第21話 訃報

訃報




「声が小せぇんだよ!全力でやれって言ってんだろうが!」


朝一番から副担当の檄がとんだ。


僕は工場の壁に掛かっている安全十訓と安全十則を、キヲツケの姿勢で大声でがなり立てている。


「安全十訓と安全十則を3回唱和したらうがいをして5分休め。5分休んだら、また安全十訓と安全十則を3回唱和しろ。もういいと言うまで続けろ。分かったか!」


「はいっ!」


腹筋に力を込め、僕は全力で返事をした。


「だから声が小さいって言ってんだろうが!」


「はいっ!」


「もっとだ!」


「はいっ!」


ただ「はい」と言う返事をしているだけで、僕の目の前には星が飛んでいる。


「全力でやれっ!安全十訓!」


「安全十訓!誘導は大きな声で確実に!命綱正しく着けて高所作業!お互いに声かけあって共同作業!ちょっと待てタンクの中身は引火物!吊り上げた物の下には近づくな!……手工具扱い一つで怪我をする!」


「安全十則!」


「いつも元気に朗らかで、互いに仲良く協力し、指示や注意を良く守り、連絡合図を怠るな……分からぬ事は指示を待て!」


声を裏返しながら、僕は言われるがままに全力で安全十訓と安全十則を唱和した。


たった一度の全力唱和で僕の喉はヒリ付き、身体には薄っすらと汗さえかいている。


「そのまま続けろ!いいか、手を抜けば直ぐに分かるんだからな!」


「安全十訓、誘導は…」


車の反対側に回れば隠れてしまいそうな小男の、しかも30歳にも成って居ないであろうこの佐藤と言う副担当に、僕はケツの毛まで抜かれそうな勢いで、服従を強いられて居た。


一時間も同じ事を繰り返して居ただろうか…。


「お前さ、全力でやれって言ってるの分からないの?」


何処から現れたのか、突然背後から声を掛けられ、僕は驚いて振り向いた。


「誰が後ろを振り向いて良いって言ったんだよ。今お前が見て良いのは目の前のボードだけなんだよ」


「済みません!」


自分で話しかけて置いて、振り向くなは無いだろう…と思ってみても、刑務官様の言う事は絶対だ。


何の目的で、こんないじめの様な事をやっているのかもまったく理解出来ない。


「さっきから遠くでお前の声を聞いてるんだけどさ、全力でやってる様には聞こえないんだよね」


二言目には全力、全力と言うが、この人の気にいる全力とは、一体如何なるものなのだろうか…。


元々僕は地声が大きい。


声だけなら、この広い自動車整備工場の何処に居ても聞こえるだけの声を出しているはずだ。


「大久保、ちょっと見本を見せてやれ」


そう言って副担当は、経理の事務机に座っていた大久保を呼んだ。


「はい!」と返事をし、大久保は腰に握りこぶしを当て、軽やかな駆け足でボードの前に立ち、安全十訓を唱和し始めた。


「誘導は大きな声で確実に!命綱正しく着けて高所作業…」


声は僕の方が確実に大きい。


しかし、大久保は身をよじる様に前後に身体を揺らして発声をしている。


なるほど…パフォーマンスも必要という事かと、僕は副担当の言う「全力」と言う言葉にようやくがてんがいった。


「これが全力だよ」


大久保が安全十訓を唱和し終わった後、副担当の佐藤が得意そうな顔で言った。


僕は直ぐに大久保の真似をし、身をよじりながら安全十訓を「全力」で唱和して見せた。


「よぅし、一旦やめて運動の時間だから、準備して列に並べ」


副担当の言葉に、やっと解放されると安堵の気持ちになった。


この上は、グラウンドのベンチにでも座り、篠崎に愚痴でも聞いてもらわなければやってられるものでは無い。


いつもの様に隊列を組み、やたら小さい歩幅で行進しながらグラウンドに着いた。


簡単な体操の後「別れ!運動!」の号令が掛かるが、今日はその前に「五十嵐列外」の号令が掛った。


僕は言われた通り列から離れ、次の指示があるのを待つ。


「別れ、運動!」の号令で皆が思い思いの場所へ散っていく。


僕はどうしたら良いか分からずに、そこに立ち止まっていると、直ぐに副担当が僕の横に張り付いた。


「キヲツケェ、足踏み始め!」


僕は一瞬、何が何なのか分からずに、その場に立ったままでいた。


「お前、俺の言ってる事が分からないの?足踏みって言われたら足踏みするんだよ。もしかして、お前皆んなと運動でも出来ると思ってる?悪いけど、お前だけ今から行動訓練だから」


何と言う嫌味な言い方…そして性格の悪さだ。


篠崎と顎を回して息抜きをしようと考えていた僕は、すっかり意気消沈し、40分の運動時間中、副担当の号令に合わせ、グラウンドの外周を「イッチ、ニイ、イッチ、ニイ」と一人、行進の練習をして歩いた。


運動の時間が終わり工場に戻ると、正担当の古山に呼ばれ、食堂に入る様に言われた。


食堂内の小さな担当台の前で、僕は古山のオヤジと向き合った。


「キヲツケ、礼、番号名前」


自分で呼びつけて置いて「番号名前」も無いだろうに、それでも決まり事である以上、嫌な顔も出来ない。


「566番、五十嵐」


古山のオヤジは一度小さく頷き「どうだ?」と聞いた。


僕は聞かれた言葉の意味が分からず「は?」と言う言葉を顔だけで発した。


「やって行けそうかって聞いてんのや」


古山のオヤジも言葉に関西の訛りがある。


「あっ、ありがとうございます。この工場で最後まで頑張りたいと思ってます」


僕はそう言って、古山のオヤジに頭を下げた。


副担当の佐藤が鬼の様に厳しいだけに、古山のオヤジの一言がやけに身に染みた。


他の同衆に言わせれば、収容者と個人的な言葉を交わそうとはせず、何を考えているか分からない、嫌なオヤジだと言う評判だが、僕はこの古山のオヤジが嫌いでは無かった。


古山のオヤジは「そうか」と再び相槌を打った後、一通の手紙を僕に手渡した。


「今、ここで読め」


僕は翠からの返事がついに来たのかと思い、一瞬ではあるが気持ちが華やいだ。


裏を返し、差出人を見ると友人の吉川和也からだった。


何故、今ここでこの手紙を手渡されたのだろう…。


もしかすると、一般工場はこう言う作法に成っているのだろうかと僕は訝った。


「座って読め」と言われ、僕は言われた通り食堂の長椅子に腰掛け、早速吉川からの手紙を開いた。


健二へ


今日はあまりいい手紙では無いんだ。

翠さんから伝言で、自分では手紙を書かけないから、代わりに伝えて欲しいって事なんだけど、翠さんの妹さんが急死したらしい。

何故死んだとか、どの妹さんとかもまったく分からないんだけど、実家の韓国料理屋を切り盛りしてる人だって言ってた。

健二には分かるんだろ?

翠さんも急な事でまだ受け入れられないらしくて、俺の所にもやっとの思いで電話を入れてきた様だよ。

そんな訳で、実家にお母さんしか居ないから、近いうちに実家に引っ越すらしいから、今後は手紙も実家の方に出して欲しいそうだ。

健二の事だから、そこに居て翠さんに何もしてやれない事を悔やんで居るんだろうけど、また何か詳しく分かったら手紙を書くから、あまり落ち込まない様にな。

それじゃあ、今日の手紙は報告だけな。

頑張れよ。



手紙を読み終わり、便箋を封筒の中に戻した。


僕はそのまま動く事が出来なかった。


『葵さんだ…』


翠には、別れた旦那の二人の妹とも未だに付き合いがあり、単に妹と称する関係が複数いた。


しかし僕には吉川の手紙に有る翠の妹さんと言うのが、翠より2歳年下の葵さんで有る事がすぐに分かった。


まだ38歳の若さだ。


何が有ったのだろう…。


翠の母親は、翠が一度日本人と結婚し、直ぐに離婚に至った事で、僕と翠が付き合っている事を極端に嫌っていた。


況してや、僕は絵に描いたような犯罪者だ。


どんなに理解のある親だろうと、犯罪者が自分の娘や孫の周りに寄り付く事を、快く思うはずが無い。


しかし…葵さんだけは違った。


僕と翠が付き合ううえで、唯一の理解者と言って良い存在だった。


翠以上に男っぽい性格で、僕に対し頭ごなしに文句を言ってくる事もあり、僕に取っても本当の妹の様に思える人だった。


「大丈夫か?」


古山のオヤジに声を掛けられるまで、ここが工場の食堂である事も僕は忘れていた。


「あっ、だ、大丈夫です」


そうは言って見ても、僕の動揺は隠せない。


「見ての通り、ここは戸外作業だ。お前があまり動揺する様なら、工場も変えなきゃならん。どうだ、大丈夫なのか」


古山のオヤジが心配する通り、ここには大型のダンプも有れば、背の高いワンボックスカーも有る。


身内の死をあまりに気に病んで、刑務所からの脱走を図ろうと思えば、難しい事では無い。


工場の周りは、背の高いフェンスで囲われていたとしても、そんな物は目の前にある車で突っ込んで仕舞えば無いのと同じだ。


そのまま壁際まで走って行き、車の屋根にでも登れば、刑務所の塀など容易く越える事が出来るだろう。


「大丈夫です。自分の妹でも有りませんし…」


今はそう言うしか無い。


確かに葵さんが急死した事は悲しくも有り、苦しい出来事では有るが、今また他の工場に移され、七面倒臭い人間関係を腹の探り合いから始めなくては行けないのかと思えば、今この時の僕の精神状態で何事も無く作り笑いを浮かべていられるとは、とても思えなかった。


「なら良いけどな、ここは危険作業も有る。あまり深刻に考える様ならいつでも俺に言ってこい」


有り難い言葉に聞こえた。


その一方で、連日の声出しと行動訓練しかやらせてもらってないのに、何が危険作業なもんか…とツッコミを入れる僕も居た。


直接眼にしていない物に、深く感情移入が出来ない。


それは刑務所の良い所でも有り、悪い所でも有った。


葵さんが死んだと言う吉川の報告は、確かに僕にショックを与えたが、逮捕前、最後に会った時の溌剌とした姿が記憶にあるだけに、僕に実感を与えるには、まだ情報が少なすぎる。


信じられない、何かの間違いでは無いのだろうか…僕の頭の中はその場所を行き来したまま動かない。


そして…僕は自分の中の一番大きな感情に気付き、愕然とし、自分に対する嫌悪感を覚えた。


「翠じゃ無くて良かった…」


思ってはいけない事だと…考えてはいけない事だと分かっていても、僕は急死したのが翠では無かった事に安堵していたのだ。


「身分帳には載せてあるのか?」


僕の心の中の戸惑いを打ち破る様に、古山のオヤジが聞いた。


「はい、親族外に名前は載せてあります」


僕が答えた。


「そうか、こんな時に悪いとは思うけど、これも刑務所の決まりだから削除願いの願箋を書いてくれ」


「今かよ!」と言葉に出そうになる。


何もたった今親族同様の者の訃報を受け取ったばかりだと言うのに、傷口に塩を塗る様な事をする必要はないでは無いか。


もっと言えば、死んでしまったとは言え、内縁の妻の妹の名前を、どんな理由が有るにせよ、一度乗せた身分帳から「削除」なんて言葉を使って消さなくてはいけない理由はなんだと言うのか。


僕の身分帳に死者の名前がある事で、刑務所側にどんな不都合が有ると言うのか。


刑務所には親族、或いは親族外申告書と言う物があり、そこに記載された者としか外部通信が出来ないと言うルールが有る。


だとしても、死んだとされる葵さんから手紙が来るはずもなく、僕自身、敢えて死者に手紙を出す事もある訳がない。


ただそれだけの事ではどうしてダメなんだろうか。


死んだと聞かされて尚、その事実に半信半疑でいると言うのに、「大丈夫か?」と聞くその裏側で、悲しみや不安を煽る様な手続きをさせようとする、刑務所側の無神経さに僕は腹が立った。


「ミスタールールブック」それが古山のオヤジのアダ名だ。


僕たち受刑者としては、時にそれは大変わかりやすく、決められた規則だけを頑なに守って生活さえしていれば、理不尽な事で因縁をつけられ、懲罰に持っていかれる事もない代わりに、こうやって懲役の感情など意にも返さず、規則と言う名の元に悲しみを増幅させる事にも躊躇しない。


僕はこの古山のオヤジが嫌いでは無い…嫌いでは無いが、今日はやけにムカついている。

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