◆彼女と元カノと集団行楽と痴漢の話
その噂は瞬く間に学内中に広まってしまった。
「どどど、どういう事ですの!?乙姫さんが、その、泡海先輩とお付き合いをしているというのは本当ですの!?」
「それはボクからも聞きたいんだよ。いったいどういう事なのかな…?朝の時点ではそういう感じに見えなかったんだよ…」
この二人はまだいい。騒ぐだけだし後できちんと説明すれば多分わかってもらえる。だが、俺が何を言っても他の連中は納得などしない。
その日から俺に対する嫌がらせが始まった。泡海(付き合うからには名前を呼び捨てにしろと人魚先輩に釘を刺された)への気遣いもあるのか表立って直接何かされるわけではないが、上履きに画鋲を仕込まれたりラブレターだと思って開けたら剃刀封筒だったり…。
遅れて学校にやってきた白雪はその状況を知るや否やケタケタ笑い転げた。
とにかく最低限の理解者は必要である。昼休みに有栖とハニーを屋上に呼び出し、事情を説明した。勿論重要な部分はとてもじゃないが言える様な内容ではないので、白雪の事や俺が何をしていたのかがバレてその口止め料として先輩に協力する事になった。何故か俺と付き合う事が先輩にとって好都合らしい。という感じだ。特に嘘はついていない。
実際問題何故泡海が俺と付き合うなんて言い出したかといえば、泡海は近しい友人からはもしかして同性愛者なのでは、という噂がたっていたらしい。そうじゃないと言っているし、特に困らないのだがもし今後の活動(コレクション行為)に支障が出ると困るというのが主な理由であり、もう一つの理由は、そのほうが何かとハニーに接触しやすくなるから。という物だった。
だから特別付き合っているからといって泡海とそういう関係になったわけでも何かできるわけでもないんだぜちくしょう。
ただ、時々彼氏彼女のフリ、のように振る舞い周りに周知させておくことが重要なのだそうだ。
「ま、まぁきっとそんな事だろうとは思っていましたけれどっ!泡海先輩がこんなしょ、乙女さんとお付き合いするなんておかしいと思ったんですの」
「うーん、あまり同意するのはおとちゃんにかわいそうだけど、そうなんだよね…」
何か訳有りでそういう状況になっているだけなのだとあっさり信じられてしまうのもそれはそれで切ない。
「あ、そうだ。一つ提案があるんだけど明日の日曜予定空いてるようだったらハニーにちょっと付き合ってもらいたいんだけど」
早めに泡海との約束を進めて借りを作っておきたい。
「え、おとちゃんからデートのお誘いなら予定あっても都合つけるんだよ」
「うーん、デートの誘いっていう内に入るんだろうか…実は泡海に誘われてて、一応フリみたいなデートだからさ、誰か誘ってきてほしいって言われてるんだよ」
って事にしておくのが一番いいだろうと踏んだのだが。
「そ、それならわたくしがついていってあげてもよろしくってよ!!」
予定外の方向からOKの返事が飛んできた。有栖とデートってのはなかなか面白そうなんだが…ハニーがきてくれないと困る。
「うーん、人魚先輩と一緒かぁ…でも御伽さんが一緒にいくならわざわざボクがついて行く必要は…」
「ハニーが必要なんだ!!お前がいてくれないと…」
焦りのせいか必死になってしまった。怪しまれただろうか…。
「そう?おとちゃんがそこまでボクを必要としてくれてるんだったら一緒に行こうかな♪」
少々妙な誤解を与えてしまったが結果オーライだったようでなによりである。
「それで、わたくしはどうなるんですの?」
あ、そうだった。
「どうせならみんなで遊んだ方が楽しいだろうし有栖も一緒に来てくれ。…どうせあと一名増えるだろうけどな」
「わらわの事かえ?」
急に頭上から声がしたので俺と有栖はビクっと身を震わせた。なんでハニーは無反応でいられるんだ。
「昼寝してたらお主らが居ないので少々探してしまったではないか。それで、どこで何をするのじゃ?」
「そういえばまだそれを聞いてませんでしたわね。仮にもデートという事ならどこか気の利いた場所を考えてありますの?」
それが問題だ。いろいろ考えてはみたんだがこれだけの人数がいるとなるとゲーセンやショッピングで済ますというのも落ち着かないだろうし…。
「結構な人数になるしやっぱり誰でも楽しめるところだったら遊園地とかはどうかな?
海寄ランドは某夢の国などと比べてしまうと規模の小さい遊園地ではあるが学生が数人遊びに行く程度だしいいのではないだろうか。最近はいろいろとアトラクションも増えていると聞くし俺ももうしばらく行っていないので今どんな感じなのか気になる。
ふと最後に海寄ランドに行った時の事を思い出して甘酸っぱい気持ちになった。あの頃は何も知らないガキだったけどその分今よりも純粋で、手を引いてくれていたあの人に猛烈なアピールをしていた覚えがある。結局あちらはどんなつもりで俺とデートしてくれていたのかさっぱり解らないまま終わりを迎えてしまったが、あの時の気持ちは今でも微妙に燻ぶったままだ。
「いいぜ、でもチケットってもう一枚ないかな?できれば誘いたい人がもう一人いるんだけど」
「誰?」
「誰ですの?」
「誰かのう?」
「んで、あたしのとこに来た、と」
放課後になるのを待って相手を教室に呼び出した。この時間なら大抵の人達は部活動で教室なんかには立ち寄らない。邪魔される事なく話ができるってものだ。
「どうかな?もちろん暇だったらでいいよ。一応引率って事で」
「まったく、引率が必要なほどガキじゃねーだろがー。まぁ久しぶりに海寄ランドってのも悪くはないわな。うん、まぁいいだろ。時間作ってやんよ」
「ありがと咲耶ちゃん
「咲耶ちゃんゆーな。織姫せんせな?」
そう、俺が誘いにきたのは織姫咲耶先生である。
「海寄ランドか…しっかし懐かしーなぁ。一緒に行こうなんて言うからまた愛の告白でもされるかと思ったわ」
「しねーよ!いつの話してんだよ」
「んー?小学三年くらいだったか?あの頃のお前はそりゃもう可愛くってなぁ。思い出すだけでよだれが出てくる」
にたにたと笑いながら言うこの人は、俺が幼いころに恋をした近所の咲耶お姉ちゃんなのだ。昔はよく一緒に遊んでいて、いろんな処に連れて行ってくれたしいろんな話もした。そして俺はコロっと恋に落ちてしまったわけである。忘れたい過去のような、忘れたくないような。そんな複雑なアレである。思春期なのだから大目に見て頂きたい。
「あくまでも引率って事でついてくだけだぞ?妙な期待なんかすんなよー?」
そう笑いながら俺の鼻を指でツンと突いてくる。わざとやってんのかこの女。可愛いなぁくそが。
「あーお前からかうと面白いわ。もう別れて何年にもなるのにな。しばらく会わない間に随分やさぐれたなーっと思ったもんだが中身はそれほど変わってねーな」
当時、幼い俺は勢いで「俺のお嫁さんになってよ」なんて口走り爆笑されたのだった。でも、今になって思えばありえない話なのだが、「結婚はさすがに無理だろーな。でも彼女にならなってやってもいいぞ」と、まぁ。俺たちは付き合っていたのである。
とはいえアレは幼い俺をあしらう為の方便だったかもしれず、当時の事を思い出す度に俺はモヤモヤが増していくのだ。
「前から聞きたかったんだけど咲耶ちゃんはどこまで本気だったのさ」
つい、今まで聞けなかった事が口から零れる。一瞬激しく後悔したが、よく考えたらここでからかっただけだとか、本気にしたの?ばかじゃねーのなどと言ってくれた方が俺の中で長年燻ぶっていた何かがすっきりする気がした。
「あ?付き合ってたのがか?」
あ、ちゃんと付き合ってたんだ?
「勿論本気も本気よ。本気って書いてマジだぜー♪ひゃっひゃっひゃ」
よくわからない声で笑う咲耶ちゃんに俺はパニック状態だった。
「ちょ、ちょっと待てよ。本気なわけないだろ?当時あれだけ年齢も離れてたし、何より俺を振ったのは咲耶ちゃんじゃねーかよ」
「咲耶ちゃんゆーなっての。…まぁいいや。てかあたしが振った覚えなんかねぇんだけどな」
どういう事だ。俺は振られてなかった?んなアホな。冷静になれ、クールになって当時の事を思い出してみよう。たしか…
『咲耶ちゃんはなんで俺と付き合ってくれたの?まだ子供なのに』
『あたしな、今のお前だから付き合ってるんだぜ?中学生や高校生になっていくお前の事を考えると今から虫唾が走る』
『虫唾ってなに?』
『考えたくもないくらいに最悪って事だ』
『俺が大人になると嫌なの?』
『無理』
『大人になっても一緒に』
『ぜってー無理。ありえん』
『…そっか』
『ん、そういう事だからじゃーな』
…んんん…?かなりリアルに思い出せた筈だ。完全に振られてるよ、な…?自分に自信がなくなってきたぞ。
「やっぱり振られたよな?」
「振ってねーって言ってんだろしつけーな。なんか急にあたしが家に誘いに行っても会ってくれなくなったんじゃねーかよ。思い出したら腹立ってきた殴るぞテメー」
頭の中がはてなマークでいっぱいになる。確かに俺は一緒にいるのが無理って言われて、
振られたのに家にくる咲耶ちゃんが何考えてるか解らなくなって…そうだ、からかわれてる気になって腹が立ってたんだ。
「会ってくれるまで行くつもりでいたのによ、二階の窓あけて、別れたんだからもーくるな!って怒鳴られてよ。アレは腹が立つというよりもショックだったぜ…失恋ってこういうもんなのかーってしばらく鬱になってたな。もう開き直ってるしお前ももう高校生だ。過ぎた話だからどーでもいいけどな。お前とこの学校で再会した時も元気でやってるみたいでよかったなーって感じだ」
言った。確かに言った。でも…
「あれは咲耶ちゃんが俺と一緒にいるのが無理だっていうから振られたんだと思って、もう別れてるつもりになってたから…」
「…え、そうなの?あーなるほどねぇ」
咲耶ちゃんが意外だったという顔で驚くが、こっちからしたらそれが意外だよ。
「なんだ、じゃああんときまだ相思相愛だったって事じゃねーかよ。勘違いで距離置きやがって。やっぱり殴る」
「いやいやいや、もし万が一その時の事が誤解だったにしてもだ。咲耶ちゃんが言ったんだぜ一緒にはいられないって。あれどういう意味だったんだよ。納得がいくように説明してくれ」
急に相思相愛なんて言葉を出されても焦る。確かにあの頃は本気で好きだった。咲耶ちゃんも本気で好きだったって意味だよな。んでその相手が今目の前にいて、誤解が解けたら、どうなる?どうなってしまう?俺は…
「んぁ?そりゃそのままの意味だろ」
…は?
「ずっとは一緒にいらんねぇって事だよ。もともとお前が中学入るくらいには別れる気でいたよ」
なんじゃあそりゃあ。
「しょ、少年の心を、恋心を弄んだのか?」
「んな訳あるか。あたしはいつだって大真面目だっつーの」
「なら、どうして…」
俺は、出来ることならその後の言葉は聞きたくなかった。いろいろな意味でだ。
「あたしはな」
それを聞いてしばらくの間、俺はその言葉が頭の中を駆け巡る事になる。聞かなければよかったと本当に後悔する事になる。
「ショタコンなんだよ」
マジで俺の周りには変な奴しかいねぇ。
「で、じゃ。織姫先生を誘いに行った時なにかあったのかえ?何やら大量の感情エネルギーが…」
「やめろ。思い出させないでくれ」
かくして幼い少年だった頃の俺の恋心は跡形もなく崩れ去ったのだった。
「けちじゃのう。まぁよいわ。どちらにせよ誘うのには成功したのじゃろ?ならあとは遊園地じゃな♪」
あれから白雪はやたらと浮かれている。何かの漫画に出てきた遊園地とやらに行ってみたかったとテンションが上がっているらしい。もうこうなった以上は思う存分楽しむしかない。過去の俺の分まで。
「じゃが、普通に遊園地で遊ぶだけじゃつまらんのう。そろそろ…」
嫌な予感しかしない。純粋に楽しませてほしいのだが…
「第二作戦といこうかのう」
そういう訳にもいかないようだ。ちょっと変わった幼馴染と、とんでもお嬢様と、謎のエージェントであり偽りの恋人先輩と、ショタコンの元カノ先生と、同居人系取り憑き悪魔なんていう面子での遊園地が無事に済むわけがなかったのだ。
「あら、意外とにぎわってますわね。たまには庶民の楽しみを味わうのも悪くありませんわ」
有栖はそんな風に言いながらも一番そわそわしていた。意外とこういうところで遊ぶ機会が今までなかったのだろう。
海寄ランドに到着し、あたりを見渡すと有栖の言うように結構お客さんが居るように見えた。最近はいつもこうなのかそれとも何か特別なイベントでもあるのか…。
俺たちは皆で電車に揺られて行く計画を立てていたのだが、咲耶ちゃんを誘った事により車移動する事になった。
以前咲耶ちゃんと行った時は電車だったのでそんな些細な事でも時の流れを感じてしまう。主に時の残酷さを。
あの頃俺の手を引いてくれた暖かな手はハンドルさばきに夢中になり、優しく囁いてくれたあの声は前を走る車に対する罵声へと変わっていた。
「まったく、あのチンタラ走ってたワゴンがいなきゃあと三十分は早くついたっての」
一車線ずつの道が長く続いていたため前を走る車にペースを合わせるしかなかったのである。しかし追い抜きをできるタイミングはいくらでもあった筈で、文句を言いながらも律儀に交通ルールを守るあたりはこれでも教師なんだなと感心した。
俺と別れた後しばらくして引っ越してしまった咲耶ちゃんとこの学校で再会した時は本当に心臓が止まるかと思ったものだが、よくも悪くもあちらが軽いノリで「おっ、久しぶりじゃん」とか絡んできてくれたおかげでまた気楽に話ができるようになった。その点は感謝してもしきれない。きっと咲耶ちゃんの方から声をかけてくれなかったら俺はもんもんと頭を悩ませるどころか自分勝手な恨みすら抱いていたかもしれない。
「それにしても…舞華さんを誘ってほしいとは言ったけれど随分人数が多いんじゃないの?これってデートというより集団行楽よ」
集団行楽ってなんだよ…ピクニック的な何かか?
「ハニーだけを誘うっていうのは案外大変なんだよ。それにこうやって関りを持つところから始めたほうが自然だろ?」
耳元で文句を言ってくる泡海にこちらもひそひそ声で返す。
「た、確かにそうかもしれないわ。ごめんなさい。こういう場をセッティングしてくれただけでも感謝しないとね」
ハニーの事になると急に態度が変わる偽りの彼女。なんだか少し腹立たしい。
「とにかく、ハニーと仲良くなれるようにこっちもいろいろ協力するから。今日はそのための日なんだし」
二人でひそひそと話しているのが気になったのか気が付くとハニーがこちらを睨んでいた。
「人魚先輩。ちょっとおとちゃんになれなれしすぎないかな?彼女って言っても建前なのはこっちも聞いてるからあまりイチャつかないでほしいんだけど…それに、あまりおとちゃんに迷惑かけるようだったら本気で潰すから」
急に何言ってんだこいつ!これから仲良くなろうって言う相手から突如喧嘩売られてるとか先が思いやられるぜ。
「は、はいっ!大丈夫です舞華さんの迷惑になるような事は決してしません!もし失礼があったら遠慮なく蹴り飛ばして下さい!」
ハァハァと息を漏らしながら何故か思い切り嬉しそうな顔をして泡海が言うと、ハニーもなんだか様子がおかしい事に気付いたようだ。
「おとちゃん…なんかこの人、大丈夫なの?ボクの経験上ヤバそうな匂いがするんだけど」
「私の匂いですか!?いくらでも嗅いで下さいなんなりと…」
「ちょ、ちょーっとストップ!落ち着け!」
それ以上聞いていられなくなって慌てて泡海を止めると、一瞬殺意の籠った視線が飛んできたが、すぐに冷静さを取り戻したようだ。
「し、失礼しました。緊張して取り乱してしまって。乙姫君にはできるだけ迷惑かけないように努めます。ですから舞華さんも仲良くしてくださると嬉しいです」
「うん…まぁ、いいけど…」
取り合えずはなんとかなったようだ。しょっぱなから泡海の本性全開だとすべてが台無しになってしまう。
しかし…俺は泡海の本性について何か誤解があったようだ。思っていたよりヤバそう。
「おいお前ら早く入場しようぜ。いつまでイチャコラやってやがる」
「あ、ごめん師匠」
「師匠ってゆーな」
ハニーがとてとてと咲耶ちゃんの元へ行き、「荷物持とうか?」などと声をかけている。
…ん?師匠ってなによ?ミニマム師匠?
「皆さん何してますの!早く入らないと乗り物の列が長くなってしまいますわ!」
もう入口前まで行っていた有栖が大声で叫ぶ。本当に楽しみにしていたんだなあいつ。
「ほら、お嬢様がお呼びだ。さっさと行くぞ」
ハニーからチケットを受け取り、一人ずつ入園すると、人は多いがまだ乗り物に行列ができて何時間も待つような事はなさそうだった。
「早く、早く行きましょうどれから乗るんですの?あのくるくる回るやつ?それともあのジェットコースターですの!?そうですわね、そうしましょう!」
有栖に促されるまま最初にメインであるジェットコースターに並ぶ。
「…ここは随分人が多いのう…」
今までずっと黙っていた白雪がぼそりと呟く。どうやら車に酔ってしまったらしく到着してからもずっと青い顔をしていたのだが、少しは回復してきたようだ。
「お前そんな状態でジェットコースターなんか乗れるのか?」
「わからん。わからんから、試してみる。こんなところまで来て楽しまずに帰ることなどできようものか…」
ずっと閉じ込められて現世を謳歌できなかったという境遇からか、こいつは楽しむ事に関しては人一倍執着があるようだった。だからこそ俺への無理難題も基本的に楽しむ事だけがメインになっている気がする。ヤバい犯罪をやらされるよりはマシだが。
…いや、女子更衣室侵入も十分ヤバいだろう。俺の良識が狂いだしている。気を付けなければ…。
「おい、どうやら舞華は身長的にジェットコースターは無理そうだぞ。あたしと舞華は離れて見ていることにしよう」
「残念だけどしょうがないね。おとちゃん楽しんできて。下で待ってるから」
そう言って二人が離れて行くのを泡海は絶望した目で見送る。
本来ならハニーが乗らない以上泡海も下で待機したいところだろう。が、テンションが上がりきっている有栖にがっちり腕を掴まれていて逃げ出すことができなかったようだ。
有栖と泡海、俺と白雪の二人組で乗り込み、コースターがカタカタという音を立てながら上昇していく。
「来ました、来ましたわ!ついに憧れのジェットコースターですのよ!」
うわー恥ずかしいからやめてー!
「おお、なかなかの高度じゃな。これは楽しめそうじゃ」
俺は失念していた。いろいろな事が気になりすぎて、気を回しすぎて忘れていたのだ。俺が絶叫マシーン全般が得意では無かった事に。
ゆっくりと頂上に辿り着いたその時に思い出してももう遅い。そこからは絶叫すら出なかった。ただ情けなく口をあけ、頭が真っ白になる。
前方から「ひゃっほーう!」という有栖の声、そして隣から「なんじゃお主声もでんのかぎゃはは」という白雪の声だけが脳内に響く。数分で終わるその時間は俺のいろいろな部分を麻痺させていった。
もう、どうにでもなーれ。
ハニー達と合流後、俺はしばらく言葉を失っていたが、心配してくれたのは例によってハニーだけである。有栖くらいはと思っていたのだが早く次の乗り物に乗りたいという欲が俺などという物を忘れさせているようだ。到着までとはうってかわって元気を取り戻した白雪も俺を見て「情けないのう」などとぼやく。泡海はもとより俺の事を心配するなんて感情は持ち合わせていない。
「こいつはしばらくダメそうだからみんなで遊んで来い。回復したら合流するから」
どうやら見るに見かねて咲耶ちゃんが俺の看病をしてくれるようだ。具合も悪くなってみるものである。
「早く行きましょう次!」
「おとちゃん大丈夫かなぁ」
「大丈夫です。先生がついてますから。舞華さんは私たちと楽しみましょう?」
「わらわ次はあれが乗りたいぞ!」
思い思いの事を口走りながら皆が去っていく。まさかいきなり離脱とは情けない。が、これはこれで役得というものである。
「ほれ、あそこのベンチで膝枕でもしてやろうじゃないか」
ニヤニヤと俺をからかうように咲耶ちゃんが言うが、言い返す元気もないのでベンチに座るなり本当に膝の上に頭を乗せてやった。
「おいおい、冗談を真に受けるなよな…まぁ、昔のよしみで少しだけ貸してやんよ」
そんな言葉を聞きながら俺の意識はブラックアウトした。
「ちょ、ちょっと乙姫さん!?いったい何してらっしゃるの!?」
うるさいなぁ…。いつの間にか寝てしまっていたらしい。重たいまぶたをなんとか開くと目の前には「教師になんという事を…!」と鬼の形相をした有栖。呆れた顔の泡海。ぶすっとしたハニー。そして遊び倒して満足そうな顔の白雪がこちらを見つめていた。
「お前ら、もう十分遊んできたのか?」
「勿論一通り乗り物もお化け屋敷も楽しんできたんだよ。でもそんな事よりおとちゃんの今の状況はいろいろ問題があると思うんだけど」
確かにハニーの言うとおり教師の膝枕で眠りこけるというのはいろいろまずいのかもしれない。
…いや、何かおかしいな。確か膝枕をしてもらっていた筈だが俺の頭は直接ベンチの上にあった。膝はどこへ行った。
そこでふと後ろから回されている腕に気がつく。
「いくらそのベンチが大きめだからって時と場合と場所と相手を選んだ方がいいんじゃないかしら」
泡海の冷ややかな言葉に今おかれている状況を把握した。
俺と咲耶ちゃん二人ともベンチの上で横になっているのだ。そして咲耶ちゃんに後ろから抱きつかれているらしい。なんという役得であろうか。
「うるせぇなぁ…ん、ああ、お前ら戻ったのか」
咲耶ちゃんが眼を覚まし俺に抱きついていた腕を離す。いくら広めのベンチといえど二人並んで横になるには少々無理があり、抱えられていた腕を離された瞬間俺はバランスを崩し地面に落下した。
「そんな不埒な事をしているから罰があたったんですわ」
有栖はそういいながら俺の身を起こしてくれた。
「お、おう。ありがとな。気持ち悪くて横になってたらつい寝ちまったんだよ。でもなんでこんな事になってたのか俺にはわからん」
「ボクからも聞きたいんだけどなんで師匠がおとちゃんに抱きついて寝てたの?」
ハニーがトゲのある声で咲耶ちゃんを問い詰める。気がつけばちゃっかりとハニーの手を泡海が握っていた。
仲良くなるっていうミッション自体は成功しているようで何よりである。
「んぁ…?なんだよそろいもそろってうるせーなぁ。あたしは寝起きが悪いんだ。あまりギャーギャー騒がないでくれ。なんで抱きついてたかなんて抱き枕代わりに決まってるだろーが。こう、昔と抱き心地が変わってなきゃいーなーと思って……あ」
あ、じゃねーよ何爆弾ぶっこんでんだこの教師は!!
「昔と…って、ど、どどどどどういう事ですの!?もしかして織姫先生と乙姫さんは、そそそそそういう関係でしたの!?」
ほら面倒な事になった…。
「まぁしょうがないのかな。師匠はおとちゃんの元カノなんだよ」
何故ハニーがそれを知っている?
って、隣に住んでりゃ解ることもあるか。
「も、もと…彼女、ですの??」
「ほう、それは初耳じゃ」
「どうでもいいのだけど仮にも彼女とのデートに元カノを連れてきたの?」
「うるせぇ!!元カノって言ったって小学生の低学年頃の話だよ!昔ちょっと仲良かったお姉さんってだけだって」
昔の事を蒸し返されても困るしあまり触れてほしい話題ではない。なんとかみんなの興味を逸らしたかったのだが、
「バレちゃしょうがねーな。昔は愛し合ってたんだけどあたしはコイツに振られちまってな」
「ちょっと黙っててくんねーかな!!」
「あ、愛しあっていた…小学生の頃から既にけだもの…?」
その後、その話題を沈静化させるのに俺がどれだけの精神力を浪費した事か。
なんとか皆の興味が逸れたのはハニーが園内にあるプールの話をしたのがきっかけだった。
「それにしてもこんなに天気がいいとプールにでも入っていきたいよね」
「そういえばプールも併設されてるんですわね。せっかくだから少し行ってみたい気もしますが…」
「プール…本で読んだぞ。わらわも行ってみたいのじゃ!」
それぞれプールに興味があるのはいいのだが、約一名「プール、水着、舞華さんの水着、着替え、水着…着替え、水着…」と繰り返し呟きながらヤバイ眼をしてる奴がいる。俺はそれを見ない振りした。
放置するのは危険だと解っていつつも、この状況だ。流れに身を任せてしまう方が俺の過去話から話題が遠のく。ハニーすまん。
「水着のレンタルとかもあるみたいだから皆でプールでも行ってみるか?」
俺がそう言うと、満場一致でサクサクっと話が進んだ。意外な事に咲耶ちゃんも乗り気であった。理由は、「暑い。プール、涼しい」との事だ。まだ少し寝ぼけているらしいが咲耶ちゃんの水着も見れるとなれば俺としても嬉しい限りである。それによくよく考えればハニーはともかくとして皆の水着も見られるのだからこれはいいイベントだ。何事も起こらなければの話だが。
「あの、舞華さん、一緒に着替えに行きましょう?」
泡海が眼を泳がせならが必死に感情を隠しつつ声をかけるが、返事はノーであった。
「こんな事もあろうかとボクは服の下に水着を着てきたんだよ。読みがあたったんだよ♪」
「そ、そうなんですか。…残念です」
泡海は一瞬この世の終わりのような顔をしてがっくりと肩を落とした。
本当に残念そうだなおい。
俺達はぞろぞろとプールのエリアへ向かった。俺だけが男子更衣室行きなので少々寂しいが女子更衣室に入るわけにも行かないので仕方ない。
適当なロッカーに着ていた服を突っ込み、鍵をかけて、鍵についたゴムの輪的な物を腕に嵌める。
「男が着替えるところを見ても楽しくないのう。男女問わずやはり恥じらいが無いと…」
「それは同感だな。やっぱり恥じらいは大事だ」
ふと背後から聞こえてきた声に同意してしまったが…
「ほれ、第二作戦といくぞよ」
「うわっ、どこから湧いて出た!!」
慌てて振り向くと、俺の後ろ側のロッカーから水着姿の白雪が上半身をにょきっと生やしていた。
「ば、ばか!こんなとこですり抜けるなよ人が見てたらどうする!!」
時既に遅し。着替えているのは俺だけじゃないのだ。周りにいる男が何だ何だとこちらを見てくる。
「ぬかりは無いぞ?今のわらわはお主にしか見えておらぬ。今のお主は一人言を叫ぶヤバイ奴じゃ」
白雪の言葉が終わる前に俺はその場所から逃げ出した。周りの好奇の目は白雪ではなく俺に向かっていたのだ。勘弁してくれ。
「待つのじゃ、わらわを置いて行くな」
更衣室から抜け出して一息つくと遅れてふわふわ追いかけてきた白雪が「第二作戦始めるぞ。女子更衣室へいくのじゃ」と言ってきた。
「なんでお前のミッションは大抵エロ方面なんだよ。もう少し何かあるだろ」
「わらわもいろいろ考えてはみたんじゃがコレが一番お主の心を乱すのに適しておるのじゃ。それにわらわが面白い」
この悪魔め…
「それで?今度は俺に何をさせようって言うんだよそもそもどうやって侵入する?」
問題はそれだ。学校の一部活の更衣室なんて規模ではない。いつでも女性が沢山いて着替えをしている。俺なんかが紛れ込む余地は無い筈だ。
「そうじゃな、実はこんなものを用意してあるのじゃが…」
…眼を疑った。それで、どうにかしろと…?
やむを得ず俺はいろいろ考えた後、多目的トイレに飛び込んだ。
男子、女子トイレとは別に用意されている多目的トイレならどちらの性別の人間が出てこようと問題ない筈だ。
「本当にこんなのでバレないんだろうな…?」
「しらん。それはお主次第じゃな♪ほれ、少しだけ後ろ向いててやるから早くせい」
こいつはそういう奴だ。結局俺の精神が揺さぶられて感情エネルギーが発生さえすればそれでいいのだ。その後俺が失敗して白雪の力で危機を脱することになろうと、それはそれでまた違うミッションで回収をする。それだけの事である。
だがそれでは俺の負債はいつまでも減らない。多少は減っているのかそれすらも解らない。ただ黙々と失敗せずにミッションをこなすしかないという事だ。俺の人生ずっとこんな思いをしていくなんてやはり無理である。早く完済してこんな関係を終わらせなければならない。
「おお、意外といい感じじゃぞ。少し筋肉質じゃが…まぁ女に見えない事もないのう」
白雪が用意したロングのウィッグを被り、パッド入りの水着を装着する。その水着はオレンジ色で、白いフリルがついたビキニタイプだった。
「ちゃんとパッド入れてあるやつじゃし下もほれ、何かと目立つじゃろうからパレオとやらがついてるのにしたんじゃぞ?気が利いとるじゃろ?」
なんていうかまぁどうせやらなきゃならないならこのチョイスはありがたい。パッド無かったら本気でぺったんだし下の方なんて万が一にもパレオ無しだったり競泳タイプの水着だったりした日にゃアレがアレで大変なことになってしまう。しかしこいついつの間にこんなに水着に詳しくなったんだよ。うちにそれ系の漫画あったかな…。
「これなら…なんとかなる…かなぁ…。それにしてもあいつらに見つかったりしないかが心配だぜ」
他の面子に見つかったりしたらさすがにまずい。こういう内容じゃなきゃ協力も頼めるってのに…。これも含めて楽しんでるんだろうな白雪のやつは。
「大丈夫じゃ。先にプールに行ってたわっぱのところへ皆いっとるよ。わらわはお主を連れて後から行くと伝えてあるわ」
その辺は準備万端って事か。もういっそ女子更衣室侵入前にあいつらに見つかって止められた方がマシな気がしてきた。
「さて、そろそろ始めようかの」
「だから俺は女子更衣室に忍び込んで何すりゃいいんだよ」
どうやって女子更衣室に行くのかっていうのは解ったが、入れたとして俺は何をさせられるのだろう。うぅ…胃が痛い。
「ああ、それな。すまん考えてなかったのじゃ。忍び込むだけでも十分なエネルギーは確保できそうじゃが…それだけじゃ確かにつまらんのう。まぁ適当に考えてみるからまずは忍び込むのじゃ♪」
今回はこそこそしていても仕方が無い。むしろ出来る限り堂々と入っていかなければならない。ある意味隠れてこそこそ入っていくのよりも勇気が必要だ。
まずは更衣室の近辺をこの格好でうろついてみる。なんとなく女子に見えるかも、程度では心配だ。周りの反応を見てからでも遅くはあるまい。
…意外と、バレない?
数分うろうろしてみたが今のところバレる気配は無い。俺って意外とイケるのか?
「まだかのう?もういいと思うんじゃが…」
…よし、行こう。
女子更衣室へ足を踏み込む。心臓が破裂しそうだ。周りには女子が普通に居てこちらを見てくる。いや、見られているように錯覚しているだけかもしれない。それだけ俺の精神は消耗している。
一歩また一歩と先へ進む。入り口に入ると細い通路があり、突き当たりを曲がると開けた場所に出る。
いきなり着替えている女子に遭遇。慌てて引き返そうとするが、「どこへいくのじゃ。ほれ進め」とニヤついた悪魔の囁きが耳に響く。
意を決して、あまり意味はなくともできる限り女子の方を見ないように見ないように進むが、ロッカーの列を一つ通り過ぎた所で予想外の出来事が起きてしまった。
どんっ
「きゃっ」
「うわっ」
突然二列目のロッカーの陰から女子が飛び出してきて俺に激突したのだ。虚をつかれてたまらず俺は後ろに倒れる。相手も反対側に倒れてしまったようだ。
「も、申し訳ありませんっ、わたくし忘れ物をしてしまって、その、慌てていたものですから…そちらは大丈夫ですの?」
聞きたくない聞きたくない今聞きたくない声がした俺の事は気にせずどっか行ってくれ有栖!!
「あの…どこか痛むんですの?わたくしのせいで…」
違う、違うから早くどっか行ってー!
「わたくし、どうお詫びしていいか」
『だ、大丈夫ですから、気にしないで下さい』
黙っていても状況は良くならないので覚悟を決めて裏声を出す。背後からは悪魔の爆笑する声。どうやら今の白雪は声も俺にしか聞こえないらしい。
「そういう訳にはいきませんわ。私の気がすみませんの」
『ほ、本当に大丈夫ですから気にしないでくださいー!』
それだけ伝えて逃げだした。俺にはそれ以上は無理だ。頼むから追って来るなよ…。
「ぎゃっはっは今のは傑作じゃ!!たまらんのう♪」
笑い事じゃねぇよ!!死ぬかと思ったわ!
「でもこれで知り合いにもバレないって事が解ったのう。これで心置きなく散策できるというものじゃな」
…そうか。確かにある意味収穫はあったのかもしれない。
その後特に何か目的があるわけでもなく、ただ黙々と更衣室内を歩き回らされた。
当り前だが水着に着替えるともなると女子は全裸になるわけで、ちゃんとタオルで隠しながら着替える女子も勿論いることにはいるのだが…どこに視線を動かしても目の毒にしかならない。
「なかなかいいエネルギーの溜まりっぷりじゃのう」
そりゃ青少年ですからね。こんな状況に放り込まれて無感情でいられるほうがすげぇよ。いつ男と見破られるかとこっちは常にヒヤヒヤしてるってのに楽しそうな声だしやがって…。
今日偶然ここで着替えている人たちよ。本当に申し訳ない。できるだけ見ないようにするからほんと許して。
「あまりうろうろし続けるのも不審じゃから適当なロッカーでも開けて何かしてる振りでもしてみるのじゃ。勿論無人のエリアじゃなく近場に女子が居るところでな」
悪魔か。いや、悪魔なのだけれど…文句を言ってやりたくてもこんな場所であまり声を発するわけにもいかず俺はただ言われるがままに近場にあったロッカーを開ける。
三つほど右のロッカーを開けて着替えている女子が一人いたが、出来るだけ人の少ない場所となるとここくらいしか無かったのだ。許してくれ。
今日は懺悔ばかりしている気がする。許せと言われて許せるような事でもないのだろうがこちらにも事情があるのだ。すこしばかりアレなアレが視界に入ってしまっても仕方ないのである。
「お主意外とノリノリになってきてないか」
そんな事は無い。ある筈がない。これは不可抗力であって、隣の女子が今まさに服を脱いでいくところが目に入ってしまっているだけなのだ。
しかし装いが怪しい。女子はあまり被らないような野球帽を目深に被り、サングラスとマスクをしいていた。
服を脱ぐのに邪魔だったのか帽子とサングラスを外す少女を見て妙な既視感に襲われる。
…まてよ、この女子どこかで見たことがあるような…。
その少女は細身で、身長は咲耶ちゃんよりは大きいが有栖よりは小さいくらいか。セミロングの髪を揺らしながらブラウスを脱ぎ始める。年齢は中学生か高校入りたてくらいだろうか。
どこで見たのだったか。知り合いではないと思う。だが間違いなく俺はこの顔を知っていた。
「おいおい、そんなに食い入るように見てたらさすがにバレるじゃろう。これだから童貞は…ん?まてよ…?」
白雪が何か考え込んでいる。まさか白雪も見覚えがあるとか言うんじゃないだろうな?同じ学校の女子とかだったらいろいろ面倒だしそろそろ移動したほうがいいかもしれない。
「ちょっとアンタ」
可愛らしいデザインのスカートをロッカーに放り込みながら少女はこちらに声をかけてきた。
『は、はい!なんですか?』
急に声をかけられたので声が裏返ってしまったが、むしろ裏返らなかったほうがヤバかったと気付く。
「アンタそのロッカー使ってるの?」
関わりたくはないのだが話しかけられている以上無視は余計不信感を抱かせる。やむを得ず我ながら気持ち悪い声で『はい、そうですけど…』と告げると
「おかしいわ。だってアンタもうロッカーのカギ腕に付けてるじゃない」
うおぉぉぉぉ!男子更衣室の鍵つけてたの忘れてたー!
「それになんだか…」
「アルちゃーん、そろそろ着替え終わった~?」
少女が俺に何か言いかけた時、どこからかその少女を呼ぶふわ~っとした声が聞こえてきた。
「もう少し。すぐ行くから待ってて!」
少女が一列向こう側へと返事をすると、「おい、今のうちに逃げるのじゃ!」と白雪が焦った声を出した。
「あ、ちょっと待ちなさい!」
嫌なこった!
なんだかよくわからんがこの子にこれ以上関わるのはまずい気がしたので一目散に逃げだした。全力疾走すると怪しすぎるので他の女子たちに不審がられない程度にできる限りの速足で、ロッカーの間をすり抜けながらアルと呼ばれた少女の視界に入らないように逃げる。どちらにせよあの少女は今下着姿なのだから追ってくるとは思えなかったが念のためというやつだ。
女子更衣室を抜け出してほっとしたのも束の間、「貴方…いったいこんな所で何をしているのかしら?納得のいく説明を聞きたいものだわ」今聞きたくない声第二弾が浴びせられた。
「上手く変装したつもりでしょうけど私の目はごまかせないわよ。女装してまで女子更衣室に忍び込んでいた理由を聞かせてくれる?やっぱりそういう趣味なの?もしそうなら写真は撮ってきたんでしょうね?」
俺に声をかけてきたのは怖いほどにこやかな顔をした泡海だった。
「写真なんか撮ってないって!た、頼む!今は見逃してくれ。白雪絡みでいろいろあったんだよ。後でちゃんと説明するから!」
「そう、まぁいいわ。今日私は機嫌が良いの。貴方のおかれている状況もある程度は理解しているつもりですし」
思ったよりも理解ある言葉に涙が出そう。いや、もう出てる。さっきの恐ろしさ故にだが。
「遅いから白雪さんを探しに来たのだけれど…二人とも早く来なさい。みんな待ってるわ」
その後再び多目的トイレに飛び込み、着替えて遅ればせながら皆と合流を果たした。
「おとちゃん随分遅かったんだね。白雪さんと何かしてたの?」
「ま、まぁいろいろとな」
ハニーは「大変だったんだね」と慰めの言葉をかけてくれる。本当にこいつは俺の癒しだなぁ。
「もうみんな待ちくたびれてしまいましたわ。早く遊びましょう♪まずはあのウォータースライダーとやらに行きたいんですけれどいいですわよね?」
有栖は相変わらずここでも目を輝かせている。
個人的にはこう、みんなが揃ったところで女子たちがもじもじしながら、水着似合ってるかな…?みたいな展開がほしいところだがこの面子にそんな事を期待しても意味がないのだろう。
プールは大きく分かれて三つのブロックがあり、有栖が言っているウォータースライダーがメインのプールはプール自体は小さめだがその分スライダーの人気で人が沢山いる。あとは校庭のトラックのような楕円形で流れるプールと、大きくて広い波打つプールである。
移動する前に皆の様子(水着)を観察すると、レンタルしてきたものなのでそんなにきわどい水着ではないが可愛らしい物がそろっていた。
有栖は水色で白のレースがついたパレオ付きのビキニ。俺が先ほど着ていたオレンジ色の水着の色違いだろう。
泡海は有栖のものよりもう少し大人びたシックなビキニだった。色は黒に近い紺だろうか。皆通り過ぎる男性の視線を集めていたが泡海が一番熱い視線を浴びていた。
そりゃ中身を知ってしまった今では素直に美しさを褒めたたえるのに抵抗があるがこれでも学園のアイドルだもんな。
ハニーは赤地に白水玉で白レースフリフリでセパレートタイプの可愛らしい水着。どうみても子供用である。それを自前で用意してきた事に若干思うところあるが似合ってるぞ我が心の友よ。
そして肝心の咲耶ちゃんであるが、黄色地に白水玉の子供用ワンピース水着だった。
子供用ワンピースなのに出るところが出ている。うん、素晴らしく可愛い!
しかし当人はぐったりした顔で、「あちぃ…はよ水入ろうぜ…」と砂漠でオアシスを求める旅人のような状況になっていた。
白雪はといえば、真っ白なビキニでもともとの色白さと相まって真っ白に光り輝いているようだった。
先ほどまではそれどころではなかったのでちゃんと確認していなかったが、さすがサキュバスなどと呼ばれた経緯のある悪魔だ。怪しさと艶やかさが全身からにじみ出ている。
「じゃあまずは有栖の希望通りウォータースライダーにでも行こうか」
俺の言葉を皮切りに皆スライダーの列へと並ぶ。
どうやら二人一組で滑っていく仕様らしいので並ぶ際に意図的に先頭をハニー、次を泡海にした。ちょっとしたサービスという名の口止め料である。
泡海は待ちきれないのか順番がくるまでずっとそわそわしていた。
ハニーは「えー、おとちゃんとじゃないの?」などと最初はむくれていたが、純粋にスライダーが楽しみだったらしく順番が来ると泡海の手を引いて一緒に滑って行った。
うしろからハニーに思い切り抱き着いている泡海。滑っていった下の方から悲鳴とは違う妙な雄たけびが聞こえてきたが、まぁ、幸せそうで何よりである。
あとの順番は特に意識していなかったのだが、咲耶ちゃんと白雪という珍しい組み合わせになった。
「おー白雪転校生よろしくなー。もう暑くてたまらん早く滑って下のプールにどぼんしようぜ」
そのガサツ感がまたいいのである。この人の性癖がわかってしまった以上ここからどうなろうとか全くもって思っていないのだが咲耶ちゃんのファンであることには変わりないのだ。
「センセーと一度ちゃんと話シタカッタデス♪」
今更その設定復活すんのかよ。もうずっと普通に喋ってただろうが。
しかし咲耶ちゃんはそんな事気にもせず「ほれいくぞー」と突如白雪の背中を突き飛ばした。さすがの白雪も気が動転したらしく、「ひゅぉわー!」とか言いながら落ちていく。その後をすぐに咲耶ちゃんが少し助走をつけてから追いかけていく。
あー。よく考えたら女子たちより先に滑って下に居ればおいしいハプニングのひとつもあったかもしれない。これだけの女子に囲まれてプールに来ているのだからいろいろ計画をたてておくべきだった。しかし昨日の俺はどんな無理難題を押し付けられるのかと気が気じゃなかったのでまぁ仕方ない。
「乙姫さん、一つ聞きたいんですけれど…」
有栖が背後から俺の二の腕あたりを掴んで声をかけてきた。
「これのスライダーって上半分がカバーも何もないですわよね?遠心力とかで外に放り出されたりしないものなんですの?」
このスライダーは筒状の滑り台がくねりながら下のプールまで続いていて、その管の上半分は何もないのだ。滑っている時に完全に空が見えて、自分達の安全を守る装置は何もない。言われてみれば確かにちょっと怖い気もする。
「まぁこれだけの人数が滑ってるんだし力学的な計算に基づいて作ってるんだろうから大丈夫だろ」
「で、ですわよね。でも、ちょっと怖いので滑るとき掴んでいてもよろしいでしょうか?」
可愛いところもあるもんである。それくらいならお安い御用だと答え、自分らも滑り台のスタート地点に着く。
入口に座ると、下から既に水が結構な勢いで流れていて、手を放したらそのまま流されて下のプールまで一直線だろう。
「ほ、本当に大丈夫なんですわよね?信じていいんですわよね?」
小刻みにがたがた震えた有栖が俺の後ろからガッチリ腕を回してくる。背中に柔らかい感触があってそれ自体はとても嬉しいのだが何せ全力でおれのウエストを絞りあげてくるので割と痛い。
「どうぞ御滑り下さい。いってらっしゃいませー♪」
係りの人に背中を押され強制的に滑り出した。心の準備がまだできていなかったのか有栖が「ひっ、ひゃぁぁぁぁ!」と耳元で大声をあげて俺を絞り上げる手にさらに力がはいる。
それどころか、パニックを起こした有栖が足をバタつかせ始めた。
「お、おい、危ないからじっとしてろ!」
「空が、青いお空が…っ」
ダメだこいつ。完全にテンパってる。
何を思ったのか、突如有栖が俺の体を足も使って羽交い絞めにした後、うつ伏せに回転した。
何も自分を固定する物がない状況で空を見ながら滑っていくのがよほど怖かったのだろう。
だからといってうつ伏せになるとか何考えてるんだ。次にどっち向きのカーブが来るとか今どの辺だとか、そういう状況が何も入ってこない。こっちのほうがよほどこえぇよ!
有栖に文句を言いたくても、背後に有栖が覆いかぶさるような状態でうつ伏せになっているので俺は顔面が水の流れの中である。息が苦しい。なんとか少し顔をあげて息継ぎをしようとするが空気とともに水を吸い込んでしまいむせる。 そのまま激しい遠心力で体が予想もできない方向へと振り回されていく。
死ぬ、死んでしまう。ウォータースライダーで溺れ死ぬとかいう人生の結末はごめんだ。
なんとか俺も自分の体を捻り、うつ伏せ状態から脱することに成功するが、今度は有栖が俺の下敷きで水に顔をうずめてぐぼぐぼ言っている。
これはまずい。なんとか有栖を仰向けにしないと。そのためには俺が有栖の上に仰向けになってるわけにはいかない。やむを得ず体を回転させ、肘と膝だけをスライダーの底面に付けた状態でバランスを取る。急なカーブは結構怖い。
そしてなんとか有栖を仰向けに回転させるが、苦しかった事でさらにパニックを起こしたのか暴れて手足をバタバタ振り回してくる。
「おいこら、有栖!落ち着け!もうだいじょ…」
有栖が正気に戻るのと同時に悲劇がおきた。
仰向けになっている有栖の上に俺がうつ伏せに覆いかぶさった状態で、有栖が足をバタつかせたのである。その足は俺の当たってはいけない場所にクリーンヒットした。
とてもじゃないが女子には理解できない痛み。体制を維持する事も不可能になり有栖の上にそのまま崩れ落ちる。
「ひっ、どさくさに紛れて抱き着きついてくるなんてっ」
「ぐっ、仕方ないんだ…俺の、股間が…」
「こかっ!?けっ、けだものぉぉぉぉ!」
どこからそんな力が出てくるのだろう。したから思い切り有栖に突き上げられた俺は宙を舞った。
これは死んだかな…?
そう覚悟を決めた瞬間、頭からプールに着水した。
「だって、あれは急に乙姫さんがけだものに…」
「気にする必要ないわ。私でもきっと同じことしてたわ。もっと高い位置からね」
「おとちゃんがいくら丈夫でもさすがにちょっとヒヤっとしたんだよ…」
「まぁ大丈夫じゃろ。なかなか面白い見世物じゃった」
「…こいつも苦労してんだなぁ」
気が付くとそんな会話が耳に飛び込んできた。
どうやら俺は生きているらしい。スライダーの終わり際だった事と、ちゃんとプールの中に落ちた事が幸いしたようだ。
「でも人工呼吸がなかったらさすがのおとちゃんも危なかったんだよ」
なん、だ、と…?
「どうしますの?人工呼吸の事…」
「言わなくていいんじゃないかしら」
「そうだな。わざわざ言う必要もないだろう。助かったんだからそれでいいって」
良くない。
誰が俺に人工呼吸をしたのかとても気になります!
「どうでも良いが目を覚ましたようじゃぞ」
気が付くと俺はプールサイドに寝かされているらしい。その後は皆が心配してくれたし有栖も「咄嗟の事でしたので本当に申し訳ありませんわ」と謝ってくれたのだが…そんな事はどうでもいいんだ。
俺の知りたい事はもう誰一人として話題にする事は無かった。
意識がもう少し早く戻っていればと悔やんでも悔やみきれないが、こちらから聞くのは流石に勇気がいる。後で白雪にでも聞いてみたら教えてくれないだろうか。
皆で流れるプールで三周ほどのんびり流されてから波打つプールに移動した。
俺は少し疲れてしまったのでプールサイド(砂浜のようになっているのでその呼称が正しいのかは謎)に残る事にした。
飲み物を買っきて、はしゃぐ女子達を眺めながら一人座っていると、プールから咲耶ちゃんが上がってきた。
「う~ん、やっぱり若いってすげぇなあ。ちょっと疲れちまったよ」
「咲耶ちゃんは運転もしてきてるんだから疲れてもしょうがないって。それにまだ十分若いでしょ」
当時の年齢差から考えると咲耶ちゃんはまだ二十代半ばの筈。
「何か飲み物買ってきてあげようか?コーヒー好きだったよな」
「あ?気が利くな。でもそれでいいや」
隣に腰掛けながらさっと俺の手から飲み物を奪い、思い切りぐびっとあおる。
「うぐっ、ブラックコーヒー、だと…?」
そういえば咲耶ちゃんはコーヒーは好きだったがブラックは飲めないんだった。
しばらく咲耶ちゃんは「うぇ~」と呻いていたが、少し落ち着くとぼそりと呟く。
「おい、あの白雪ってのはいったい何者だ?」
一瞬ドキリとするが、ここはとぼけておいたほうがいいんだろうか。急に悪魔だとか言われても信じられないだろうし、そもそも咲耶ちゃんはまだ何かに巻き込まれたわけでもない。
「少なくともありゃ人間じゃねぇだろ?」
ちょっ、なんでそうなる?
「人間じゃないとか、いったいどういう意味だよ。ひどいって意味であいつは人間じゃねぇとかてめぇの血は何色だ的な話か?」
咲耶ちゃんは俺のコーヒーを飲もうとして、ブラックだった事を思い出し顔をしかめて匂いだけを嗅ぐ。
「そうじゃねーよ。知らないとは言わせないぞ?あいつ平然と壁抜けしやがった。あたしたちと別れた後にな、男子更衣室の壁にこう、すっと頭から入っていったんだよ。しかも体が半分くらい入ったところで完全に姿が消えやがった」
白雪の奴、なんで姿見えなくするより前にすり抜けを始めるんだよ。
「あー、夢でも見たんじゃ…」
咲耶ちゃんが恐ろしい眼でこちらを睨む。
「…ごめん。これもあいつの自業自得だから正直に言うけど、あいつ悪魔なんだよ。俺にとりいついてる」
咲耶ちゃんは驚くわけでもなく、疑っているようなそぶりも無く、ただ少し考えた後に「それを皆は?」と言った。
「今日ここにいる面子は知ってる。他の人には知られてないよ」
「ならお前はあたしを誘うべきじゃなかったな。まぁこんな面白い事に参加させてもらえたのは感謝してやるけど」
正直俺自体どこまであいつの正体を隠すべきなのか判断しかねている部分もある。白雪自体はあまり気にせずにほいほい力を使うし、バレたらバレた時、みたいな適当感が漂ってる。
そろそろ秘密を共有する相手も打ち止めにしておいたほうがいいと思うのだが…。
「それで?あいつが悪魔だって知っててみんな一緒に居るって言うのはどういう事だ?脅されてるとか恐れてる感じじゃねぇからさほど害がねーのか?」
まぁどっちかっていうと後者。と伝える。
「確かに白雪見てるとただ楽しみたいだけ、っていう感じだもんな。でも悪魔が取り付かれてるお前は本当になんとも無いのか?」
…うーん、どこまで話したものか。ぶっちゃけ無理難題を押し付けられてる事はみんなも知ってるが何をさせられてるかまでは目撃された場合以外話してない。学校の女子更衣室事件が有栖、今回の件が泡海に知られているがわざわざ全部を話したりはしていない。
何よりその辺を全部喋ると俺がどんどん変質者になっていく。
「あいつの食料調達を手伝わされてるだけだよ」
そのくらいに留めておく事にした。
「なるほどなー。どうせしょーもない悪戯とかを手伝わされてる感じだろ」
鋭い。
「大体そんな感じだよ」
咲耶ちゃんは俺の顔をじっと見つめ、「まぁお前が何してたってかまやしないが、ほどほどにしとけよ」と言った。
ほどほどにしておきたいのは山々であるがそれを決めるのは残念ながら俺ではないのだ。白雪に言って頂きたい。切実に。
波に揺られ疲れたのかほどなくしてみんながプールから上がってきた。
楽しかったと口々に言いながら飲み物を買い、しばらく談笑しているとピンポンパンポーンという音とともにアナウンスが流れる。
『場内へお越しのお客様にプールエリアでのイベントのご紹介です』
意味が無いとわかっていても皆が上空のスピーカーを見る。
これは一体どういう原理なんだろうか。そこから音が出ているだけでスピーカーなんか見てもよく聞こえるようになるわけでもないのについついやってしまう。
『この後、十五時三十分よりプールエリア特設ステージにて
「あら、彦星アルタって確かテレビで見た事がありますわ」
こういうのに一番疎いと思っていた有栖が真っ先に反応する。
「そのアルタとかいう輩は歌手か何かかのう?先ほどライブがどうとか言っておったが」
白雪の問にいち早く答えたのは鼻息を荒くした泡海だった。
「ひ、彦星アルタちゃんと言えば現役中学生ながら某有名アイドルグループに在籍し一番人気を不動のものにした後電撃卒業発表をしてすぐソロ活動に移り、そちらでも現在シングル十三枚を世に送り出しそのすべてがチャート一位、アルバムも二枚、もちろんチャート一位の伝説的天才アイドルなんです!ほ、ほかにも…ッ」
「あーあー、もういいのじゃ。よくわからんがなんとなく凄い奴なのはわかったのじゃ」
「よくわからんじゃダメです!アルちゃんの素晴らしさをきちんと理解してもらわなければッ!」
「人魚先輩、ちょっと黙ろ?」
「ハイ喜んでッ!」
ハイテンション状態の暴走泡海を一言で黙らせるハニーすげぇ。できる限り泡海と行動する時はハニーに一緒に居てほしい物である。
「んで、どーすんだ?せっかくだし見てくか?時間もあと二十分後なら着替えて集合でもいいだろうし」
咲耶ちゃんの一言と、泡海の強き希望により彦星アルタのライブを観戦する事が確定した。
のだが。
俺の心中は正直穏やかではなかった。いろいろと思い出してしまったのだ。あの時のあの少女が彦星アルタであるという事を。
どうりで顔を見たことがある筈だ。もともとアイドルとかに詳しく無いのですぐに気付く事が出来なかった。気付いていればもう少し長く見れるように立ち回ったものを…。
などと邪な考えを振り払いつつ、何故人気アイドルなんかが一般の更衣室で水着に着替えていたのかを考える。
普通専用のワゴンとかそういう車が用意されてその中で着替えてくるものじゃないのか?
何か事情があったんだろうが…もしかすると帽子とサングラス、マスクは変装用で、ライブ前にプールで少し遊ぶためだったのかもしれない。
その線が濃厚な気がした。
とにかく実際どうだったのかは考えてわかるような事ではないのでおとなしく更衣室で着替えていると、
「準備はよいか?」
再びロッカーから悪魔が生えていた。
ただ呼びに来ただけとは思えない。またか?さすがにペース早すぎやしないか?
「ちょっと確かめたい事がある。お主も気付いただろうがあの時の女がライブをするアイドルじゃろう?」
白雪も泡海がアルちゃんと呼んだ事で気付いたようだった。しかし、あの子がアルタだと何か問題があるのだろうか。
「とにかくこっちに来い。みんなにはお前が尋常ならざる腹痛で遅れるから先に行くように伝えておいた」
相変わらずそういう根回しは早いな。
言われるがままに白雪について行くと、ライブをする特設ステージの裏手側についた。
「これからやるライブとやらであの女と一緒にステージにあがる熊の着ぐるみがあってな」
それがどうした。なんとなく予想はつくが…
「とりあえず中に入る予定の男を昏倒させてトイレの個室に放り込んできた」
「馬鹿かてめぇ何してやがる!」
さすがに怒らないといけない場面だろう。なんの罪もない着ぐるみの中の人を昏倒させるとは…
俺が呆れていると、そんな事はお構いなしで話を進めてくる。
「お前はとにかくその着ぐるみに入ってステージに上がるのじゃ」
「どんな動きするのかしらねぇしすぐにバレるぞ」
「そんな事はどうでもいいわい。とにかくあの女と接触するのじゃ。できればキツいのがいい」
キツい接触ってなんだよ。
「そうじゃな…背後からあの女をぶん殴るとか蹴り飛ばすとか乳を揉むとかでいいんじゃが」
物騒すぎる!
「どれも犯罪じゃねぇか!」
「そこはほれ、今日いろいろあった役得の代償だと思って諦めろ。とにかく必要な事なのじゃ」
そうは言ってもいたいけな中学生を殴る蹴るはさすがにまずいだろ…
残る手段は一つしかなかった。別に最初からそれが良かった訳じゃないぞ。消去法で仕方なくそれしかなかったってだけだからな。
バタバタと人が動き回るステージ裏でこそこそと白雪の用意した熊の着ぐるみに入り込む。
どうやらサイリウム(ライブ会場で振る光る棒のような物)を振り回してパフォーマンスする予定だったらしく、モコモコした着ぐるみなのに手の平の部分だけは穴が開いていた。そこから手を出してサイリウムを持つのだろう。手の甲の方はフカフカの毛があるのでおそらく手を握ってしまえば客からは分かりづらいように出来ている。
これは…運がいいのか、悪いのか。
男としては運がいいのだろうが罪悪感的には悪い。まぁ穴が開いているものは仕方ないのだ。俺のせいじゃない。
ふと、眼鏡をかけたベリーショートの女性がこちらに近寄ってきた。
一瞬身構えてしまったが、ただ出番の確認をしに来ただけだったようだ。「予定通り二曲目のイントロが始まったらステージに上がってちょうだい」と、それだけ言うとすぐにどこかへ行ってしまった。他の担当の人たちにもそれぞれ声をかけて回っているようである。おそらくアルタのマネージャーかこのステージの責任者とかだろう。
「はーいみんなー♪元気してる~?」
「「「イェーイ!」」」
どうやらライブが始まるらしい。アルタの呼びかけに大勢の客が応える。その中にひと際大きな聞き覚えのある声があったような気がするが、俺は聖徳太子じゃないし大勢の中から知り合い(彼女)の声だけを聞き分けるなんてほどの愛も特技も持ち合わせていない。
「今日は数曲だけだけどみんなと一緒の時間ん思い切り楽しむから、みんなも楽しんんで行ってねー♪じゃあ一曲目いっくよ~♪」
聞き覚えのあるメロディーが流れ始める。彦星アルタの曲、という認識はなかったがいろんな店の中でかかっていた曲だった。そうか、これアルタの曲だったのか…。
確かCMなどにも使われていたように思う。記憶が定かではないが、歌詞はともかく俺でもメロディーを口ずさむ事くらいはできた。それだけ世に広まっているという証拠なのだろう。
「恋したあの人を~取られるくらいなら~いっそあの子をあたしに夢中にさせて~あの人の事忘れさせるの~♪」
よくよく聞いてみればなんて歌詞だ。高次元すぎて俺には素直に共感する事ができない。
観客はさらにヒートアップしているようで、合いの手のような大声が歌の各所で響き渡った。
「あの人の事を~忘れさせる筈だったのに…気付けば~あの人を忘れていたのは私の方だった~もう君しか見えないの~♪」
曲の終盤では歌詞がさらにもう一次元上に上がったようだ。
人気があるのも納得の歌唱力ではあるのだが、なんだか妙な違和感を感じる。
いや、難癖をつけようとしているわけではなく、何というか背筋のあたりに気持ち悪いものが駆け抜けていくような感覚。
「…やはりあの女…どうやら一曲終わったようじゃぞ。次が出番じゃ。しっかりやれよ」
いつになく神妙な顔つきの白雪に背中を押され、二曲目の前奏が始まると同時にステージに飛び出る。
二曲目は、先ほどのテンポのいい曲とはうってかわってコテコテのアイドルソングといった雰囲気だった。
飛び出したはいいもののどんな動きをするのかなどまったくもって分からないので怪しまれる前に一気に行動に移す事にした。
「薄、むら~さき~の、胡蝶蘭が~ひっ、ひゃぁぁぁぁぁっ!」
背後からそろりと近づき、うしろから羽交い絞めにする。
甲高い悲鳴が会場を駆け抜け、客も一瞬何が起こったのかわからなかったのか呆然と固まる。
背後から「もっとじゃ!やれ!」という白雪の声。もうどうなってもしらん。
思い切りアルタの胸を揉みしだく。
…が、何かがおかしい。これは、もしや…
「て、てめぇ…いい加減にしやがれ…」
アルタが俺の腕を逃れ、涙目になりながら凄まじい形相で睨んでくる。
「ぶっ殺す!」
しかし、反撃を覚悟していた俺に対して殺すという声は、アルタではなく観客席から飛んできた。間違いない、泡海の声である。
観客の誰よりも素早い反応。そして三発の銃弾が着ぐるみの首の部分と、心臓、そして下腹部を貫き、ゆっくりと崩れ落ちた。
「し、死ぬかと思った…」
無論俺は生きている。ステージに崩れ落ちたのは中身のいない着ぐるみだけだ。
事前に、本当にヤバそうな時は問答無用で俺をステージ裏に引き戻すように白雪に言っておいた。負債がどうとか言ってる場合じゃないと判断した際に限るが。
どうやら白雪が行動を起こさなかった場合ステージで転がっていたのは俺の死体だ。
「あの馬鹿者め…あいつが先に反応してしまっては意味がないのじゃ…」
銃声と、崩れ落ちた着ぐるみ、そして中身が消え失せて頭部がころころと転がったあたりで観客の悲鳴があがり、会場は大パニックになった。
おそらく泡海は人に見られるようなヘマはしないだろうしこの騒ぎに便乗して逃げるだろう。
会場には緊急アナウンスが流れ、結局その騒ぎでライブは中止になってしまった。
楽しみにしていた沢山の観客に申し訳が立たないが、繰り返し言おう、俺のせいじゃない。ほんと、うちの悪魔と、彼女が、すいません。
しかし俺にとって問題なのは、着ぐるみの中身が消えた事実を見た人間で、それが俺の(というか白雪の)しわざだと気付いてしまう人達がいる事である。
回りくどい言い方だが要はあいつらだ。俺がやったとバレてしまっているだろう。この後の事は出来る限り考えたくない。
観客がアナウンスに従ってプールエリアから避難し終わった頃、俺は白雪に今回の目的を確認した。
「結局お前は何がしたかったんだ?あれで何がわかったんだよ」
「…何も。邪魔が入ったからのう。ほんとに余計な事をしてくれたもんじゃ」
苦虫を噛み潰したような声で白雪が呻く。
こんな顔をするのは初めての事なので驚いたが、そんな事を考えてはいられない状況が俺に襲い掛かった。
「ちょっとアンタ。ツラ貸してもらえる?」
人気の無くなったステージ裏で俺に声をかけてきたのは、そう。彦星アルタその人であった。
「あ、アルタちゃんがこんな一観客にいったいなんの用…」
「とぼけんじゃないわよ。さっきの熊、アンタよね?」
「チ、チガウヨ」
なんでバレてんだよ!
顔面蒼白になりながら白雪を見やると、さっきまでの不機嫌さは消しとんだのか、ニヤリと悪魔的笑顔。
「まさかそっちから出てきてくれるとはのう…やはり間違いなさそうじゃ」
一体どういう事だ?と俺が頭を悩ませているとアルタが「そこの女が悪魔ね?」と耳を疑うようなセリフを放つ。
「な、なんでお前が…」
俺が疑問をぶつけると、アルタは「特別なのはアンタだけじゃないって事。それよりスタッフが私を探しに来る可能性があるから場所を変えるわよ」と言って歩き出した。
仕方がないので後をついていくと、例の多目的トイレに到着。
「この中で…話すのか?」
よくよく縁のある場所である。
「個室だからって変な気おこさないでよ?」
「こんなところに男と入ってるところを見られたらそれこそスキャンダルじゃねぇのか?」
ゴシップ雑誌にでかでかと乗るのは勘弁してもらいたい。
「大丈夫。見張りはいるから」
そう言ってアルタがトイレに入る。
「話とやらを聞いてやろうぞ。ほれ、早く入るのじゃ」
白雪も細かい事は気にしていないようだ。まともなのは俺だけか?…いや、やむを得ずとはいえ自分のやってる事を考えると俺もまともではないのかもしれない。
意を決してトイレに入る。
俺が着替えをしていた時には少しゴミが転がっていたのだが、それがなくなっているところを見ると職員の清掃が行き届いているのが分かる。
多目的トイレ内は結構な広さがあり、数人が入っても十分余裕があった。
「んで、お主がわらわに気付いたのは…憑いているからじゃな?」
「まーね。話が早くて助かるわ」
どういう事だろう。ついている?アルタにも、俺にとっての白雪のような人外が取り憑いているのか?
「わらわはずっと不思議な気配を感じていたのでな。もしやと思ったんじゃが当たりじゃったのう」
白雪の様子がおかしかったのは同類の気配を感じたからということか。
「そういう事。でも私についてんのはあんたみたいな悪魔じゃない」
「…天使が来ておるのか?」
天使?なにそれそんなのが居るなら俺も悪魔じゃなくて天使が良かったんですが。
「そうよ。糞ったれな天使様がね」
そう語るアルタの表情は、少なくとも喜びや誇りに満ちたものではなかった。
「毎日毎日善行を強要される身になってみなさいよ。私はただ毎日を悠々自適に引きこもってゲームやってたい普通の中学生なのに」
ファンが聞いたら泣くぞ。とくに俺の彼女もどきがな。
「ほう、それがアイドル活動とどう関係がある。あれが善行という事になるのかえ?」
「私が必死に考えた手っ取り早い方法なのよ」
アルタの声には心底面倒だという感情が満ち溢れていた。
「だから歌に力を乗せて拡散していたんじゃな」
…?
「それってどういう事だ?あの歌に何か特別な力があるっていうのか?」
もしそうならアイドルとしての八百長ともいえる行為であろう。
「何よ、悪い?私に取り憑いていい事をしなさい善行を積みなさい、人を幸せにして幸福エネルギーを集めなさいなんてふざけてるわ。選ぶ人間間違えてるのに気付いてほしいのにあの天然馬鹿はいつまでも私に纏わりついて…」
どうやらこの子も俺と同じく苦労しているらしい。でもよく考えたものだと思う。おそらく天使の力を行使して歌で人を魅了する。魅了された人間は幸せな気分になり幸福エネルギーとやらが発生する。
白雪と同じような原理であればそれはある意味永久機関だ。力を使う事で失われるエネルギー以上の幸福エネルギーが得られるのであれば日々プラスが積み上がっていく。
「さっきから聞いていればアルちゃんひどいです~。私悪者みたいになってませんかぁ~?」
トイレの壁からにょきっと女性が生えた。
もう慣れてしまって驚きも少ない。声に聞き覚えがあったのも驚きが少なかった要因の一つかもしれないが。
その声は更衣室に居た時にアルタを呼んでいたふわふわした声だ。
「はじめまして~わたし、天使のネムリって言います。気軽にネムって呼んで下さいね~♪」
ネムと自己紹介した天使は、髪の毛はピンク色でゆるふわ系の肩につくくらいのボブ。詳しい髪形はしらん。そんな知識はない。
よくファンタジー物や物語などで見るような白い天使服ではなく、こちらもピンク色のふんわりしたワンピースを着ていた。
何よりの特徴がその胸部である。
でかい。
「あ、あなたが悪魔さん?はじめまして~」
「…なんじゃ、調子が狂うのう。しっかし同類とこの世で対面する日が来ようとは…」
これはとてもレアケースなのじゃと白雪は言う。
「とにかく、私がなんやかんやあってこの馬鹿天使と契約しちゃったせいで毎日大変なのよ。アイドル活動してれば幸福エネルギーに困る事はないけど忙しすぎてゲームも出来ない漫画もアニメも見る暇がないの!本末転倒よ!」
いや、それを俺に言われてもいったいどうしろと…
「そこでよ、今日の事は水に流してあげるからその悪魔の力で私とこの馬鹿天使との契約を無かった事にしなさい」
そういう事か。契約は自ら破棄することは出来ない。悪魔、この場合天使もだが、あちらが契約を解除しようとするまでは続いてしまうのだ。
仮に超常の力を使う者が二人存在した場合、もう片方の契約を打ち消す事は可能なのだろうか。だったらお互いが打ち消しあう事で二人とも自由になる事が可能かもしれない。
「またそんな意地悪な事いって~。アルちゃんはもう少し善行を積んで人々に貢献しようっていう気持ちを持ったほうが~」
「うっさい!」
コントか何かを見てる気分になってきた。もしかして他人から見た俺と白雪はこんな風に映っているのだろうか…。少しショックである。
「ふむ。要するにこいつに頼んでわらわの力を使い、天使との契約を破棄させたい。そういう事じゃな。残念だが無理じゃ」
「なんでよ?天使も悪魔も同じようなもんでしょ?なんとかならないの?」
同じような物という認識でいいのだろうか。あくまでもこちらは悪魔で、そちらは神の使いと言われる天使様である。
「まぁ天使も悪魔も同じじゃが…」
同じなの?全然別物っぽいけど…でも確かに契約だのエネルギーが必要だのいろいろと共通点はある。
「少し講義をしてやろう。わらわ達は悪魔でもあり、同時に天使でもあるのじゃ。わらわ達の世界は魔界であり天界でもある」
ちょっと意味が解らない。だったら白雪は天使でネムさんは悪魔か?
「さすがに白雪が天使っていうのは…ぐえっ」
そこまで言ったところで白雪に肘打ちをくらい続きをいう事は出来なかった。
「ともかく、あちらの世界と仮に呼ぶ事にするのじゃ。あちらの世界には物質は存在しない。ただ陽の気と陰の気が漂っているだけじゃ。こちらの世界の術士がどのような方法で召喚に至る知識を手に入れたのかまではしらんが、その手段や方法によって吸い出される成分が違うのじゃろう。わらわはそう認識している」
吸い出されて召喚される成分の違いで天使か悪魔か決まるという事なのだろうか。
「あちらの世界には人々から発せられる気が充満しているのじゃ。勿論自我も持っていない。抽出される時に初めて形を持ち、その際の成分次第で性格が変わるんじゃないかと思うんじゃ。おそらくとしか言えんがな」
結局のところ天使も悪魔も紙一重で、呼ぶ側がどんな手段でどんな物を抽出するか次第。
意外と適当なものである。
「勿論抽出される成分次第で能力の差や特徴なども変わってくるじゃろう。わらわは面白い事をしたい。楽しく過ごしたい。だからこその悪魔なのじゃ。どうせそこのネムとやらは人の陽の気の塊なんじゃろう。頭もお花畑っぽいしの」
「お花畑は好きですよ~♪幸せの象徴みたいなものですし~」
あぁ。なんとなくわかる気がする。
「あんたらが何者かなんてこっちはどうでもいいのよ。契約破棄が出来るか出来ないか教えて!」
「正直な話、やろうと思えば多分出来る」
「じゃあやってよ!」
「待て待て。しかしこの悪魔、天使との契約というのは非常に重いのじゃ。何せ命の共有のようなものじゃからのう。無理やり切断するほどのエネルギーを作り出そうとすればうちの乙姫は一瞬で干からびるじゃろう」
…おいおい、一瞬で命もっていかれるレベルの話なのか?さすがにそれはごめんだ。
「別にこんな乳揉み魔が死んだって私何も困らない!」
ひどい!
「アルちゃん、流石にそれは酷いですぅ~。それに、人の命が失われるような事わたしが見過ごす訳ないですよぉ~?」
ちょっと待てよ。負債しかない俺には出来なくても、幸福エネルギーとやらをしこたま発生させ続けているアルタには出来るんじゃないのか?
「ネムさん、でいいんですよね?ネムさんは俺と白雪との契約を破棄させる事って出来るんですか?それだけのストックはありますか?」
「何一人で逃げようとしてんのよ!」
アルタがもの凄い剣幕で俺を怒鳴りつける。あまり大声出すと外に聞こえるぞ。あくまでも確認の為に聞くだけだ。
「う~ん、多分ですけどぉ~出来ると思います~♪」
「お主、わらわを切り捨てるつもりか?」
「別に契約が切れたってすぐあっちに帰る必要はないだろ?ほかに宿主やりたい奴もいるかもだしさ」
「でもぉ~あまり気は進みませんねぇ~」
ネムさんは唇に指を当てながら首をかしげつつそう言った。
「出来る出来ないというよりは貴方個人の為に人々から集めた幸福エネルギーを使うっていうのがぁ~どうかなぁ~って」
「ほらみなさい!アンタだけ一人で助かろうったってそうはいかないわよ!私だって絶対そんな命令ネムにしないから!私を開放するまでは一緒に地獄を見てもらうわ!」
そんな宣言嫌だ。
アルタは「契約の事はしょうがないわ」と、それについては諦めたようだが…どうやら似た境遇故に目を付けられてしまったらしい。
「お互い、協力関係を築いていきましょう?嫌なら今日の事アンタの仕業だってバラす」
…そこまで言われてしまってはこちらもカードを切るしかあるまい。
「協力関係っていうのは対等な関係だよな?もし一方的な物を考えてるなら…」
「ふん、だったらなんだっていうのよ。交渉なんて出来る立場だと思ってんの?」
やはり一方的に便利な使い方をされるところだったようだ。しかしそうはいかない。俺は一度深呼吸して、切り札を口にする。
「偽乳をバラすぞ」
「なっ…」
ステージで抱き着いた時にもしやと思ったが、引きつるアルタの顔を見る限りどうも図星だったらしい。
「偽乳とはなんじゃ?」
「紳士としてその物言いは流石にどうかと思いますぅ~」
「あ、アンタ…そんな事したらどうなるかわかってるんでしょうね?」
アルタは目に涙を浮かべながらこちらを親の仇のような眼で睨んできた。
「中学生の胸揉んどいて…最低だわアンタ」
「パッド盛りすぎなんだよお前!」
売り言葉に買い言葉という奴である。
このお互いの秘密があれば対等な関係を保っていけることだろう。
「偽乳とは偽物の乳の事かなるほどのう。確かに更衣室で見たときはもう少し小さかった気がしたのう」
ば、馬鹿余計な事を言うな。
「…更衣室?悪魔の…しらゆき、だっけ?私が着替えてるときにあそこにいたの?」
アルタが不思議そうな顔で白雪を見つめる。
繰り返す。余計な事は言うな。
白雪は少し考えた後、俺の顔をじっと見つめ、俺の言いたい事を理解したように頷くと…ニヤリと笑った。
「おお勿論生着替えを拝ませてもらったぞ。こいつも一緒じゃったがの」
言いやがった!こいつその方が面白くなるだろうとかそんな考えに違いない。白雪のそういう今が楽しければいいみたいなところは後で説教が必要だ。
そして今の俺に必要なのは何だ?どうしたらいい。
みるみる内に顔を真っ赤にして鬼の形相になっていくアルタに危機を覚えつつも出来る限りクールに考える。
よし、逃げよう。
俺はすぐさま体を半回転させ背後の扉に手を伸ばした。
横スライド式の扉の取っ手に手が届いた時、外から声が聞こえた。
どうしていつもこうなる?俺が何かしたのか?…したのか。
「なんだかこのあたりから乙姫さんの声がした気がしますわ」
「おとちゃんまだお腹痛いのかなぁ」
「あんな人放っておいていいんじゃないかしら?」
「さっさと合流してうまいもんでも食いにいこーぜ腹減ったよ」
今出るわけには行かない。
何故だかこのタイミングで俺を探しに来たご一行が扉の外にいる。間違いない。
今出て行ったら皆に誤解されるだけではなく泡海に殺される。
「アンタ逃げるつもり?」
そして背後から冷たく冷え切った声。怒りを通り越して冷酷さが滲み出ている。
「ま、まて。逃げないから話をきっ」
どごっ!
俺が言葉を言い終える前に、勢いよくジャンプしてきたアルタの靴底が俺の顔面にめり込んだ。
「殺す!変態破廉恥痴漢覗き魔ぁー!」
いくら体重が軽いであろうアルタでも、勢いをつけた飛び蹴りは相当の威力であり、俺も後ろに吹き飛ぶ。
二人分の体重を多目的トイレのドアは受け止めることが出来なかった。
アルタのドロップキックによりドアがはじけ飛び、そのまま二人ともゴロゴロとトイレの外に転がり出た。
「ぐあっ…お、落ち着けアルタ!今それどころじゃ…」
「うるさい煩い五月蠅い!乳を揉んだのはその、アレ越しだったからまぁ許してやろうかとも思ったけど女装してまで着替え覗いてやがったのは絶対許さねぇ!」
アルタが俺の上に馬乗りになって殴ってくる。
威力は大した事ないがマウントを取られた状態でうまく身動きが取れない。
耳元に、ぼちゃっという音がして顔に冷たい雫がかかる。
「い、いいいいいったい、これはどういう事ですの?アルタさんが乙姫さんに、え?乙姫さんが女装?着替え、覗き、乳揉み…?トイレに二人で何を…?」
いつの間にかみんな勢ぞろいで俺たちの周りを取り囲んでいた。
先ほどの雫はどうやら有栖が手に持っていた飲み物を落としたらしい。
有栖が頭を抱えて崩れ落ちる。
それを咲耶ちゃんが「おっと」と支え、可哀そうな人を見るように言う。
「お前…いくら性に目覚めてもしょうがない年でもやっていい事と悪い事くらいあるだろ…」
頼むから言い訳させて!そんなめで見ないでー!
「…やっぱりあの熊は貴方だったのね。あの時は気が動転してつい撃ってしまったけれど…改めて殺す事にするわ」
頼むから言い訳をさせろ!
俺の望みは叶わない。声が出ない。なぜって?アルタが俺の首を絞めてるからさ。死ぬ。
「おとちゃん、だいたい事情は分かるつもりだけど…今の状況はちょっと擁護できないんだよ…。ごめん」
見捨てられた、ひどい!
ハニーだけは俺の味方だと思っていたのに…。
「あらあらダメですよアルちゃん。その人死んじゃいます~」
「殺す気でやってんのよ!」
「じゃあしょうがないですね~」
しょうがなくねぇよネムさん!あんたも天使ならこの状況をなんとか…
「そのくらいにしとくのじゃちっこいの」
白雪がアルタの首根っこを掴んで俺から引きはがした。
ところまでは覚えている。
俺はしばらく泡を吹いて気を失っていたらしい。
今日はずっとこんな事ばかりのようなきがする…。
その後どうなったかと言えば、俺を殺そうとするアルタに泡海が便乗して私も手伝いますアルちゃんと初めての共同作業ハァハァみたいな事になっていたのをみんなで止めてくれたらしい。
俺が無事にこの目を開けることができたのは友情や愛情のおかげなのか、それともただ人殺しはまずいというだけの人間的良心からなのか…。考えると涙がでそうになる。
そして意識を取り戻した俺は気が付いたら連れてこられていた高級そうな個室のある店でひたすらみんなに頭を下げていた。
部屋の中央に長方形のテーブルがあり、その周りを皆が取り囲む。俺は俗に言うお誕生日席で何度も額を畳に擦り付けるのだった。
どうやらここはまだ園内らしい。てっきり高級料亭にでも移動したのかと思ったが、咲耶ちゃんが言うには腹が減ったから適当に園内の飲食店に入ったとの事。
園内には確かに飲食店もいくつかあったがこんな和風で高価そうなお店もあったのか。
「なんていうか本当にすいませんでした!」
もうそれしか言えない。有栖はまだぶつぶつと「覗き、痴漢…」などと呟き、泡海は感情を押し殺した空虚な瞳で俺を蔑み、ハニーと咲耶ちゃんは「師匠これ美味しいんだよ」「師匠ゆーなうめぇ!」などと俺をシカトで食事を楽しんでいる。白雪は顔を真っ赤にして熱燗をぐびぐび飲んでいる。
誰も止めようとしないのは悪魔なのを知っているからだろう。年齢など有って無いようなものだ。
そして、何故かこの場にアルタとネムも来ていた。
アルタは涙目でこちらを睨み、今にも掴みかかってきそうだが後ろからネムに羽交い絞めにされて頭をいいこいいこされている。
結局俺のやった事がすべて全員に暴露されてしまい、一から百まですべて説明を求められた。
有栖は更衣室でぶつかったのが俺だと知ってからずっと俯いてぶつぶつ囁きマシーンと化している。
「まぁおとひゃんのじょうひょうもわはってはげてもいいんひゃない?ひょーがないことはっへば」
と口いっぱいに料理を詰め込んんだハニーが助け舟を出してくれたおかげで一応は皆許してくれたが、有栖が囁きマシーンから人間に戻るのはしばらく時間を要した。
泡海は意外にもあっさりと許してくれた。もとより俺のやる事なんかにさほど興味はないらしい。アルタにした事だけはネチネチと殺意の籠った目で口にするが、それ以上にアルタと接点を持てた事を感謝された。
咲耶ちゃんはどうにも何を考えているか分からない。「つはまらないへーどひなー」とハニーと同じく料理をもふもふしながら言うだけだった。
「覚えときなさいよ、私は、私だけはアンタの事絶対許さないんだから」
「はいよーしよーしなでなで~♪」
「むぐぅ~」
アルタとネムさんは相変わらずだがなんとかこの場も治まり、皆でハニーと咲耶ちゃんが食い散らかした残りをつまむ。
高級な料理なのはわかるしお高いんだろうけれど、俺にはもう料理の味なんかまったくわからなかった。
ただ、俺の焦燥、憔悴を心行くまで楽しみ熱燗をしこたま飲んだ白雪だけがけたけたと笑いながら愉快そうにいつまでも笑っていた。
こんな、不幸ともとれる幸せが、いつまでも続けばよかったのにと後になって思い知る事になるのだが、この時の俺はただただ自身の身に降りかかった災厄にげんなりとうなだれ、こんな最悪な時間が早く過ぎてなくなってしまえなどと思っていた。
愚かにも、そう思ってしまったのだ。
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