西部劇

@ILGrandeSilenzio

西部劇

 あるところに男がいた。


 男は西部の荒くれ者だった。銃の腕には覚えがあった。そして男は野心家だった。


 男たるもの、農場で一生を終えるのはあまりにも退屈だと考え、駅馬車の御者になるために十八で家を出た。まだ陰毛も生えたばかりの若造に何ができる、という風に男を軽んじた無宿者はすべて撃ち殺し、そのうち評判が立ってか駅馬車の御者になるという望みは叶えられた。飲み仲間もでき、女を買うだけの金も手に入り、男はとりえず当面の生活に困らなくなった。それでも、男は満足しなかった。男は野心家だったからだ。数年のうちに男は治安官になり、そして保安官になった。男はバッジを光らせながら西部を闊歩できる身分になった。駅馬車の御者やバッファロー・ハンターという職に就いていたことも手伝って、男は若いうちにそれなりの地位を築きはじめた。それでも、男は依然としてどんな田舎にもいる保安官の一人に過ぎなかった。つまりは、公に認められた夜盗のようなものだった。保安官バッジをつけていなければ、男が取り締まるような無宿者や無法者などと区別がつかない連中だ。つまりはそれが西部の男だった。


 男は酒場に入り浸ると、聴衆に自分の武勇伝を聞かせていた。一発の弾丸で六人の荒くれ者を撃ち殺したという話。小屋くらいの大きさのバッファローを単独で仕留めた話。インディアンの一群を一人で追い返したという話。平原での索敵をやらせれば、自分の右に出る者はいないといった技巧の自慢も欠かさない。男の語る武勇伝は凡百の内容だったが、その声には魅力があった。語り口に魅力があった。実体験に基づいた細部は、法螺話に妙な本当らしさを与えていた。それは弾の込め方でもあったし、追跡の方法でもあったし、インディアンの恐ろしい皮剥ぎのバリエーションでもあった。あるいは。弾丸に穴をあけられた死体の生々しさでもあったし、女たちの肢体の色艶でもあったし、西部の自然の生き生きとしたダイナミズムでもあった。そういった細部の豊かさがあった上で、語られる勧善懲悪の物語には誰もが惹きつけられた。吹かし過ぎではないかと言う聴衆もいたが、そういう連中にしても、男が語る物語に魅力があることは認めざるをえなかった。それに、そういう連中はのちに酒場の裏で痛めつけられるので、そのうち誰も批判する者はいなくなった。男は酒場の人気者だった。


 ひとつ、気になることがある、と男に尋ねた青年がいて、男は気前よく、なんだ、と聞き返した。いわく、そんなに勝ち続けることができるのはどうしてなのか、ということだった。どうして死なないでいられるのか、ということだった。それに男は満足げに頷くと、つまり背中から撃たれないように気をつけることなのだ、と言った。こうして酒場で話すときも、決して入り口を背にした椅子には座らないようにしているのだ、と男はその実践を語ってくれた。しばらくすると青年も納得し、平原の王は流石だ、と手を叩いて男を褒め称えた。男はその夜も、ご機嫌そうに酒を飲み干した。


 しばらくすると、南北戦争がはじまった。


 荒くれ者として名を馳せていた男にも白羽の矢が立ち、北軍に雇われることになった。男の仕事は、情報を集めることだった。それには、保安官時代に培った索敵と追跡の技術が役に立った。偵察兵としての男は非常に優秀だった。水を飲んで行軍を休んでいる軍隊の人数を報告し、将軍たちの戦争の土台を支えた。少数の敵と遭遇した場合は、即座に相手を撃ち殺すだけの技量も備えていた。男は戦争を生き抜くことに成功した。戦争はチャンスだった。それでも、男が双眼鏡で目を凝らしつづけた南北戦争は凄惨だった。男が知っているどの戦いとも違っていた。人間の群れと群れが衝突し、互いの陣営が前線から市民生活までのあらゆる力を振り絞らなければならない総力戦だった。装甲列車が人々を脅かし、機関銃を持った連中は神出鬼没だった。そこには、軍服を着ただけの無法者が好き放題をする、混沌と無秩序の時空間が広がっていた。人の形は溶けだして、不定形のものに変わった。かろうじて人間であることを保つことのできた男は、それをじっと双眼鏡で眺めた。弾道学によって基礎づけられた大砲の射線は、容赦なく人間を粉々にした。男は爆炎と爆風を遠くから眺めた。飛び散る人肉を眺めた。戦争という世にもおぞましい人災を見つめる視点は、恐ろしく冷たかった。遠景から眺める人の群れが容赦なく殺されていく光景は、物語とは無縁だった。


 しばらくすると、南北戦争は終わり、男も任を解かれた。北軍は勝利し、男は勝ち馬に乗れたことを嬉しく思った。男は再び酒場に入り浸り、武勇伝を語った。戦争という現象を物語にするのはそれほど簡単なことではなかった。もしかすると昔はもっと容易だったのかもしれないが、南北戦争はそうではなかった。南北戦争は計算と統計に似ていた。物語とは異なる何かだった。けれども男はそれを忘れることにした。双眼鏡でのぞいた地獄の風景を見なかったことにした。驚くべきことに、男以外の兵士たちも同じように戦争を忘れているようだった。まるで集団的記憶喪失だと男は思った。民族的記憶喪失が起きている。だから男は南北戦争を、騎士道物語やギリシアの悲劇のように語った。聴衆の耳には神話のように聞こえた。男は巧みに凄惨な細部を避け、古典的なヒロイズムを鼓舞する勧善懲悪の物語を語った。男によって語られた南北戦争は、奴隷制を敷く悪の南部連合から自由と正義を取り戻す北軍の英雄譚だった。リンカーンの奴隷解放宣言を音楽的に語り、凄惨なる戦いを、「完璧なる合衆国」を作り上げる戦いとして語った。合衆国と自由のために、と男が言えば聴衆も、合衆国と自由のために、と大声で合唱した。コインを投げると、音楽隊は進軍のラッパを吹かした。皆殺しの歌だ、と誰かが言ったが、もちろんそれは北軍の進軍ラッパだった。アラモ砦を取り囲んだメキシコ人たちの奏でた、皆殺しの歌とは違った。


 男はカードにも精を出した。賭博者としての男はなかなかのものだった。物語を語ることで培った演技の腕前はここでも発揮された。とはいえ賭博は物語を語るようにはいかない、ということを男はすぐに知った。賭けは引き際が大事だが、男は見栄っ張りなのでついつい相手に乗せられてしまうことがあった。男は何度か大損し、そのうち至る所に借金を背負うようになった。借金を返す当てはなかったが、返すつもりもなかった。貸したほうもそれを分かっており、そんな貸し借りが成り立つのもひとえに西部の男への敬意あってこそのものだった。とはいえ、それが崩れることもあった。男はある日、親友と決闘をすることになった。きっかけは、男がその親友の妹に手を出したとか、出さなかったとか、そういう話らしかった。激怒した親友は男を罵り、それまで溜め込んでいた借金を次々と請求し始めた。親友はいくらかの金額を告げる。しぶしぶ男は有り金を出した。するとまた親友はいくらかの金額を告げる。しぶしぶ男は、隠していた金を出すことになった。するとまた親友はいくらかの金額を告げる。ここでようやく男は激怒し、カードをしながら口論をする。そのうち話は決闘へともつれ込み、早撃ち対決が約束される。


 決闘はいまでも語り草になっているが、ここで語ることはシンプルだ。男は早撃ちの名手で、親友はそうではなかった。だから、男は親友を撃ち殺すことになる。すぐに男は人殺しのかどで牢屋にぶち込まれる。裁判になり、男は慣れない法廷で慣習法を引用し「公正な勝負」を主張する。酒場で培った演技の腕前をここでも披露し、男は見事に陪審から無罪を勝ち取ることに成功する。


 それを聞きつけた作家がいて、この男の物語を雑誌に載せることを提案してきた。男は一も二もなく飛びついた。すると作家のほうでも男の雄弁な語り口に惚れこみ、またたくまに物語は東海岸の先の先までたどり着くことになった。西部の男、荒くれ者、一〇〇人殺した男。そんな風に男は喧伝された。東部の都会に行くと、男は誰もが自分の物語を知っていることに驚いた。見たことのない少女が、男の出自を知っていた。見たことのない中年が、男の活躍を知っていた。酒場で武勇伝を聴かせていたことが馬鹿馬鹿しく思えるような評判だった。男は雑誌にサインをし、ファンと握手を交わした。そして、雑誌とペンの力に感じ入った。酒場で己の武勇伝を語るというのは、ひどく時代遅れな手法だと思った。ひどく非効率な手法だと思った。男は南北戦争を思い出した。弾道学によって放物線をあらかじめ予測された大砲の威力を思い出した。計算され、効率化された事象の威力をここでまた思い知った。効率化された攻撃によって引き裂かれた死体の山も同時に思い出したが、それは忘れたことにした。


 要するに非人間的なものがこれからは大事になっていくのだと男は悟った。


 それから男は東部で暮らし、物語の住人になった感慨をしばらく味わった。保安官時代には人殺しと罵られることもあった男も、ここでは品行方正な人格者だった。雑誌に描かれた男の人物像は嘘八百もいいところだったが、東部では実際にそのような男として見られた。品行方正な北軍の英雄。決闘で親友を撃ち殺すはめになった悲劇の男。裁判で卑劣な司法から勝利をもぎ取った民衆の人気者。男は実際にそういう人物として見られ、男もそのように振る舞った。舞台演劇で己の役を演じることもしばしばあったが、男は舞台俳優としては三流だった。大いなる西部の歴史を語る一座の仲間として合衆国を行脚したこともあったが、舞台はやはり男には向いていなかった。木馬に乗って、美女が指にはさんだメダルを撃ち抜く道化のようなこともやった。女性の頭に乗せたリンゴを撃ち抜くウィリアム・テルの真似事もやらされた。そのうち、自伝以外の物語も出版されるようになると男はそれを読んだ。ジェシー・ジェイムズと決闘をしている自分が描かれた雑誌を見つけて驚いた。二次創作は次々と作られ、男は新鮮な気持ちでそういった物語を読んだ。裏では男同士の行為を絵にした猥雑本が出ていることを教えてもらったが、それを読むことはなかった。


 そのうち、男の妻を名乗る女が現れた。彼女は至るところ男の妻であることを喧伝し、しきりにその結婚生活の華美なることを語った。男はそれを否定したが、すでに物語は流布していた。ペンと雑誌の効率性はまたたくまに東部を侵略し、男がいくら否定しようにも、その女が男の妻であることはもはや動かしがたい事実となってしまっていた。女は実際に男につきまとい、どうしてわたしをお忘れになったのですか、と逆に男を問い詰めた。どうして、わたしが偽者であるかのように振る舞うのですか、と女はまくしたてた。あの平原で、あの南北戦争で、あるいはインディアンとの戦争で、わたしとあなたは共に北軍の偵察兵として獅子奮迅の活躍をしたではありませんか。ある日、男装が露見しそうになったわたしを庇って、あなたがわたしの頬をぶってみせたこともありますよね。それさえもお忘れになったのですか、とそのような具合で女は物語を語り聞かせた。その物語は見事だった。まるで本当にその場に居合わせているかのような充実した細部があった。肉の詰まった物語に感心し、男はいつのまにやらそれが本当の物語なのではないかと思い始めていた。すでに己の人生を何度も語ってきた男には現実があやふやなものとして感じられた。己を幾つもの異なる筋立てで語ってきた男は、自分自身を見失いつつあった。荒くれ者としての自分と、品行方正な英雄たる自分のバランスに苦しめられつつあった男は、その女につけ入る隙を見せてしまった。つまり、そこに表れた英雄としての自分を現実のものとして受け止めるようになったのだ。そして、そのうち男は女を妻として扱うようになった。


 短くはあるが、二人は幸せな生活を送った。


 けれども男は、ある日唐突に品行方正な英雄であることに窮屈さを覚えるようになった。そろそろ物語の住人でいることにも飽きてしまった。すぐに男は元の生活に戻った。酒を飲み、賭博をやり、女を買う。そんな西部の荒くれ者としての顔を男は隠さなくなった。カードで破産しては他人に金をせびり、強い酒に酔っては醜態を晒し、そのうちあの男は本当に“あの”伝説の男なのだろうかといった噂話が絶えなくなった。雑誌で書かれた英雄を自称するだけで、実際には赤の他人ではないのではないかという憶測がされた。言われてみれば男の語る物語はどれもこれも雑誌で書かれたものよりも誇張されている。舞台演劇で披露される武勇伝も実に嘘くさかった。不思議なことに民衆は物語それ自体の本当らしさは疑わずに、目の前にいる男の本当らしさを疑った。どこか別に、あの物語に登場した本物の英雄がいるはずだと信じていたのだ。それはあの男ではないだけで、どこかに生きているのだと。だから、そのうち男は偽者扱いされるようになる。偽者のレッテルを張られた男は酒場から叩きだされ、商売女にも鼻で笑われるようになる。少年には石をぶつけられ、東部を去ることを余儀なくされる。男の妻だと言っていた女はいつのまにか去っている。男は納得がいかないが、民衆の嘲笑を受けるのには耐えられない。大いなる西部の歴史を語る一座のところに匿ってもらうものの、舞台俳優としては相変わらずパッとしない。そんなことをしているうちに、東部では本物の「伝説の男」を語る荒くれ者が現れる。その荒くれ者は男の名を騙り、男の武勇伝を騙り、そして実際に、早撃ちの腕を見せて本物であることを証明する。その「本物」は品行方正な紳士で、どこから眺めても欠けるところのない八方美人だった。屈強な肉体は西部の男であることを示し、投げ縄や乗馬、索敵、追跡の技術も確かなものだった。なによりもその精神と振る舞いが英雄的だった。あの女は何事もなかったかのようにその「本物」の横に収まっていた。腕を絡ませて「本物」に上目使いの微笑を送る女を見て、男は怨嗟の炎を燃やした。すぐに男は二人を殺すことに決めた。


 ある夜、男は酒場に向かった。その酒場では「本物」とその妻が、いつものように武勇伝を聴かせていた。アナログな方法だったが、そういった地道な作業も依然として大切だった。「本物」は白く美しい歯をのぞかせて、様々な武勇伝を聴かせては聴衆を沸かせていた。一発の弾丸で六人の荒くれ者を撃ち殺したという話。小屋くらいの大きさのバッファローを単独で仕留めた話。インディアンの一群を一人で追い返したという話。どれも、男がかつて酒場でしたことのある話の焼き直しだった。声の調子や、抑揚さえも似ていた。そのことに男は気づいたが、あまり注意を払わなかった。そうして語りが終わると、「本物」は今度はカードの席に移った。その様子を窓からのぞいていた男は、「本物」が入口に背を向けた椅子に座っていることに気がついた。つまり、銃口に背を向けているようなものだった。男ならしでかさないミスだった。男はほくそ笑むと銃の柄に手をかけた。ぐるりと酒場の周囲を回り、入り口に立って、両開きの扉をぎりりとあけたところで、「本物」の手が見えた。


 Aと8のツーペア。


 その後、デッドマンズ・ハンドとして不吉がられるようになる手だった。男はそれを目にした瞬間、引き金を絞った。銃声が轟き、馬がいなないた。「本物」は前のめりに倒れ、べったりと血のついたカードはテーブルの上に散らばった。妻の女は悲鳴をあげた。次の一発で女も壁に叩きつけられた。首が変な方向に曲がって、女はその場にぐにゃりと倒れた。男は二人の死を見届けると、すぐに逃げた。逃げたが、一時間もしないうちに追跡してきた保安官たちに捕まった。男はブーツで動かなくなるまで蹴られ、気がつけば牢の中に寝ていた。男は獄中で、自分こそが本物なのだと語ったが、誰も信じてはくれなかった。男は裁判でも、自分こそが本物だと語ったが、今度はどの陪審の心をも動かすことができなかった。男は絞首刑にかけられ、西部のとある町で一日中見せしめにされた。子供たちに石を投げられ、鴉に肉を啄まれても、誰も同情してくれる人間はいなかった。一方、「本物」の葬式は盛大に行われ、多くの参列者が涙を流した。黒衣の葬列はどこまでも続き、棺桶を運ぶ葬儀屋たちを夕日が赤く照らした。それは美しい光景だった。途中から雨が降り、黒い傘を差した人々が町にあちこちに散っていく様子さえもどこか美しかった。まるでおとぎ話のように。


 男は死んでしばらくすると、墓から甦ることになった。不死者として西部を徘徊し、紙になった手足を見つめては不思議な面持ちでいた。てっきり、腐った手足がそこにあることを期待したのに、そうではなかったのだ。まるで本になったかのように、いまや男は紙でできていた。しばらく歩くと、大いなる西部の歴史を語る一座に出くわした。どんちゃん騒ぎの裏で、その一座を取り仕切る団長が男の目の前に立っていた。生前も友人だったその一座の団長に心を許した男は、自分を一座に入れてくれるように頼んだ。舞台俳優としては三流かもしれないが、とにもかくにも不死者は見せ物になるだろう、と男は言った。一座の団長は、ありがたい、是非ともわたしどもの一座に参加してくれ、と答えた。それを聞いた男は喜んだ。なんでもする、どんな脚本でもいい、そうだな、一発の弾丸で六人の荒くれ者を撃ち殺したという話はどうだろう、それとも、小屋くらいの大きさのバッファローを単独で仕留めた話にするか、それともインディアンの一群を一人で追い返したという話にするか、そうだな南北戦争の話でも構わない。決闘の話でもいい。


 いや、そのどれでもない、と一座の団長は断言した。きみには、デッドマンズ・ハンドの劇をしてもらうことになる、と一座の長は言った。それに男はうまく反応できず、うろたえていた。男は、どういうことなんだ、と一座の長に掴みかかったが、すぐに払いのけられた。Aと8のツーペアを手にした男が、撃ち殺される瞬間の物語だ。どうだ、できるな、と一座の団長は冷たく言い放った。男は尻もちをつきながら、それをただ呆然と眺めていた。月夜のことだった。

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