第24話 待ち侘びた手紙
待ち侘びた手紙
就寝時間が過ぎ、とっくに減灯と成っていると言うのに、僕は全く眠れそうに無かった。
目を瞑り、何度寝返りを打っても翠の事が頭から離れない。
何故葵さんが死んでしまったのか、その理由だけでも知りたいと、切実な思いで翠に手紙を書いてから既に一月以上は過ぎている。
同じ日、翠と度々話をしている親友の吉川和也に、翠の内心を感じたままに教えて欲しいと書いた手紙の返事も、まだ来ていない。
確かに社会にいる人間は毎日の暮らしに忙しいだろう。
更に言えば、電話と言うコミュニケーションツールに慣れてしまっている人間が、手紙なんていうまどろっこしい物を、そう頻繁に書いてくれるとも思えない。
だとしてもそれは平素の事、葵さんの死に直面し、心を痛めているのは僕だって同じなのだ。
手紙が無理なら電報と言う手段だって有る筈だ。
そう思えば、翠にしてももう少し僕の気持ちだって考えてくれても良さそうな物ではないだろうか…。
吉川和也にしてもそうだ。
幾ら刑務所に入った経験が無いからと言って、恋に悩む男の気持ちってやつを、少しくらい理解してくれても良い筈…。
情報量の少ない刑務所の中にいて、悶々としているこちら側としては、思い通りに動いてはくれない二人を、責めるなと言っても無理な相談だった。
その一方で、葵さんの死を受け入れる事が出来ず、一人ソファーの上で呆然と宙空を見つめる翠の姿が脳裏に浮かんで来る。
ふっくらとしていた頰はこけ、眼の下にはクマを作り、化粧っ気のない顔で毎日泣き暮らして居るのでは無いだろうか…。
そう思うと、翠に対し取り返すことの出来ない悲しみを与えてしまったのでは無いかと切ない気持ちが込み上げて来る。
廊下を夜勤担当が巡回の為に歩き回っている。
その足音や衣摺れの音さえ、思考をフル回転で巡らせている僕の耳には煩く聞こえていた。
午前中の休憩時間、担当が食堂に入って来るのを僕は毎日ソワソワした気持ちで待っていた。
もし来信が有るとすれば、その時間に名前を呼ばれ受領の為の指印を押すからだ。
翠と吉川和也に手紙を出してから一月半が過ぎた頃、やっと僕の名前が食堂で呼ばれた。
この時、手紙が一通来て居ると言う事が分かるだけで、それが誰からなのかを知るのは、仕事を終え舎房に帰ってからだ。
今度こそ翠からの手紙だろうと、作業中も僕の期待は膨らむばかりだ。
しかし環房後、僕に手渡された手紙は又しても吉川和也からの便りだった。
健二へ
府中刑務所の暮らしにもそろそろ慣れて来た頃だろうか。
先日、翠さんがそこそこの段差を乗り越えたとかで、車のホイールがダメに成ったから何とかして欲しいと連絡があり、横浜の実家までタイヤとホイールを届けて来たよ。
何をどうしたのかは詳しく聞かなかったけど、18インチのホイールがめくれ上がってたから、まあ本人が言う通り、そこそこの段差を乗り越えたんだろうな。(笑)
近頃は翔太君を連れて、スーパー銭湯にも行ってるようで「今度、みんなで行きましょう」なんて言ってたよ。
ところで…バイクを買ったんだ。
カワサキのアメリカンで650だけど、力が有って中々面白いバイクだぞ。
今はどノーマルだから、少し手を入れてドレスアップしたら写真を送るよ。
色々悩みも有るんだろうけど、そんな所で悩んでいても、多分答えなんか出ないんだろうから、悩み過ぎないように。
じゃあまたな。
そうじゃ無いんだよ…僕が欲しいのはこんな内容の手紙じゃ無いんだ。
思わず口に出そうになるが、そんな言葉を漏らせば、また李あたりがどんなツッコミを入れてくるか分からない。
一人で思いを巡らせたい時だって有るのだ。
気を抜けば零れ落ちそうな言葉を飲み込んで、僕はもう一度吉川和也からの手紙を初めから読み返した。
翠は精神的に辛い何かがあると、何故か車をぶつけてしまう。
深刻な事故を起こした事はないが、バンパーをガードレールに擦って来たり、スーパーの駐車場の柱にドアをぶつけてへこませて来たり、兎に角注意力が散漫になるのだ。
今回も葵さんの死に直面し、穏やかで居られなかった事を考えれば、縁石にでも乗り上げホイールをダメにしてしまう位、有っても不思議では無かった。
そう思えば、今の翠の心境が手に取るように分かり、不憫な思いばかりが込み上げてくる。
しかし吉川の手紙によれば、温泉好きの翠が翔太を連れ、度々スーパー銭湯に出掛けているらしい。
それだけの精神的余裕が生まれたのなら、それは素直に喜ぶべきだとも思った。
ならば尚更、葵さんが何故死んでしまったのか、その説明くらいは連絡を寄越しても良いのでは無いだろうか。
前回僕が翠に送った手紙には、僕の葵さんに対する心情というのもちゃんと書き記してあった筈だ。
結婚式や誕生日なら後で幾らだってやり直しはきくし、遅れてお祝いだって届ける事が出来る。
しかし、人の死はやり直しが聞かないのだ。
僕は10年もの間、義理の妹と思いながら付き合って来た葵さんの死に、立ち会う事も、その葬式にすら出る事が叶わなかった。
それだけに…僕は葵さんの死の真相に拘っている。
だからこそ、精神的に辛い思いをしていると分かっている翠にも、ちゃんと説明して欲しいと手紙を書いて送ったのだ。
その連絡もないと言う事は…。
つまりは、本当に僕とやり直す気が無いと言う意思表示なのだろうか。
だとしたら…僕の親友の吉川和也を、事有る毎に頼り、頻繁に連絡を取り合っているのはどう言う了見だろう。
確かに留置場の面会室で、何か困った事が有った時は吉川に相談するように言ったのは僕だ。
だがしかし、二度と顔も見たく無いほど僕の事が嫌になったのなら、その友達とだって関わりに成りたく無いと思うのが普通では無いだろうか。
況してや、吉川和也は別れを決めた元彼の親友だ。
その親友を「今度一緒にお風呂に行きましょう」などと誘うだろうか…。
そう考えれば、やはり翠は僕ともう一度やり直す意思は、無くはないとも思えるのだ。
女心は複雑すぎて、凡人の僕には分かりようもないけれど、翠はどうして葵さんの死の真相を僕に知らせて来ないのだろう。
僕が心配性なのは、翠だって嫌という程知っている筈なのだ。
更に、和也はどうして僕の書いた手紙の返事を書いて寄越さないのだろう。
僕が一番知りたい事は、翠の近況よりも翠が僕とやり直す意思が有るのかどうかだ。
突っ込んだ話はしてないとしても、翠と頻繁に話をしている和也なら、翠の本心ってヤツもそれとなく感じる何かが有る筈じゃないだろうか。
もっと言えば、翠の事を気に病んでいる僕に対し「大丈夫だよ、心配無いよ」と励ましてくれるのも男友達と言うものでは無いか。
だと言うのに、どうして和也は僕と翠の行く末について一言も言及しないのだろう。
「その友達は信用出来るのか。お前さんの居ない間に、お前さんの内妻をどうにかしたりしないと言い切れるのか?」
新入でこの工場に来た時、一番初めに古山のオヤジに言われた言葉が、一瞬頭を過ぎった。
そして僕は直ぐにその言葉を打ち消し「そんなバカな事が有るもんか」と声に出して呟いた。
その声に隣の布団で横になりながらテレビを観ていた篠崎が直ぐに気が付いた。
「なんか有ったんですか?」
李と松岡はテレビのお笑い番組に夢中になっているのか、僕が漏らした嘆きに気付いては居ないようだ。
僕は何も言わず、吉川和也からの手紙を篠崎に手渡した。
篠崎はその手紙を受け取り、黙って読み始めた。
「別に悪い事は書いてないじゃ無いですか」
それが篠崎の率直な感想だった。
そう、悪い事は何も書いていない。
ただ、僕が知りたい事も何も書いては居ないのだ。
「まあそうなんですけどね…」
それ以外に僕も答えようが無い。
僕が口ごもると
「話して楽になる事なら、自分が聞かせて貰いますけど」
と篠崎が言った。
李と松岡はテレビのお笑い番組を観て大声で笑っている。
この様子なら、こっちの話に首を突っ込んで来る事も無いだろう。
「一番仲の良い友達からの手紙なんですけど、自分の女が何か困ってたら力になってやって欲しいとお願いして有るんですよ」
「そうなんですか」
何時もの様に篠崎は話しを真剣に聞いてくれる。
「女も何かと頼って行ってる様なんですけど、篠さんも知ってる通り自分の所に女から連絡が来て無いじゃ無いですか」
「はい」
「こいつ、和也って言うんですけど、この前の手紙で自分の女が実際自分との今後をどう考えてるのか、和也の意見を聞かせて欲しいってお願いしたんですよ」
「なるほど、その件に関しては何も書いてはいませんね」
「だからですよ…」
僕は意気消沈と言った様相だ。
「でも、悩み過ぎないようにって書いて有るじゃないですか」
篠崎が言うように、確かに悩みすぎるなとは書いては有るが、それは何に対して悩むなと言っているのだろう。
葵さんの死についてなのか、それとも翠の現状に何もしてやれずに悩んでいる事なのか、或いは篠崎が指摘するように、僕と翠の将来の事についてなのか、どうとでも取れる文面は、裏を返せばどうにも取り返しのつかない事で今は悩むなとも聞こえる。
言葉で話し合って居てすら、自分の思いが中々相手に伝わらず、誤解を生むことばかりの世の中だと言うのに、それが手紙では思っている事の半分も伝わらない。
相手だってそれは同じ事だろう。
刑務所の中に居ると言うことは、全ての事について常に受け身でしか無い。
幾らこちらが求めても、相手に動く意思がなければ何も解決しないのだ。
「和也さんって言う人とは長いんですか?」
篠崎が聞いた。
「ガキの頃からです」
僕は答えた。
「もちろん信頼出来る…」
「それは絶対です。こと女の事に関しては尚更」
「薬は?」
「昔、少しだけ」
「今は?」
「やりません」
吉川和也も、若気の至りでほんの短い期間、薬物を使用していた時期があった。
しかし、父親の死によって会社を受け継いだ事で、完全にこちら側の世界からフェードアウトしていた。
「絶対に?」
「絶対にです」
「なら大丈夫ですよ。信じましょう」
そうだ、古山のオヤジに何を言われようと、こうやって篠崎と二人、答え合わせをしている内に一瞬でも頭の片隅を過ぎった不安が、いかに馬鹿げているかが理解出来るようになってくる。
吉川和也は慎重な男だ。
おそらく根拠のない話しを僕に伝えるより、今は無駄に悩むより、ここから出た後に翠と二人でちゃんと話し合えと言うことを言っているのかも知れない。
「篠さん、ありがとう。少し気持ちが楽になりましたよ」
僕は素直な気持ちを篠崎に伝えた。
「自分もイガさんの役に立てたなら良かったですよ」
如才なく何時も話しを聞いてくれる篠崎の事を、改めていい奴だと思った。
「なんですぅ、また二人だけの世界に入ってますの?」
また厄介な奴が布団を持ち上げ顔を覗かせた。
僕は舌打ちしたい衝動を抑え、李の相手をする事にした。
「友達がカワサキのバイクをかったらしいんですよ」
「そりゃよろしおますな。なんて名前のバイクです?」
「分からないんですよ、カワサキのアメリカンで650としか書いてないんで」
「そらあきませんは。自分、旧車の事しか知りまへんのや。松っちゃん分かりますぅ?」
李が松岡を巻き込んだ。
「俺も大型のバイクの事は分からないな」
「なんや役に立たん奴やわぁ」
「役立たずとはなんだよ」
松岡が顔色を変えて李に抗議の言葉を言っている。
「なんでもよろしいがな」
僕が戯けて関西弁で言った。
松岡と篠崎が僕の関西弁を聞いて笑った。
李は馬鹿にされたとでも思ったのか、一人だけ真顔で「そんなん関西弁とちゃいまっせ」と言って布団の中に潜り込んだ。
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