7 獄楽蝶の所以
涙の跡も乾かぬうちに、ヨモギは脱出を試みて身をくねらせた。後ろ手に、両手の親指を結束バンドで拘束されているが、それ以外の指は伸ばせばスカジャンの袖に届く。
あった。カミソリだ。無軌道パンクスガールの嗜みということで持っていたものの、使う意志も機会もなく今まで忘れていたものだ。
四苦八苦しながら、バンドに当ててゆっくり慎重に引く。
最早意地に近い。あのサスガ・ナガレに一発食らわせてやらねば、否、見返してやらなければ。そんな思いが彼女を突き動かしていた。
(ヨモギ、女の意地はな、男より固くなきゃいけないのさ……)
恩人ナド・ヤツミの言葉がふとニューロンを掠めた。
ノイエザイトム時代、彼女は荒れていた。夜な夜な夜のシティを超電動二輪車で流離い、喧嘩に明け暮れる、そんな日々を送っていた。
当時は相応な理由があったと思っていたが、今となっては何故荒れていたのかわからなくなっていた。きっと一般家庭に生まれたサムライにありきたりな、思春期で反抗期だったのだろう。
ただ無軌道パンクスガールチーム〈獄楽蝶〉に入ったのは、その特攻隊長であるヤツミと出会い、彼女に惚れたからだ。いや、LGBTとかそういうのではなしに、彼女に惚れ込んだ。あるいは荒れていた、という記憶は勘違いの後付で、ヤツミと一緒にいたいがための捏造だったかも知れない。
ヤツミは孤高で、美しく、強かった。ネオザイトムはパンクスチームの群雄割拠地である。〈
(そうだ……ヤツミ=サンがいたから、アタシは強くいられた……)
ヤツミは体格に恵まれた訳でもなく、ましてやサムライでもなかった。今も昔も、無軌道パンクスチームはヤクザの入り口として機能している場合が多い。〈
多くの敵に包囲されながら、〈獄楽蝶〉が遅れを取ったことは決してなかった。ヤツミも腕力や体格、身体能力に勝る相手に果敢に闘い、一歩も引かなかった。
ある
(何ビビってンだ、それでも〈獄楽蝶〉か! 肚据えろ!)
ヤツミは一喝し、チームメンバーを一列に並ばせた。そして、17人の頬を張っていった。サムライではないのに、凄いビンタだった。
(ヨモギはアタシと一緒に来い。背中を任せたぜ)
その言葉でヨモギは一気に昂揚した。
10倍近い敵を薙ぎ倒しているうちに、朝が来た。包囲網を突破し、〈獄楽蝶〉は笑いあった。最高の朝だった。
――3週間後、ヤツミは死んだ。
犯人はその頃ノイエザイトム市中を騒がせていた
ナド家の告別式に〈獄楽蝶〉の面々は
告別式でヨモギは泣かなかった。そんなことは家で済ませてきたし、何より胸に怒りが燃えていた。〈獄楽蝶〉のメンバーもそう決めていた。
即ち、仇討だ。
次の特攻隊長は自然にヨモギが選ばれた。
辻斬グループの居所を探るために、あらゆる手段を使った。〈
(ヤツミ=サンの顔に泥を塗るンじゃねーぞ、ヨモギ=サン)
〈
そして決戦の日。
3人までをアワキ・エリアに包囲し、トリモチランチャーやネットランチャーなどで捕獲。一人は逃走。
裏路地でそいつとヨモギが出くわす。若い男だった。ヨモギは「獄楽蝶」刻印の電磁木刀を構え、相手はカタナを抜いた。
二人はイクサ・シャウトと共に馳せ違った。
ヨモギのスカジャンの腹が浅く斬り裂かれ、少し出血していた。その背後で男が倒れ、二度と動かなかった。心臓へのクリティカルヒット。
罪悪感より何よりも、これで終わった、と思った。
問題はこれからだった。
辻斬グループは旗本の
本来ならば正当防衛が認められる状況であったにも拘わらず、サゾイ家は「喧嘩両成敗」という最早何のためにあるのかわからぬ法を持ち出し、ヨモギの身の引き渡しを要求した。ヨモギがサムライであったから起きたことだ。
クジカタ家にはあらゆる嫌がらせがなされた。突如投げ込まれる半分腐乱したバイオ犬猫の死体。父の療養所にやってきてあることないことを大声で言いふらすヤクザ。通学途中にヨモギが背中を強く押され、危うくクルマに轢かれかけたこともある。一家は日に日に精神的に追い詰められていった。〈獄楽蝶〉のメンバーにも、大なり小なり同じようなことがあったという。
突如として嫌がらせが終わった。サゾイ家が
叔父であるサイゾーが客人としてやってきた。今ではクスノキ家でそこそこの地位にあるという彼は、サゾイ家のショーグネイションに対する背信行為を暴いて
父も母も、そしてヨモギもサイゾーに感謝した。頭を下げてくれるなと叔父は言い、まだ完全に安心が出来ない旨を付け加えた上で提案をした。
〈獄楽蝶〉の解散と、ヨモギ一家の引っ越しである。
苦渋の末、ヨモギはその提案を受け入れた。メンバーには何も言うこともなく、クジカタ家はノイエザイトムを去り、カウヴェ・シティへ引っ越した。
父も母も、ほっとした顔をしていた。辻斬グループの一件のみならず、夜な夜な街を練り歩くことが両親にどれほど心配をかけていたのか、ヨモギは初めて理解した。
一方、ヨモギだけが思いを残したままだった。友情を全部捨ててきた。そんな思いがつきまとっていた。カウヴェで友だちができなかったのは、ヨモギの前歴だけではなく、ヨモギのまとった
ヨナミ、ニーコ、ササメ、ソモスケ、ウエジ、ユンタ。この孤独な街で、ヨモギが初めて出来た友達だった。そりゃあ学校に馴染めない子が年下と遊んでいると言われれば言葉もないが……それでも大事な友人には違いない。
(それ以上に……女は意地が硬いんだ……!)
ササメを助けると約束したのだ。約束は守らなければならない。
「ここで諦めたら……ヤツミ=サンに合わせる顔がねーンだよ……!」
バンドが切れ、ヨモギの腕が完全に自由になった。立ち上がり、部屋の片隅に置き捨てられた電磁木刀と自分の
ビュン! 音を立てて電磁木刀を揮う。すると、自分が何故あれほど荒れていたのか、ヨモギは卒然と理解した。
「そうか……アタシはサムライなんだ」
サムライとしての
敵の姿は未だに見えない。けれど、それでいい。
「サスガ・ナガレ……!」
見返すべきその相手を追って、ヨモギは倉庫から飛び出した。
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