君の世界は酷道で

 息を飲むほど澄み渡る晴天の元、麦わら帽子を目元まで被った彼女が笑って駆ける。


「あははははっ!! ねえ、————! 」


 突風吹き荒ぶ中、ワンピースの裾を靡かせ、頭上の帽子を片手で抑えながら俺に向かって手招きしている。


 それに答え、俺が彼女へ追い付こうとした刹那、すぐ横を見知らぬ影が横切った。到底追い付けぬ素早さで影が彼女の輪郭を覆い尽くし、麦わら帽子が空を舞う。すぐさま肩に手をかけ、止めようとするが、俺の手は陽炎のようにすり抜け虚しく空を切った。


 何度手を伸ばしても、そこには何も無い。


 その貪欲な影と、それを満面の笑みで受け入れた彼女が、鼻と鼻が付きそうな距離で互いの瞳を見つめ合う。側から見れば、只の伴侶同士にしか見えないその光景を、俺は拳を握り締めて眺める事しか出来なかった。


 ♦︎


「何……スカしてんだてめえッ!!」


 そうがなりたて、手にした酒瓶を俺の頭上へ振り下ろす。すぐさま椅子から立ち上がり、まるで注意していない、がら空きの足元へ右足での蹴りを叩き込んだ。


 行き場を失った推進力は、本人の体を床へ叩きつける。苦しげに唸る破落戸の顔面を、あらん限りの力で踏みつけた。腕がぴんと張り詰めた後、だらりと力無く垂れ下がる。


 嫌な事を思い出させやがって————!!!


 今迄、記憶の奥底、それも一番下に保管していたものを、何の気なしに引き摺り出された。気分が悪い。


 マスターがより一層怯えた表情で俺を見る。その恐怖する目が、記憶の彼女と重なり、吐気を覚えた。


「なっ?! おい! てめえ! やりやがったな!!」


 今の今まで愕然と我を忘れていた破落戸の片割れが、自らの胸元に手をやり、流麗に光る何かを取り出した。


「死ねやッ!!!」


 取り出したナイフを構え、俺の腹目掛けて破落戸が突進して来る。徐に、転がっている破落戸から酒瓶を奪い取り、刺さる寸前、歪み始めた破落戸の顔目掛けて振り抜いた。琥珀色の液体と青緑色の破片が空に散乱し、


 畜生の如き声を出し、破落戸が顔を隠すように悶え、仰向けに倒れ込む。無抵抗なその腹目掛けて、割れた酒瓶を投げ付けた。丁度良く、破散した方が腹にめり込み、新たに赤銅色が辺りに散らばる。


 破落戸が、大きく雄叫びを上げた。


「ちょっと、フェオさん! 何をしているんですか!!」


「黙れッ!!」


 ティアの声を受け流し、刺さった瓶の口を足の裏で踏み付ける。口を裂けんばかりに広げ、更に破落戸が叫んだ。


「こいつがッ……こいつが悪いんだッ……」


「フィオさん……。何で、泣いて……」


 そのティアの言葉で、いつのまにか俺の頬を冷たい何かが伝っている事に気付いた。微かに乾いて熱を帯びている。それを袖口で無造作に拭い、破落戸共の上着から抜き取った財布をマスターに投げた。


「すまん、迷惑かけたな。それは取っておいてくれ」


 呆然と俺を見るマスターを尻目に、俺とティアは血と破片散らばる酒場を後にした。心配そうに、俺の顔をティアが覗き込む。


「フィオさん……。その、あの、だ、大丈夫ですか?」


「…………黙れ」


 今は、ティアの声さえも鬱陶しい。この町の騒々しさも、空を飛ぶ鳥の鳴き声さえも。全てぐちゃぐちゃに壊したくなる。一層の事壊れてしまえばいい。


 かつての俺のように。


 こんな心情、八つ当たり同然って事は分かっている。ガキか、俺は。


「フィオさん! あそこじゃ無いですか? エナが言ってた場所!!」


 そう俺の肩を叩くティアが指差す方向には、怪しげなカーテンで扉を覆い隠した如何にもな店が聳え立っていた。


 少しばかり、入るのに抵抗を感じる。


 そう怖気付き、尻込みしている俺とは正反対に、ティアはすたすたとカーテンを潜って入ってしまった。意を決し、恐る恐る潜ると、中に居たのは紫黒のフードを目一杯被り、長い白髪を椅子の足まで垂らした老婆だった。嗄れた声を皺だらけの喉から絞り出す。


「何が、ご所望かな……?」


 ♦︎


「あ、おかえりー。フィオ、どうだった? ちゃんと全部買えたかな? お金足りなかったりは無いと思うけど……」


「あ、ああ。十分すぎるくらいだったぞ」


 エナの家のドアを開けた瞬間、何か小さいものが俺の胸にぶつかった。目をやると、エナが俺に可憐な笑みで笑いかけていた。唯一残った腕が荷物で塞がり、身動きが取れない。


 俺の背中に回していた手を解き、その少し小さな手で俺の頬を隠す。


「あはは、フィオ、冷たいね。外にいたからかな?

 …………冷たくて、冷たくて、柔らかいな」


「あ、ああ。いや、あのだな。申し訳ないんだが……」


「フィオさん!! いつまで突っ立ってるんですか!!」


 背後からティアの罵声が轟く。すると、漸くエナが俺から離れた。家の中に入ると、柑橘系の良い香りと、少しばかり、薬品特有のつんとした匂いがする。


「……ティア。おかえり。昔から変わらないね。そう言う所」


 からからとエナが微笑を浮かべる。


 何故だろう。何の変哲も無い、何処にでもある光景なのだが、不思議と俺の腕には鳥肌が立っていた。


「まあ……良いや……。よし、全部あるね。じゃあ、フィオ、そこに座っておいて。今から始めるから」


 エナに促されるまま、椅子に腰掛けると、彼女が奥へと引っ込んだ。暫く経つと、右手に何かを持って顔を見せる。


「ティア。ちょっと手伝って欲しいんだけどさ」


「え————、ええ、何をすれば?」


「大した事じゃないよ。ただ、フェオの体を押さえつけていて欲しいんだ。全力でね」


 疑問符を頭の上に浮かべ、意図が理解出来ていない様子のティアが、徐に立ち上がった。その状態のまま、俺を後ろからがしりと羽交い締めにする。


 少し、いや、とても嫌な予感がする。


「さてと、フェオ、今からすっごく痛い事をするけど、君は男の子だから……我慢してほしいな?」


 そう俺に言い放つと、俺の左腕を覆っていた布を取り払い、右手に持った羽ペンを深く、断面に突き立てた。ペンの先端から生暖かい粘液が吹き出すのを肌で感じた。


「ぐぉあああああああッ!!!!」


 痛覚を司る神経を纏めて引き千切られたような痛みが脳髄を走る。在ろう事か、エナがペンを突き立てたまま、縦横無尽に引き裂き始めた。


「ああああああぁぁぁぁ!!! ————かはッ!」


 叫喚の声で喉が張り裂け、鉄臭い味が口中に広がる。倒れ込もうとしても、離してくれないティアによってそれすら出来ない。


「ちょっと! エナ! 何を————」


「良いから! 黙ってよ! ああ……フェオ……痛い? 痛いよね? 痛いんだろうね……ごめんね……」


 耳元で誰かが何かを囁くが、俺の鼓膜には寸分も届かなかった。続け様に供給される痛みによって、全機能が占拠され、機能しない。


 痛い。痛い! 痛い? 痛い……


 頭蓋の中でその言葉だけが乱反射し、光彩を放ってくっついていく。


 やがて、供給過多になった俺の脳は、静かに、ゆっくりと意識を手放した。

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