。拒まなければいけない、と強く考える俺の意思とは正反対に、体内ではいつもより数段強く脈打っていた。


「へえ……結構、逞しいんだね……」


 悩ましげな声を口端から漏らし、俺の腹筋を人差し指でゆっくりなぞる。肌と肌とが接した部分が、敏感に冷たい刺激を感じ取った。


「うあっ……。エ、エナ、頼むからやめてくれ……」


 絞り出した俺の懇願を聞き、エナがくすくすと笑みを零した。妙に黝ずんだ瞳で囁く。


「何をかなぁ……? 早く全部脱いでよ。洗ってもらわなくちゃならないんだから」


 掴まれた俺の右腕が、痛みで叫び始めた。千切られんばかりに拘束され、顔が僅かに歪む。強引に服を剥ぎ取られ、これまた強引に浴室に引っ張りこまれた。


 通常では考えられない力。恐らく、レベル差に関係しているのだろう。


「なあ、エナ。お前レベル幾つだ?」


「僕? うーんとね……ちょっと前なんだけど、確か68はあったと思うよ」


 68…………。こんな少女でさえ68……。


 そんな不条理な現実を肌で感じ、虚空を除いたような心境になった。エナと言いティアと言い……どいつもこいつも俺に劣等感を苛ませる奴らばかりだ。


「じゃあ、はい。これ、石鹸だよ」


「あ、ああ……。何かタオルのようなものは……?」


「うちにそんなものないよ?」


「いや、そ————」


「ないよ?」


 渋々引き下がり、石鹸を両手に馴染ませる。すると、たちまちのうちに良い香りが漂い、ぬるぬると手が潤沢に覆われた。目の前で、椅子に腰掛けるエナの背中に手のひらを押し当てる。


「あ…………」


 エナの扇情的なため息が、静かに鼓膜に届く。鼓動がより一層迅るのを感じた。そのまま、ゆっくりと舐めるように手のひらを擦り付け、博麗なその背中を泡で彩っていく。やがて、腰辺りに差し掛かった時、横斜めに走る傷跡に気がついた。荒く響いていたエナの吐息が、そこでぴたりと止まる。薄紅色になっており、非常に痛々しい事この上ない。


「……昔、ちょっといざこざがあってね。気にしないで、続けてよ」


 微かに肩を震わせ、エナが振り返らずにそう言った。


「治せないのか……? これは」


「うん……。どうも……ね」


 エナの明るい調子だった声から、暗く、物々しい声に様変わりした。余程の事があったのだろう。気の毒だ。


「そうか…………。まあ、気にするな。いつかは治るさ。俺が保証する」


「……本当に? 」


「ああ。治るさ。最悪、俺が責任持って治してやるよ。残念ながらレベルは11ぽっちだがな」


 俺がそう言うと、エナの沈んだ顔が、ぱっと元の明るい表情に変化した。燦爛な笑みで俺に笑いかける。


「治らなかったら、一生掛けてでも治してくれる?」


「あ、ああ」


「その言葉、忘れないよ」


 エナが顔いっぱいに笑みを広げ、裸で俺に抱き付いてくる。その光景を見て、何故か、俺は、後悔の念を抱いてしまうのだった。


 ♦︎


「私が寝ている間に、二人で何をしていたんですかね……」


 ティアが嫌味ったらしく文句を垂れる。朝、寝ぼけ眼で起きてきたティアに、ソファーで一緒になって眠る俺とティアが見つかったのだ。正直なところ、殺されるかと思った。


 殆ど見ず知らずの異性と、自らの大切な友人が一緒に寝ていたのだ。まあ、俺ならば生暖かく見守るが。


「お前はいつまで言っているんだ……」


「そうだよ! 喉元過ぎればなんとやらって言うしね」


「お前それ多分それ使い方間違えてるぞ」


「だって……挙句の果てにエナまで付いてくるって聞かないですし……」


 俺たちの冒険譚探しに、エナも着いてくる事になった。まあ、戦力が増えるのは良い事なんだが……。


 昨日から俺に引っ付いて離れない。

 今も俺の腕に自分の右腕を絡めてくる。


 獣道が段々と険しくなってきた。そろそろだ。そろそろあのダンジョンの入り口が見えてくる筈だ。


 そうだ。あそこだ————


 茂みを掻き分けると、とても信じがたい光景が広がっていた。絶句し、立ち尽くす。


 眼前では、地面に横たわり、血の海を広げる無数のオークと、その内の一体の側に座り込み、一心不乱に腹から臓物を引きずり出し、貪る一つの『影』が居た。



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