第23話 主任訓戒
主任訓戒
「誘導は大きな声で確実に!命綱正しく付けて高所作業!お互いに声かけ合って共同作業!…」
この工場に配役になり、かれこれ1ヶ月が過ぎようと言うのに、僕の日常は相も変わらず午前中の声出しと、午後からの一人行動訓練だ
1ヶ月も毎日全力で声を出していると、喉は潰れ、咳をすると血の混じった痰が出る様になった。
それでも、気に入らない受刑者を虐める事に命を掛けているこの副担当には、まったく気にする要因では無いらしい。
今朝は特に喉の調子が悪く、僕は酷い風邪を引いた様に、喉をピーピー鳴らしながら安全10訓を唱和していた。
何時もの様に気配を消して、副担当が僕の横に張り付いた。
「お前さ…」
突然声を掛けられても、僕はもう副担当を振り返ることはしない。
壁に掛けられたボードから一切目を離さない…それくらいの事は学習していた。
「人が話してる時くらいこっち見ろよ」
副担当の言った言葉に、僕は思わず「はぁ?」と言いたくなる。
『前に声を掛けられて振り返った時、お前なんて言ったんだよ』と思わず口に出そうになるが、そんな事はおくびにも出さず「はい、すみません」と言って、僕はこの憎たらしい副担当と対峙した。
「お前さぁ、何手抜きなんか覚えてるんだよ。全力でやれって言ってるのが分からないの?」
ネチネチした物言いで、何時もの全力論を突き付けてくる。
「すみません、全力でやってるつもりなんですが」
僕自身、手を抜いているつもりなんてこれっぽっちも有りはしない。
「お前さぁ、この工場に来てどれくらい経つ?」
「1ヶ月丁度に成りました」
「ふぅん、もしかしたらだけどさ、お前、この声出しと行動訓練も1ヶ月で終わるだろうなんて、勝手に思ってない?」
「いえ、そんな事は思ってません」
「それなら良いけどさ、悪いけど終わらないから。お前にはまだまだやらせるつもりだから」
一々そんな事を言いに来たのか…と思うとこの人の心の中の闇と言うものに思いが至り、何か得体の知れない化け物を見る様な気分に成った。
「お前さぁ、これで俺に注意されるの何回目?」
「声出しの件では3回目です」
答えた瞬間、僕の背中に嫌な汗が流れた。
「お前さぁ…」と呼び掛けるこの話し方だけでも、背筋が薄ら寒くなると言うのに…。
府中刑務所のルールはスリーノックアウト制。
同じ事で3回注意を受けると、減点、或いは懲罰の対象となるのだ。
「お前さぁ。ちょっと区に行って来いよ」
前にも説明した事が有るかも知れないが、「区」と言うのは処遇分室の事で、学校で言うなら職員室の様な所だ。
区に呼び出されると言う事は、最低でも個人減点となり、半年に一度の進類の査定に大きく響く。
現在5類の僕は刑の確定から後ふた月ばかりで6ヶ月となり、暫定3類に進類出来る予定でいた。
3類になれば手紙も月に5通書ける様になるし、月に一度、お菓子やジュースを買って食することも出来る。
何の楽しみもない地獄の様な日々に、真面目に努力した者だけが獲得出来る本当に些細な楽しみなのだ。
その楽しみを、今まさにこの副担当は僕から奪おうとしていた。
僕の何がこの副担当の、癇に障ったのかは分からないが、全力で声出しをしている僕に、再三に渡って注意をして来たのはこれが理由だったのか…と漸く合点がいった。
何と言う底意地の悪さだろう。
こんな奴が刑務官をやっているから、更生しようと努力している者の気力さえも奪うのだ。
「もう声出しなんかしなくて良いから、担当台の前に黙って立ってろ」
眉間にシワが寄るほどの怒りを覚えながらも、僕は黙ってこのキチガイ刑務官の指示に従うしか無かった。
刑務作業中のスリーノックアウトの罪状の殆どが、脇見、雑談、無断離席となるが、それ以外に一番厄介なのが「その他、職員の指示に従う事」と言う但し書きだ。
職員の指示した事はその場で思い付いたどんな理不尽な事でも、従わなければいけない。
黙って立っていろと言うのだから、勿論黙って立っては居るが、僕は休めの姿勢で拳を握りしめ、身震いする様な悔しさに耐えていた。
「お前さぁ、誰が手なんか握ってろって言ったんだよ。休めの姿勢も最初から教えなきゃダメなのか」
此奴は、どこまで人を追い込めば気が済むんだろう。
これでキレない奴が居るなら会ってみたいものだ。
それでも…それでも僕は我慢をした。
今の翠の気持ちを考えれば、こんな事など我慢の内に入るものかと自分を奮い立たせた。
例え今日、区に呼び出され個人減点を食らったとしても、それが直接仮釈放に響く訳でもない。
ほんの少しこの中の生活に潤いが無くなるだけだ。
一日も早くこの府中刑務所を出所し、僕は妹の死によって打ち拉がれている翠の支えとならなければいけないのだ。
こんな馬鹿な副担当の挑発になど、絶対に乗るもんかと心に決めていた。
区に呼び出され、主任(係長)から何故担当の指示に従わないのか徹底的に追求され、こっ酷く叱責を受けた。
何故…と聞かれても、当の本人に担当の指示通り全力でやっていると言う意識がある以上、投げ掛けられた質問に答えなどある筈が無い。
「自分としては、精一杯やっているつもりなんですけど」
他にどう答えようが有ろうか。
「つもりとは何だ…いいか、担当の目は節穴じゃ無いんだよ。担当がお前が指示通りやってないと言えば、やってないんだ。言われた事はちゃんとやるんだよ!」
小さな調べ室が揺れるほどの大声で捲し立てられる。
結局僕は「主任訓戒」と言うペナルティを背負わされ、自動車工場へ戻された。
区から戻った後、区に連行される前と同様に担当台の前に休めの姿勢で立たされ続けた。
漸く声が掛かったのは、処遇分室から戻されて1時間も過ぎた頃だ。
「キヲツケ、回れ右」
「1、2、3!」
決められた通り僕は全力で声を出し、回れ右をした。
そこに立っていたのは古山のオヤジだ。
この上、古山のオヤジからも叱責を受けるのかと思うと、僕はウンザリとした気分になった。
しかし、古山のオヤジは訓戒を受けた事には触れず、意外な事を僕に告げた。
「済みませんでした」
先ず最初に言葉を発したのは僕の方だ。
古山のオヤジは、曖昧な動作で首を縦に振り
「まあ、子供じゃないんだから上手くやる様に」
と言った。
「有難うございます」
僕は腰を60度曲げ、規則通りの礼をした。
「お前な、今日から洗車の班に回すから。その車が誰の物で有っても、自分の車だと思って大事に扱う様に」
嫌いな担当の車だからと言ってわざと傷付けたり、乱暴に扱うなと古山のオヤジは言ってるのだろうと僕は解釈した。
「はい」
僕は全力で返事をした。
古山のオヤジは、敢えて無表情を貼り付けている様な顔で頷いた後、洗車班と呼ばれる1班の班長である香山を呼び付けた。
そして、班長の香山と僕を対峙させ「お互いに礼!」と号令を掛けた。
僕と香山は既に運動時間などに雑談をする仲に成っていたので、今更よろしくお願いしますでも無いのだが、持ち場が変わる度にその班の班長に頭を下げさせるのが、古山のオヤジのやり方らしい。
「五十嵐を今日から洗車班にするから、仕事のやり方を教えてやってくれ」
古山のオヤジが香山に言うと、香山は「分かりました」と大きな声で返事をした。
僕は「よろしくお願いします」ともう一度、香山に頭を下げた。
それを見て「キヲツケェ、役席にぃ付けぇ」と古山のオヤジが号令を掛けた。
僕と香山は両拳を腰に当て「1、2」と声を発し、洗車場へと移動した。
いつ終わるとも知れぬ果てしなき声出しと行動訓練は、丸々1ヶ月を過ぎて漸く終わった。
「じゃあ洗車の仕方を教えます」
と言って、香山がワンボックスカーのリアゲートを開けた。
担当からの死角を作り「大変でしたね」と僕に話しかけて来た。
「参りましたよ。主任訓戒ですよ」
僕はため息混じりにそう答えた。
「あの副担、誰でも一回は区に行かせるみたいですよ」
香山の言った言葉に、僕は改めて驚いて見せる。
「マジっすか?それじゃあ3類になるのメチャクチャ難しいじゃ無いですか」
「いや、主任訓戒なら2回くらいまでなら大丈夫みたいですよ」
なるほど…どうやらアドパンテージを与え、後がない状態にして言う事を聞かせるのが、佐藤という副担当のやり方らしい。
幾ら殺生与奪の権限を持つ刑務官様だとしても、何も無い所から綻びをつまみ出し、頑張ろうと思ってる人間にペナルティを与える必要も無かろうと思うのだが、考え方は人それぞれ、百戦錬磨の輩たちに言う事を聞かせようとするなら、そのやり方もまた人それぞれと言う事なのかも知れない。
それにしても…。
「香山さんって確か二級整備士の資格を持ってましたよね」
「そうですよ、なのにもう半年も洗車ばかりやらされてるんですよ」
香山がため息混じりに答える。
今現在のこの工場の人員の割り振りは、二級整備士のが2名、三級整備士が僕を含め4名、小型建設機械の訓練生が4名、三級整備士の訓練生が7名、なんの資格も有しない経理係と洗濯や配食、掃除を賄っている貸与係が計2名で19名だ。
班は1班から5班までに分かれ、1班が洗車班、2班が車検整備、3班が板金塗装、4班がタクシーのレストア、5班が外注の板金塗装と成っている。
そうして見ると僕を含め、僅か6名しか居ない自動車整備士の有資格者が、なんの資格も要らない洗車班に二人も居るのはどうにも腑に落ちない。
況してや香山は二級整備士だ。
三級整備士の資格を取るのに必要な実務経験は1年、二級を取るのに更に三年の経験を必要とする。
香山が整備士としてどれ程の腕前かは知らないが、ここにいる誰よりも整備士としての経験が豊富な事には違いない。
その香山を洗車班に半年も置いているのだから、勿体無い事この上ない。
「もう半年も洗車をやらされてるんです」と言った、香山の嘆きも解ろうと言うものだ。
「古山のオヤジのやり方で、訓練生には班長はやらせないみたいなんですよ。五十嵐さんが来てくれたから、多分自分は別の班に移れると思うんですよね」
香山が嬉しそうに言った。
成る程、そう言う事なのか…。
だとすると、また新たな有資格者が新入としてこの工場にやって来ない限り、僕も洗車班から動けないと言う事になるのだろうか。
まあ、今朝までの声出しと一人行動訓練をやらされる事に比べれば、天地程の待遇の差がある事だ。
そう思えば、この府中のクソ寒い真冬の洗車作業も、そう辛い事のようには思えなかった。
そんな事より、僕は翠と吉川和也に出した手紙の返事が、いつ返って来るのかばかりを気にしている。
手紙を発信してから既に10日は過ぎている。
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