悲劇の練習

春里 亮介

悲劇の練習

 毛糸の手袋を突き破ってくる氷の牙がわたしの皮膚を引き裂き、滴り落ちる血液が幻想的なへ変わりそうな厳冬の候、この街は長い間寒雨に見舞われている。水玉模様の傘を差して自宅へと向かっているわたしは、日常的な女子高校生をやっていた。


 やっていた、という言い方には世間に対し斜に構えるわたしの矜恃が込められているかもしれないが、平凡な学生から逸脱するべき器や才能は生憎持ち合わせていないことを自覚している為、交差点の前で大人しく信号待ちをして雨音を鼓膜に響かせた。仮にわたしが特別な少女である自信を誇示するならば、片道二車線の道路をゆっくりとした歩調で堂々と突っ切って、左右より到来する車両を次々に止めてクラクションの合唱をさせるだろう。


 在りもしない現在を語るのは無意味であり、凡人のわたしは凡人らしく道路交通法を遵守し、青信号の横断歩道を通過した……のは嘘で実際には通過しようとした。


 ――何だ?


 妙な存在感を醸し出す歩行者とすれ違ったことで、わたしの足は横断歩道の中間で停止し、踵を返した。同じ高校の制服を着た女子がズブ濡れになって離れていく。小雨や俄雨なら解らなくもないが、この雨は先週からずっと本格的に降り続いているのだ。予測可能な気候であるはずなのに、どうして傘を差さずに平然と歩いている?

 

 見るからに寒そうな彼女のブレザーが腰まで届く黒髪と同化しつつある。膝丈のスカートと紺色のソックスの間隙より露わになっている彼女の肌は石灰よりも白く、遠くからでも浮き出ている血管が目視できた。


 点滅する青信号をトリガーに、わたしはみずぼらしい彼女の背中を追い始めた。黒ずんだ分厚い雲に見守られて移動しつつ、彼女との距離を一定に保って尾行する。彼女はコンビニでビニール傘を買おうとせず、屋根附きのバス停の床几に座り雨宿りをしようともせず、只管に歩いていた。ますます理解できなくなった。彼女の目的地が判明しないまま半時間または一時間、若しくは二時間程度は経過した。不安定な時間感覚を懐きつつ、わたしは高校の正門前を通過し、見知らぬ住宅街を一周し、無人の公園を散歩した。彼女はまだ立ち止まらない。


 痺れを切らせて、急斜面の坂道でわたしは彼女との隔たりを取り去って肩を叩いた。


「あんた、寒くないの」


 果たしてそれが適切な声の掛け方なのか判然としないが、わたしの思惟は彼女への憂慮を優先させたらしい。

 漸く停止した彼女は右足を一歩退き、半身の姿勢になって振り返った。まじまじと拝顔させていただくのはこれが初めてだ。

 同じ高校へ通学している女子生徒のはずだが……見覚えは無い。ただ、彼女の双眸は凍てつくような灼熱の青い炎が灯っており、二律背反の光芒がその表情を美しく照らしていたのが印象的だった。


「寒いですよ」


 陶器の如く硬い彼女の声は雨音のヴェールを突き抜ける。


「寒いならどうしてそんな恰好でいるのよ。風邪ひいても知らないわよ」

「罹患したら、それはそれで本望です」


 薄く笑った彼女の唇は、不思議と口紅を塗り立てたような新鮮な赤みがあった。変な女だ。でも、何が具体的に変なのか……何故かわたしは追及しかねた。さも、本人が当たり前の所作として自認しているからであろうか。疑問に思っているわたしの方が変だと見做されてしまうような……奇異な雰囲気を纏う彼女は不図にくしゃみを二回した。


「見ていられないわね。御節介は好みじゃないけど、放っておけないわ」


 偽善者を堪能するつもりなど毛頭ないわたしの手は、枯木のような彼女の手首を取って引いた。坂道を下った先にある狭いトンネルへ向かうまで、わたしの右半身は多少濡れた。不要な優しさだなと自嘲する割には、水たまりへ強引に踏み込みローファーの隙間より雨水が侵入し、グチョグチョした靴下の不快な感覚に対し不快だと思わなかったらしい。わたしは今、他人のために存在していることを看取し、疑念と好奇を混淆させたハイブリッドのからくりになっていた。


  ■    ■    ■


 死にかけの蛍光灯が明滅している薄暗いトンネルで、わたしは彼女のブレザーを脱がせ、自分のタオルを渡して身体を拭かせた。


「大丈夫ですよ」と、彼女は顔の前で手を振って拒否しても、

「いいから」


 わたしは勝手な親切を彼女に押し附けた。タオルが充分な水分を吸収したところで、わたしのブレザーを彼女に羽織らせた。あと、自販機で購入して鞄に入れていたホットミルクティーが丁度あったので、彼女に握らせた。


「飲みかけで温くなっているけど、あんたにあげるわ」


 彼女は目を丸くしたが、ありがとうございますと小声で告げて、一口飲んでくれた。軽自動車がトンネルを通り抜けてから、わたしの長い対話が始まる。長い、と予測した理由は特に無いが、敢えて因果を述べるならば……わたしの願望が未来への根拠足り得ると信じていたからであろう。


「優しい方ですね。見ず知らずの人にここまでしてもらえるなんて、過保護な気もします」

「保護している側のわたしもそう思うわ。他者とのコミュニケートが薄い現代において、わたしは変わり者かしら」


 肯定も否定もせず、彼女は静かに微笑んだ。落ち着きのある感情表現より彼女の人間性が窺える。


「あんた、名前は?」

「Yです」


 初対面で欠かせない質問をしたが、彼女の答えは未知なるカテゴリーに属していた。


「それってイニシャル?」

 毅然とした面持ちで彼女――Yは肯い、一言。「Rさんの隣のクラスに所属しております」


 抵触すべき点の多い発言であった。結句、わたしは無前提にてRで呼ばれることを容認した。Yと関与する上で遵守すべき規則だと思い込むように。


「わたしのこと、知っていたのね。であればわたしはYに謝罪をしなければならないわ。あんたのこと、入学して一年近くなるのにわたしは知らなかったもの」

「仕方のないことですよ。接点がありませんでしたし、私は同級生に通俗的な名前を呼んでもらえない翳のような学生ですから」


 Yの見識には同意できなくもない。だが、自分の視路は今の天蓋の如く相当曇っていたのではないかと自省せざるを得ない。


「嘘よ。Yは凄く魅力的で美人な女子なのに。わたし含めたあの学校の生徒全員が思考停止していたのだわ」


 Yの相貌を直截的に褒める言葉には気恥ずかしさを伴ったが、確りと告げるべき責務を覚えたが故に言表したまでだ。


「違いますよ、Rさん。私は存在価値のある女神ミューズに憧れているだけでありまして、Rさんのイマージュに宿る私はYという存在記号から離別した赤の他人になります」


 謙遜とも感受し得る言葉でもあり、理解不能の烙印が押された虚言でもあった。ただ一つ言えるのは、彼女の本心がそのまま言語化されていると信用できることであった。仮に彼女が本気でない場合、残念乍らわたしが精神病院へ連れて行く必要がある。いや、本気だったら猶更、隔離するべきだろうか……。


「やっぱり、あんたは更なる変わり者ね。普通じゃないわ。ねえ、最近何か嫌なことでもあったの? 両親と喧嘩して家に帰れなかったり、恋人に別れ話を切り出されてショックを受けたり……わたしはYが冬の雨に打たれ続けて彷徨する理由が欲しいの。わたしが望んでいること、判るでしょ?」


 常識人としての自我を保持していたわたしは早口で捲し立て、ドラマや漫画で想像のつくありふれた原因を引き合いに出した。



「<悲劇の練習>をしようと思い、肉体と精神を寒雨で沁みさせました」



 現実的な補完が裏切られたのは、一瞬だった。間断なく告白したYの艶やかな前髪は、額に重く張り附いて離れない。


  ■    ■    ■


「……<悲劇の練習>?」


 困惑に困惑が上書きされた事態に、わたしには鸚鵡返し以外の言動が許されていなかった。


「ええ。Rさんは御存じだとは思いますが、来たるべき悲劇に備える為には悲劇の演者になる必要がありまして――」

「待ちなさい。わたしの理解度を高く見積り過ぎよ。疑問符の竜巻に飲み込まれているこの状況を汲み取ってよ」


 五感を研ぎ澄ましても、Yの挙措に冗談は見当たらない。彼女の真摯な眼差しに顔面を貫通されたわたしは肩を竦めた。


「すみません。ちょっとした冗句です」

「真面目な顔で揶揄われると余計に混乱するから止めて」


 小鳥の囀りに近い笑い声を出したYは、少しだけ年頃の少女らしいリアクションを見せてくれた。人間としての心を完全に喪失している訳ではないらしい。


「それで、<悲劇の練習>って何よ」


 Yとわたしを邂逅させる原因になったそれを、改めて話材にさせた。


「簡単に申し上げますと、遠くて近い未来より訪れる正真正銘の悲劇の為の悲劇に成り得る行いです」


 成程、全く解らない。


「何処が簡単なのよ。あんたの言葉って一々抽象的なのよね。独逸の哲学書を愛読しているのかしら」

「御言葉ですが、Rさんも哲学者寄りの詩人めいた才気を有していますよ」

「わたしのことはいいの。わたしへの論駁が可能なのはわたし一人で充分だわ」


 反論を遂行したつもりが、却ってYに誘導されたような言い回しになってしまった。釈然としない思いに苛立ち、癲狂的思想家にねめつけ乍ら問い質した。


「悲劇の為の悲劇って言われても意味不明なのよ」

「言葉通りです。私は悲劇を創造して演じています」

「じゃあ、Yは悲しんだふりをして雨に打たれていたとでも言うの」

「概ね、そういうことかと」


 何のために、との質問がわたしの喉から出かかったが、無益なことだと察知して飲み込んだ。どうせ、悲劇の為の悲劇というトートロジーへ迷い込むに違いない。


 いっそのこと、わたしは長い夢を見ている事実を偽装させよう。開き直るような覚悟を決めると、太陽を蔽う曇天が泣いている間……わたしは妙な魔法にかかり、シュルレアリスムの権化に産み落とされた登場人物と逢着したシノプシス(梗概)の装備を自分に強制させたのだった。


「Yの内界で顕現している悲劇は、主に恋愛と連関しているのかしら」

「それも一つです。なので、先程Rさんがおっしゃっていた恋人との離別は強ち間違いではありません。わたしの妄想上という条件を附加すれば大正解でありました」

「要は、あんたが思い描く空想世界では失恋が起きた、と。由ってあんたは悲哀に心を蝕まれて……いや、蝕まれたつもりになって、雨を利用して悲劇のヒロインを自己演出させたということね」


 ということね、と自分に言い聞かせるように語ったが、言表と思惟は依然と分断されていて実感が湧いてこない。茫とした頭を叩くと、雨水を吸って膨れた脳漿が頭蓋骨に跳ね返る音がする。


「御理解いただきまして、ありがとうございます」

「や、わたしはあんたに歩み寄ったのではないわ。不幸に陥るための練習なんて在ってはならないの。徒労で気狂いな愚行だとどうして自覚していないのよ」


「何をおっしゃいますか。。私が愚者であることを」


 わたしが与えたタオルでなぞられたYの黒髪は、わたしの心臓の鼓動を代理してくれているかのように揺れ動いた。毛先から放擲された雫は路上のコンクリートに落下し、程なくしてやって来たオートバイの車輪で擦られて蒸発した。


  ■    ■    ■


 わたしはYのことを大きく勘違いしていたようだ。客観的な見地を基に物事を考えられているとは想像だにしなかった。だからこそ、猶更<悲劇の練習>とやらに追及するべきなのだ。


「馬鹿よあんたは。本物の馬鹿ね」

「Rさんにそう罵倒されても、無理はありません」

「悟っているなら教えてよ。空想上の失恋って何を以って証明するの。元から無かった恋は失えない。それなのにYは空想上の失恋にどんな悲劇が期待できるとでも?」

「正真正銘の悲劇の為の――」

「そんな自己弁護は聞きたくない!」


 陰影がジメジメと蝟集しているトンネル内で、わたしの叫喚が反響した。吃驚したYはペットボトルを手から滑り落とし、ミルクティーを排水溝へと流出させ、勢いよく流れていく雨水と共に下水道へと運ばれていく。


「す、すみません。折角いただいたのに」

「謝らなくていいわ。ミルクティーにもわたしにも」


 Yは先程まで呆けていたわたしと同じ顔をした。何だ、そういう表情もできるじゃないの。


「あんたが頭を下げる対象は目先の幸せなのよ。いい? あんたは幸福を過小評価し過ぎているの。自分をドン底の不幸へと頽落させることで逆に安心しているのでしょ。究極のペシミズムに傾倒するあんたは最悪の未来を常日頃想定しているってことよ」


 将来的に予期される精神的苦痛を極力和らげるための準備――即ち<悲劇の練習>。架空の不幸に慣れ親しみ、少しでも希望の光が見えようとするならば灰色の雲で塞ぎ、何も期待しない人生をYは送っている。


 理解までの道程は、意外と短かった。<悲劇の練習>の真相を掴んだわたしは決して聡明ではなく、偶然気附いただけだった……と怜悧な模範学生が謙遜をするような言葉を借りるのはわたしらしくない。


「……意図的に自分を不幸にさせるのは、罪になりますでしょうか」


 俯くYは負い目を露顕されたように憔悴し、生命の光源になっていた瞳を暗くさせた。雨は一段と強まり、遠方の見通しが怪しくなっている。轟々と響く水音に包まれたわたしはハッとして、外界の寒雨とYの内界を同一視させた。


 非現実の帷が降ろされれば、此処はYの知情意で構築された胸裡の世界なのだ。この雨こそ、彼女の最大なる虚構の感情表現であり、滂沱たる涙である。そんな空想的仮説を今すぐにでも彼女に伝えたかった。でも、わたしの口は横一線になって閉ざしている。度胸が欠落しているようだ。だから代わりに、欠伸を誘うほどつまらない台詞を言ってやった。


「わたしはあんたを正確に忖度した。それがどうして悔しがる要因になるのよ」

「悔しい、と言うよりは恥ずかしくなったのです。滑稽な悲劇のヒロインだったな、と」

「情緒が一貫していないわね。そんな気概で<悲劇の練習>をやり遂げられると思っているの? もっと頑張りなさいよ」


 ――何故わたしはYの愚行なる<悲劇の練習>を止めずに推奨している?

「――どうしてRさんは<悲劇の練習>に反対しないのですか?」


 客観のわたしと同じ質問をされてしまった。健常者が歩む人生の路へ誘導するのが正しいことであるはずなのに、


 全ての疑問は、行動で解決され得る。わたしは彼女の手を握り、彼女の内界へと飛び込んでいった。水玉模様の傘は墓石の角で咲く花のように、トンネルの角に点在していた。


「Rさんの優しさこそ、わたしの身体に沁みています」


 自分と他者の名前をアルファベットで隠しているのは、彼女が臆病だからだ。こうやって誰かに腕を引っ張られないと、虚ろな悲しみに圧し潰されてしまう。悲観主義で自滅する少女を救うためには、真っ向からの拒絶だけでは足りない。叱責しても誰の為にもならない。特別な存在であることを希う少女に憧れて初めて、わたしと共に少女は救われる。


「わたしは優しくないわ。あんたと同じ濡れ鼠になって遊んでいるだけよ」


 自分が認めている自分よりも遥かに優し過ぎるのだ。<悲劇の練習>と向き合っていたYの努力を無駄にせず、且つYの信念を尊重し乍ら生き方を修正させる方途は果てしなく迂回されたルートを辿ることになるが、わたしは逡巡しなかった。身体に浴びるは思った以上に温かく、隣を歩いてくれる彼女の晴れやかな笑顔が様々な矛盾的行為を肯定してくれているようで心強かったから。


  ■    ■    ■


「あんたが<悲劇の練習>に満足するまで、わたしが附き合ってやるわ」


 傘を持つ代わりに殆ど渇いていなかったYのブレザーを腕にかけていた。坂道を上り、目的地が在るようで無い暗い旅へと向かっていく。


「とても有難い御心遣いですが、下手したらRさんはわたしが死ぬまで随伴することになりますよ」


 雨滴を目頭から流す彼女を通して見えた景色は、一欠片の希望を感じさせない泥濘に浸かって沈黙を守っているビル群が広がっていた。いやしくもこの世界がロマンに溢れるフィクションだったとしても、彼女の支配力が優先されるが故にこのタイミングで雨が止んで曇天が罅割れ、燦々と耀く太陽が出現するエンディングには至らない。わたしとYが現実を現実として重く認知しているからこそ、完全に素直になれないわたしの稟性と、頑なに幸せを受け取らないYの終末論が絡み合って、前進とも後退とも見做せられない生残いきのこりの在り方を世界に提示しているのだ。


「流石に死ぬまでだと面倒ね。簡単に叶えられる悲劇を設定して喜劇と和解しましょ」

「ハードルを低くする、ということですか。空想失恋以外に何かありますかね」

「家に帰って晩御飯を食べていたら、知らないおじさんが食卓に一人増えていたとか」

「悲劇というよりちょっとした恐怖ですよ」

「登校中の歩道に落ちていた十円玉を拾おうとしたら、ぎっくり腰になったとか」

「確かに嫌ですけど、悲しみのベクトルが違うような……」

「文句の多いペシミストね。悲劇はショーウィンドウで選ぶような贅沢品じゃあないのよ」


 脱線した指導を与えたところ、Yの目尻は垂れ下がり感情表現を豊かにさせた。白皙の頬に血が通い、季節外れの櫻が咲いていた。


「ねえ、Rさん。わたしって」

 言葉を区切った彼女は自分の側頭部を指でトントンと叩いた。

「此処、おかしいのでしょうか」

「逆に訊くけど、あんたがおかしいと思うのは自分の頭なの。それとも世間なの」

 軽やかな足取りでわたしの少し前に出た彼女は、

「現実は前者。理想は後者です」

「じゃ、果敢無い理想を目掛けて生きるわたし達は健常者ね」と、有意義とは縁の無い対話を味わっていた。


 虚勢を張るのはわたしだけでない。一人でない二人である現在が感慨深い。可也予想外な未来であるが、わたしはこんな日々を求めていたのかもしれない。普通の二文字から懸隔された素晴らしき日々を……。


「もっと勇気を出して、前々からRさんに学校で話しかければ良かったです」

「どうやって声を掛けるつもり?」

「わたしと附き合ってください、って」

「あんたが思うわたしの代理でこのわたしが返答してやるわ。ごめんなさい、とね」

「本日二回目の失恋であります」


 深い溜息をつくYが本気で落ち込んでいたと見えたのはわたしの幻想だろうか。多分、わたしの方が正常な情意を喪失しているのだと推測される。


「でも、Rさんとわたしの関係は恋人と言うよりも、姉妹っぽい関係の方が自然ですね」


 坂の上迄小走りで到達して片脚を軸に反転するYの動きは、さながら映画の一シーン内に滞在する女優のようだった。不覚にも見惚れてしまったわたしは、同性愛の批判を後逸させて興味の薄い疑問点に抵触した。


「……姉妹ねえ。わたしとYじゃ無理があると思うけど」

「とんでもありません。<悲劇の練習>に参加してくれる時点で、Rさんは心強い同士であります。血の繋がった肉親と言っても過言ではありません」

「過言よ、過言。やっぱりあんた、ぶっ飛んでいるわね。あんたとわたしが似ている訳が無いじゃないの」


 顔はあんたと比較して随分劣っているし、との卑屈な情意は吐露されず、靄がかかったような白い息へと大人しくなっていった。坂の頂上でわたしを待ってくれている霊妙不可思議な少女の許へ着く前に、寒さで私の指先は感覚を失い身体を洗われている犬のように烈しく震えて雨雫を放散させるだろう。だが、苦痛かと問われればそうでもないと断言し得る。


 わたしはあんたの傍にいるために、悲しみを持参しなければならないらしい。もっと簡単な生き方はあるかもしれないが、不器用なわたしはこれが精一杯だった。


 あんたは気附いていないと思うけど、わたしにとっての<悲劇の練習>は困難を極めているのだ。何てことない日常に反旗を翻し、未確定の不幸を恐れるが為に取り繕った不幸に身を寄せる不器用な少女に会えたことで、わたしの現在は左程悲しくはならないのだから。


「Rさんと楽しい日々を送ってしまったら、<悲劇の練習>にはなりませんね」


 Yの覚知を契機に、雨粒の衝撃が一層強くなった。意地っ張りなのは存外わたしだけではないと感じたのは興味深いことであり、並大抵の辛苦ではわたし達の悲劇には成り得ないと誇らしげに思えたのだった。

                                (了)

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悲劇の練習 春里 亮介 @harusatoryosuke

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