第31話 揺れる想い
揺れる想い
二級自動車整備士の資格試験が終わり、僕に押し寄せて来たのは、途方もなく大きな虚無感だった。
職業訓練生に勉強や実務を教えるのは、基本的に技官の仕事だと言うのに、いつのまにか作業中でさえ僕の周りに訓練生が集まり、ブレーキや足回り、果てはパワーステアリングやターボチャージャーなどの構造や故障診断の方法を説明する機会も多かった。
それが…整備士の資格試験が終わると同時に、僕の周りから潮が引くように人が居なくなった。
僕自身、二級整備士の試験勉強に没頭していたのが、試験が終わると何もする事が無くなり、当然のように余暇時間を持て余すように成ってしまった。
そうなれば、またぞろ翠への不平不満が頭の中を支配する。
翠には、二級整備士の資格にはどうやら合格しているだろう。尤も、4月の合格発表を待たなければ確かな事は言えないが…と言う内容の手紙だけはどうにか書いて送った。
しかし、その手紙は実に呆気ない物で、受験までの苦労や、その苦労が報われたであろう喜びなどの感情を書き込む事は出来なかった。
共に喜びを分かち合えない相手に、自分の喜びや興奮をぶつけて見た所で、虚しいだけでしか無い。
それでも、翠に試験の合格を伝えたのは、僕が頑張った事のご褒美として、何らかのアクションが有るのでは無いかと言う一縷の望みが有ったからに他ならない。
そうすれば、僕だって再び素直な気持ちになって、翠や翔太と共に歩む将来の夢や希望を持つ事だって出来たはずなのだ。
不貞腐れた気持ちで毎日を過ごし、刑務所と言う場所柄、時間だけは有り余っている環境で、一筋縄では行かない輩ばかりが集まって居ると成れば、角を付き合わせて話す内容は悪事の事ばかり。
全ての者がそうだとは言わないが、刑務所は反省をする場所なんかでは無い。
覚醒剤の常習者なら、幾人もの売人と懇意になり、今までよりも簡単に、そして安く薬物を買える道を付けて社会に帰っていく。
場合によっては若い衆となり、末端の消費者だった者が出所後は売り子に転じる奴だって当たり前にある話しなのだ。
泥棒などはもっと酷い。
自分が目星を付けて居た盗みのやり易い場所を泥棒同士で情報交換し、金庫を開けるには何処のメーカーのどんな道具が良いとか、自分が考案したサムターン回しの道具の設計図を描いて配ったり、得意満面で新たな犯罪の種を植え付けていくのだ。
そんな連中を法の下に一まとめに集めた所で、考えることは自分はどんなミスをして捕まったのかの分析と、次はどうしたら捕まらずに済むのかの研究ばかり。
例えば無銭飲食や迷惑防止条例、所謂チカンで刑務所に超短期間収容されただけの素人が、刑務所に入ったばかりに一人前の犯罪者となって社会復帰して行く。
それこそが刑務所の実態なのだ。
4月…今年も新しい訓練生がまとめて入って来た。
鼻持ちならないほど嫌いだった小型建設機械科の菅野が元の工場に戻り、僕の部屋には自動車整備科の今野と言うシャブ中丸出しの男と、園田と言うオレオレ詐偽の男が入り、前年度の自動車整備科訓練生だった松崎を加え4名部屋と成った。
シャブ中の今野は、これで良く職業訓練に参加出来たな…と思えるほど行動に落ち着きがなく、話の内容も覚醒剤の事ばかりで、更生の意思などまったく感じさせない男だった。
こう言う輩は放って置いても何らかの問題を犯し、担当が摘まみ上げるか誰かと揉めて消える運命にある。
関わらないのが一番良い。
もう一人のオレオレ詐偽で来た園田と言う男が面白かった。
実は現在の刑務所生活の中で、オレオふレ詐偽で捕まって来る奴が、同じ収容者として一番の頭痛の種である。
何故なら、この物語の中でも書いた記憶が有るが、刑務所の中は基本、ヤクザの常識が人間関係の根本と成って居る場合が常で有るが、ことオレオレ詐欺の連中と来たら、部屋住みと言うヤクザの基本原理で有る集団生活を経験した事のない、ちょっと小利口な一般人が、ゲーム感覚で人を騙して刑務所に送られてきた様な物で、なんの協調性も無く、自分本意なことこの上ない。
始末の悪い事に金だけはたんまりと持っている為、周りからもチヤホヤとされ、勘違いが甚だしい。
何時もなら敢えて遠去けたい連中では有るが、園田にはその鼻に付く様な生意気さが無かった。
その上、園田のくれた情報は、僕に新たな決意を固めさせた。
「五十嵐さん、リレーアタックって知ってますか?」
初めて聞くキーワードだった。
「知らないな…」
「今、娑婆でちょっと出始めてるんですけど、レクサスなんかも動かせるんですよ」
つまり盗めると言うことだ。
「マジかよ、コンピューターとかで?」
「そうじゃなくて、簡単な電波の増幅装置なんですけど…」
園田が話した内容はこうだ…。
今の車は、殆どが例外なくインテリジェントキーを採用している。
車を運転する人なら分かると思うが、インテリジェントキーはポケットやカバンに入れているだけで、ドアの開閉やエンジンのスタートが出来る。
それはつまり、インテリジェントキーからは常に微弱な電波が発信されており、そのキーに車が反応するからに他ならない。
その微弱な電波を拾って増幅させる機械が出回っていると言う。
例えばコンビニの前で誰かが高級車を停める。
電波の増幅装置を持った人間が、何食わぬ顔でその誰かの隣に立ち、インテリジェントキーの電波を拾う。
その増幅装置が発する電波の届く範囲に、別の誰かが更に増幅装置を持って立っている。
そしてまた次の増幅装置へ、次の増幅装置へと電波を明け渡していく。
つまり電波のリレーだ。
そのリレーされた電波はやがて車のある場所へと辿り着き、車のエンジンをスタートさせる事が出来ると言うのだ。
もっと言えば、車の鍵などどこの家でも玄関に置いてある事が多い。
夜中…玄関の前に立ち、電波をリレーし、ガレージの車を盗み出すなんて事は造作もないだろう。
電波など目に見えないだけに、悪意のある人間が横に立ち、電波を盗んで行ったとしても気が付かないのは当たり前の事だ。
その増幅装置が有れば、今までOBDⅡを介しイモビライザーをカットしていた時よりはるかに簡単に車を盗み出す事が出来る。
「そのリレーアタックとやらの機械はどうやったら手に入る?」
翠との将来に希望の持てなくなった今、出所後はもう一度派手に遊び回り、羽目を外してやろうと考え始めている僕は、園田からもっと詳しい情報を聞き出したくなった。
「自分、その機械もってるんですよね」
「だけど、園田くんが出て来る頃には、また対策が入って出来なくなってるんじゃない?」
犯罪に対する対策はいたちごっこだ。
今日出来た事が明日にはどうにもならない事も多い。
このまま問題を起こさなければ、年内には仮出所が許させる僕と、まだ残刑が四年も残っている園田とでは、今できる犯罪の有効な手口を伝授され、その機械を持っていると言われた所で、なんの足しにもならないのだ。
「自分が使ってた若いのがまだ娑婆に居ますから、そいつの連絡先を教えますよ。そいつに言えばリレーアタックの機械を隠してる所も分かりますから」
「値段は?」
「金なんかいいですよ。どうせ出所まで大事に持ってたってゴミに成るだけなんですから」
なんていい奴なんだろう…。
「その代わり、時々手紙下さい。自分、五十嵐さんとは娑婆で付き合いして欲しいと思ってるんで」
それはこちらだって望む所だ。
遊ぶ金に潤沢な詐欺グループの一員だった園田と、娑婆で良い付き合いが出来るなら、新たな人間関係の中で美味しい話が転がり込んでくる可能性も少なくはない。
「そんなのはお安い御用だよ。必ず手紙を書くから、読みたい本なんか有れば遠慮しないで言って来てくれよ」
刑務所の中で、ちょっとでも仲が良くなれば必ず出る会話…。
「本を送ります…」しかし、その約束が守られる事はあまり無い。
「自分、五十嵐さんとは本当に娑婆で会いたいから、本とか何か送るとかの約束はしたく有りません」
「そうか…約束守れなかったら、こっちが会いづらく成るもんな…」
「娑婆に出れば何が有るか分かりませんからね」
「まったくだ」
僕は園田の言う若い衆の連絡先を教えて貰い、リレーアタックの装置を貰い受ける約束をした。
それはつまり…出所後、大沢社長の元で真面目に働こうと言う気持ちも無くしていたと言う事でも有った。
日々、園田との関係が深まる中で、僕の翠への不満も少しずつ薄れていった。
僕は僕、翠は翠、別々の道を歩むなら、僕は自分の好きなように生きて行く覚悟を持ち始めて居たから…。
「五十嵐ぃ、担当台!」
古山のオヤジが担当台の上から僕の名前を呼んだ。
僕は自分の役席で手を挙げ、担当台へ移動する許可を貰い、古山のオヤジの前に移動した。
「566番、五十嵐来ました」
「面会だ、準備しろ」
もしや翠が…とはもう思わない。
3ヶ月に一度のペースで大沢社長が面会に来てくれている。
正月が明けて直ぐに一度会いに来てくれていたので、そろそろ来る頃だな…とは思っていた所だった。
大沢社長との面会を気にしていた理由…。
それは大沢社長に大切な話しが有ったから。
これまで身元引き受け人としてお願いし、大沢社長も仮釈放の受け入れを積極的に準備してくれていたが、翠との関係が拗れ、出所後真面目にやる気が無くなった僕が、何時迄も大沢社長の好意に甘えている訳には行かないと考え始めていた。
僕の刑期の終了日は来年の1月19日…このまま問題を起こさなければ2、3ヶ月の仮釈放は貰えるかもしれない。
その2、3ヶ月の為に、真面目に働く気のない事を隠し、身元引き受け人を続けて貰うのは、大沢社長を利用しているようで、尻の収まりが悪い椅子の上に座っているような居心地の悪さを感じ始めていた。
今日の面会で身元引き受け人を取り下げる事を、そして満期で出所する事を、大沢社長に話すつもりだった。
「よう、お前二級の試験に合格したらしいな」
面会室に入るや否や、開口一番に大沢社長が言った。
大沢社長には4月の合格発表を待ち、確定した事を伝えようと思っていたので、合否の事はまだ手紙には書いていない。
「あっ、まだ多分ですけど」
僕は訝しさを顔に貼り付け、どうにかそれだけの返事を返した。
「いやいや、翠ちゃんが大変な喜びようでよ、電話で1時間も長話に付き合わされたよ」
「翠が…?」
「おうよ、やっぱり健二は普通とは違うってよ、あの人は本当は刑務所に入るような人では無いんだって、今度こそ真面目にやるはずだから呉々も宜しく頼むって、まあ、よっぽど嬉しかったんだろうな」
「み、翠が…ですか…?」
俄かには信じ難い話し…。
「なんだ…翠ちゃん、まだ連絡無いのか?」
「何一つ」
大沢社長の話しに僕は混乱するばかりで、翠が一体どうしたいのかが益々解らなく成るばかりだ。
「まあ、こんな事言っちゃダメなんだろうけどよ、国民性の違いって事も有るんじゃねぇか?」
大沢社長にしては珍しく差別的な事を言い出した。
「それは如何ですかね。翠と付き合って10年以上経ちますけど、一度だった翠を韓国人だから…なんて意識した事はありませんよ。それに翠は日本で生まれて日本で育ってるんですから」
僕は少しだけ憤慨した物言いだ。
「だとしても学校教育はあちらさんなんだろ?」
「まあ、確かに高校は韓国学校に行ってたらしいけど、だからって翠が韓国人だから自分の事を冷たくあしらってるってのはちょっと違いませんか?」
大沢社長も腕組みをしたまま黙り込んでしまった。
そして…。
「お前さん
と言った。
「ファビョンですか?」
まったく聞いたことが無かった。
「火の病って書くんだけどよ、これが殆どの韓国や朝鮮の人に先天的に有る病気だって言われてるんだよ。アメリカじゃあファイヤーシンドロームなんて名前で、偉い学者さんが論文も出してるらしいぞ」
「なんで社長がそんな事知ってるんですか」
当然の疑問だ。
「いやな、うちの奴が韓流ブームとやらでヨン様ヨン様っていちいち頭に来た時があってよ」
僕は思わず吹き出した。
「そう言えば有りましたね、そんな事」
「そうだよ、お前だって覚えてんだろうが」
「社長の誕生日に奥さん韓国に行っちゃって」
「それだよ、そんでその時な、韓国人ってのはどんな連中だと思って調べてみたんだよ」
「なるほど…それで火病ですか?」
大沢社長は大きく頷き「真っ先に出て来たのがな」と言った。
「で、それはどんな病気なんですか?」
「俺も学者じゃ無いから上手く説明出来ないけどな、簡単に言えばヒステリーの強烈な奴らしいよ」
「ヒステリーですか?」
「なんて言うかな…最近の韓国の国際事情をみても韓国の人ってのはよ、なんつうかよ…分かんだろ」
大沢社長の言わんとしている事はよく分かる。
「それに翠ちゃんだって年頃から言って更年期が始まっても不思議じゃ無い頃じゃねぇか?」
「そうかも知れませんけど…」
「だとしたら、お前が放っとかれたって不思議な話しじゃないんじゃ無いか」
「まあ…」
「うちの奴が更年期の時はよ、茶の間で屁も放れないくらいギスギスしてたもんだったからな」
「そうだったんですか…」
釈然としない気持ちのまま、僕はそう返事をするしか無かった。
結局その日の面会で、僕は大沢社長に身元引き受け人の取り下げをする件を話す事は出来なかった。
「如何すりゃ良いんだよ」
思わず僕は呟いた。
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