あの女

芥流水

あの女

 ルームシェアがこの国でも一般的な言葉になって、もう幾日であろうか。これは文字通り、マンションの一室や、家などを複数の人物で共有して、そこで一種の共同生活を送ることである。

 これの利点をあげるとするのなら、家賃や光熱費と言った諸々の生活費が一人でいるよりもずっと安くなることだろう。

 欠点をあげるならば、昨今話題になっているプライバシー保護が難しくなること、そして、片方に不幸があった時、もう片方にもそのとばっちりが来ることである。

 私はそれを身をもって体験することになったのである。


 私がこれをしていたのは、大学に通い始めた時分であった。その時、私は生活に少なからず困窮していた。東京という土地も私に牙をむいた。ここの地価の高さがそのまま家賃に反映されているのである。

 私はこれには大いに閉口したが、それでもこの土地で暮らす以上、どこかに住居を構える必要があった。ホームレス生活をするには、私には覚悟が足りなかった。


 そんな私の目に止まったのが、ルームシェアという文字であった。

 私は色々苦労したあげく、ある男とそれを行うところまで、こぎ着けた。一般的な言葉になったからと言っても、それが行動に結びつくには、更に時間が掛るものだ。そして、ルームシェアは、まだその段階にまで至っていなかった様である。


 さて、その相手の男のことである。彼は私と同じく、大学生であった。いや、正確に言うと、まだ大学生ではない。この春から芸術大学に通うということである。

 しかし、そこで問題が浮上したらしい。なんでも、家においても芸術活動を行いたい。しかし、あまりにも劣悪な環境になると、それが阻害されるおそれがある。しかし、それ相応の所に住むとなると、家賃の問題がある。彼は私と同じく、裕福とは言いがたい家庭に育ったようで、仕送りは期待できないとのことであった。

 そこで、その問題を解決するためにルームシェアを募っていたというわけである。

 私と彼は数度の面会の後、互いに信用に足る人物である事を確認し、ルームシェアを行うことを決定したのであった。


 私達が借りたのはとあるアパートの一室であった。そこには部屋が二つあり、また壁も十分厚く、互いにプライバシーの確保が満足の出来るまで保証できる事から、選ばれた。

 難点をあげるとするなら、駅から若干距離のあるところであるが、快適な生活のためにはその程度の障害は二人とも許容の範囲内であった。


 見ず知らずの相手とルームシェアを行うという事で、私には少なからず緊張や不安もあったのだが、いざ住み始めてみると、格別何の問題もなく日々が過ぎていった。私と彼も親しい隣人といった関係性であり、時々一緒に食事をしにゆくほどの仲となっていった。


 しかし、その平穏な日常は、ある瞬間から瞬く間に消え去ったのである。そう、あれは私達が共同生活を始めてから一年が経とうかというときであった。


 彼が、唐突に一人の女性を連れてきたのだ。それも非常に美しい人を。

 彼はそれまで女気のない生活をしており、会話の中にもそれを匂わす様子が、全くといっても良いほどなかっただけに、私は驚嘆した。

 しかし、後に聞いてみたところによると、彼女は絵のモデルであり、そこに情欲だったりした男女の関係が入る余地は無いようであった。


 しかし、その頃から彼の様子がおかしくなってきた。時折ボゥとして、話しかけても反応が返ってこないことがあり、しかもその状態は徐々に長くなってきているようであった。最初の頃は私も、成程これが恋煩いという奴か、確かにあの女性は美しかったなどと、楽観視していたのだが、それがどうやら尋常では無いようだということに気付いたのは、それから更に半年も経ってからのことであった。


 その頃になっても、まだ件の絵は完成していないらしく、彼は彼女を時々連れてきた。しかし、その目は決して好意を持っているという物では無く、むしろ、畏敬の念というか、まるで人間以外の、それも非常に強力な存在に向けられる類いの目であった。


 そんな日もしかし、長くは続かなかった。

 あの日、私は彼に貸していた、ある作家の全集を返してもらう約束をしていた。

 しかし、昼を過ぎても、彼は己の部屋から一向に出てこない。外泊でもしたのかしらんと、玄関を見てみるも、彼の靴は全足そこにあった。彼は部屋にいるということだ。

 そもそも、彼は律儀な性格をしており、借り物があれば期日までに返すし、返せないにしても、その旨をつたえてくる男だ。

 私は妙な胸騒ぎを覚えて、彼の部屋の扉をノックした。しかし、返答はない。

 私はその扉を開けるべきか、少しの間思案したが、ええいままよと、己の直感に従い、その部屋の中を見ることにした。


 始め私は、自分が目にした天井からぶら下がるものに対して、それが何なのか判別できなかった。

 しばらくして、脳がようやく貴様が見ているのはルームメイトの変わり果てた姿なのだと、がなりたてた時、私はペタンと尻餅をついてしまった。

 あまりの出来事に腰が負けてしまったのだ。

 私はそのままぼうっと、それを眺めていたのだが、そのうちに部屋の様子も尋常ではないことに気づいた。


 あの女


 彼の部屋の壁には、一面中その言葉が書かれていた。

 あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女あの女

 その、あまりの異様さに私はとっさに目を背けた。しかし、その目がまた新たな異常を捉えたのであった。


 キャンバスである。

 三脚の上に置かれた、そのキャンバス自体は何ら変わったところのない、至って普通の代物であった。しかし、そこに描かれているものが、問題であった。


 そこに描かれているものは、一目では、何が描かれているのか分からない、しかし、そのおぞましさや、醜悪さは、それこそ一目で分かる、いや分からされる代物であった。

 私は改めて彼の芸術家としての才能に舌を巻いたのであったが、そこに何が描かれているのか、何をモデルにしているのかを理解した瞬間、背筋に氷塊でも入れられたかのような錯覚に陥った。

 それはまさに、あの女であった。

 彼が何度か絵のモデルにと招いていた、あの女であった。


 ……ピンポーン。


 その時、不意にチャイムが鳴った。まるで見透かされたかのようなタイミングに、私はそんなはずは無いと思いながら、何やら奇異なものを感じずにいられなかった。


 まさか……そんなはずはない。


 私は脳内で何度もその言葉を繰り返し(あるいは実際に口に出していたかもしれない)、半ば這うようにしながら、玄関に辿り着いた。

 おそるおそる魚眼レンズから外をのぞいた私はそれこそ息が止まるかと思うほど、驚いた。

 扉一枚隔てた先の空間にいたのは……「あの女」であった。


 ……ピンポーン。


 再びチャイムの音が響く中、私はまんじりとも動くことが出来なかった。それどころか、彼女に己の存在を知られてはならぬとばかりに、呼吸さえ極力抑えようとしたのであった。

 私の脳内では、彼女は一般人だ。あの絵も、あの部屋も、芸術家としての妄想癖が産んだ代物だ。そう叫ぶ部分があったのだが、私の体はついぞ動こうとはしなかったのである……

 …………どれくらい時間が経っただろうか……いつしか扉の向こうから人の気配は消えていた。

 ホゥ、と私が安心感からため息を吐いたときであった。


 アッハハハハハハハハハハハハハハ


 女の笑い声が不意にとどろいたのであった。

 その声は、私をあざ笑うようにも、おびえる私を面白がるようにも聞こえた。

 その時の私の心境と言ったら……………………蛇に睨まれた蛙のような……いや、それ以上のものに、ギロリと睨み付けられ、もう逃れられないようなものであった。


 私はその翌日には、そこから逃げ出していた。ネットカフェやカプセルホテルといった所を転々としながら、新たな住まいを探していた。

 もう、あんな所には住めない。私はそう決心した。

 あの女が何者であるかは知らないが、たとえその正体がどんなものであった所で、その決心には影響しなかったであろう。


 新たな住居がようやく見つかったのは、約二週間後であった。

 そこで、家財道具等を引き出す際に元の部屋に戻ったのだが、私はそこに足を踏み入れた瞬間に再び恐怖に苛まれた。


 無いのである。

 首を吊った彼も、彼の絵も、「あの女」の文字も。まるで彼が最初からいなかったかのような。

 しかし、そうでないことは、私が一番よく知っている。何より、彼に貸した本が引越しの最中、いくら探しても出てこなかったのである。


 あの女だ……

 何をどうやったかは分からないが、あの女がやったのだ。

 私はほとんど直感の内にそう判断した。

 思えば、人一人死んで、その部屋から同居人が突然いなくなったのだいうのに、警察などが一切動いていないのだ。


 これらの事実は、私にあの日の恐怖を思い出させるのに、十分であった。

 しかし、やはりあの女の狙いは彼なのだ。私では無い。

 それに思い至った瞬間、私は途方もない安堵を感じていた。それを少しだけ後ろめたく感じながら、私は引越しの準備を続けた。


 新たな住まいに腰を落ち着けて、一週間あまり経った頃であろうか。私は何もない日常生活を、安穏と貪っていた。

 その時である。


 ピンポーン…………


 そう音がした。

 私はあの日以来、どうもチャイムというものが苦手になっていたのだが、なった以上は出なければならない。

 しかし、あれ以来習慣となっている、魚眼レンズから外を覗くことだけは、欠かさなかった。


 私はこの日ほどこの習慣を呪うと同時に感謝することは無かった。

 覗いた先には、あの女がいたのである。


 何故ここが分かった?そして、何故ここに来る?彼女の狙いは、彼では無かったのか?


 疑問符が頭の中を駆け巡るが、それに答えてくれるものは、何処にもいなかった。


 私にできることといえば、耳を塞ぎ、恐怖に怯えながら、息をぐっと殺して、じっと体を小さくして、彼女が過ぎ去るのを待っていることだけであった……



 あれから幾つ住居を移したことだろうか。私が新しい住まいを見つけると、時間をおかずに彼女がやってくる。


 一度、たいそう面倒な真似をして、国外にまで引越したが、それも無駄であった。


 私は、今日覚悟を決めた。

 チャイムが鳴ったら、出てみるつもりである。

 例えそれが、いかなる結果を招いたとしても……


 嗚呼……又チャイムの音が聞こえる…………

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