第11話 踊り
踊り
「じゃあ、挨拶だけやっちゃいますか?」
夕食が終り食器洗いが済んだ後、3番席の男が言った。
その声に合わせ、西2舎1階21房に居る4名が車座になって座った。
「じゃあ先ず自分から」
そう言ってこの席の主導権を握ったのは一番席の50近い男だ。
「山梨から来ました高山です。刑期は3年、シャブの使用、所持です。自分は先週来たので、来週には新入工場へ行くと思いますので、短い間ですけど宜しくお願いします」
高山と名乗った男は丁寧に頭を下げた。
続いて2番席の中国人が「ワタシ、ナマエ、黄ネ、コウサンデス」と片言の日本語で話し、ピョコンと頭を下げた。
日本語は話せないと聞いていたが、刑務所の中、自分の名前だけでも言えるなら上出来だ。
「橘と言います。小菅(東京拘置所)から来ました。地元は九州です」
3番席の男がそう言って頭を下げたが、事件の事や刑期の事は言わなかった。
府中刑務所は、短期刑の再犯者を収容する施設。
殆どがシャブや窃盗事件だが、時折痴漢やパンティ泥棒なんて輩も混じって来るので、その場合、自分の罪名や刑期を言わない奴も多い。
橘と名乗った男がピンク野郎かどうかは分からないが、30代と思しき人相風体にどこか卑猥な物を感じさせる男だった。
まあ、どいつもこいつも同じイガグリ頭で同じ服を着ているのだから、何が卑猥かと聞かれても答えようが無いのだが…。
「自分は静岡刑務所から来ました五十嵐と言います。シャブで2年2月です。宜しく御願いします」
1番席の高山に習い、僕は簡単な自己紹介をし、頭を下げた。
「地元も静岡なんですか?」
聞いたのは橘だ。
「東京の葛飾です。事件が沼津だったもんで」
「郵便かなんかで沼津に覚醒剤を送ったんですか?」
今度は高山だ。
「いや、シャブは使用だけで、初めは自動車盗だったんですけど、そっちがパイになったもんで」
「ああ、そうだったんですか、それは良かったですね」
「はい、今回は助かりました」
僕たちの会話を、言葉の分からない中国人の黄もニコニコとして聞いていた。
「一応部屋のルールだけ簡単に説明しますけど良いですか?」
橘がそう切り出した。
「はい、皆さんに合わせますので、何でも言ってください」
雑居房にはその部屋その部屋のルールがあり、決められたルールを守らなければ追い出される事も暫しだ。
「先ず夜中のトイレなんですけど、朝まで水は流すなって担当に言われてると思うんですけど、臭いがついちゃうんで構わず流して下さい。その代わり流した水が止まってから便所から出て来るようにして貰えますか」
「分かりました」
実は、トイレの水を流す音で目が覚めたと喧嘩になる事が非常に多い。
「その時、出来るだけ座りションベンで、ジョボジョボの音だけ立てないようにして貰えますか?」
便所の水を流す音は気にしないというのに、便所の水溜りに小便を落とし込むあの音はうるさいと言うのも、懲役ならではの屁理屈だ。
しかし、その辺はどこの刑務所に行っても似たようなルールになっている事で、僕には何の異論も無かった。
「分かりました。なるべく音を出さない様に気をつけます」
刑務所は、矢鱈と音を出す奴は嫌われる傾向にある。
夜中の咳がうるさい、くしゃみがうるさい、骨をポキポキ鳴らす音がうるさいなど、それが理由で対人関係が上手く行かなくなる。
「それから掃除の事ですが、うちの部屋は基本サラ制なんで、よろしくお願いします」
橘がニタを噛みながら言った。
「サラ制?」
言われた僕は、途端に嫌な気分になった。
サラ制とは一番新しく入って来た人間が、部屋の掃き掃除、便所掃除、皿洗いなど、人が面倒と思う事を全てやる事を言う。
府中刑務所の様な大人ばかりが住まう再犯刑務所ではサラ制など殆ど無いが、川越少年刑務所の様な若年の受刑者が住まう初犯刑務所では、イジメや嫌がらせの一環として、サラ制を行なっている。
年若い橘の事、もしかすると前刑は川越少年刑務所あたりで粋がっていたのかも知れない。
「はい、この部屋は歴代サラ制でやってるので」
試されてると思った。
ここで、はいそうですかと言う事を聞いてしまえば、この中での暮らしは何時も誰かの下に付いていなければいけなくなってしまう。
例え府中刑務所が50ヶ所近い工場に受刑者を振り分けていたとしても、この中の噂は地を駆ける風の様に早い。
「橘さん、大概の約束事なら甘んじて従いますけどね、大人の刑務所でサラ制ってのは無いんじゃないですか?」
背筋を伸ばして話していた僕は、身体を前に倒し半眼になって橘を見据えた。
「気に入らなきゃ出て行ってくれても良いですよ」
橘も若さ故か、開き直った言葉を返してくる。
途端に空気が張り詰めた。
言葉の分からない中国人の黄さえ、緊張した顔をしている。
「どこの少刑を渡ってきたか知らないけどよ、人を試すんなら相手を見てからにしろよ」
ここはハッタリの応酬だ。
刑務所の口喧嘩は、そう滅多に殴り合いにはならない。
況してや常に担当の耳を気にしているだけに、大声で怒鳴り合うこともあまり無い。
口論だけだって10日は懲罰を受けなければいけないと言うのに、掴み合いの喧嘩となれば20日は座ることになる。
まかり間違って相手が血を出してしまえば、事件送致となり、刑期が増えないとも限らない。
そう言う駆け引きの中で、自分の体裁を保つ喧嘩の方法を、日々受刑者は身につけて行く。
「なんですか、部屋のルールを教えてくれと言うから教えてやったのに、初めから喧嘩腰じゃあ説明も出来ないじゃないですか」
橘の口調が改まった。
これでもう、勢いはこっちのものだ。
「教えてやっただと?大体お前いま喧嘩って言ったな?おう、これは喧嘩か?喧嘩だって言うなら一歩も引かねぇぞこの餓鬼」
頭の中は冷静だと言うのに、わざとヒートアップして見せる。
それだけで、こいつはヤバイ奴だと周りに印象付ける事ができる。
刑務所の雑居には「部屋ごと」というルールも有り、部屋の中で起きたいざこざは、別の部屋の人には漏らさないしきたりに成っているが、実際には面白おかしく話しを膨らませ、あっという間に広まるのが現実だ。
平日の午前中に30分程の行動訓練があり、その後に10分程度の雑談の時間がある。
その10分で分類考査に在籍する受刑者、総員約40名に知れ渡り、その40名が各工場に配役となって噂を広めて行く。
とかくやる事のない刑務所の中、誰と誰が喧嘩をし、どっちがイモを引いたのかは、受刑者たちの大きな関心ごとでもあった。
「誰も喧嘩なんて言ってませんよ」
橘は完全に及び腰だ。
この男の刑期が長いのか短いのかは知らないが、仮釈放の計算が既に頭の中に有るのだろう。
「テメェ、吐いたツバを飲み込むのか?最初に喧嘩って言葉を使ったのはお前の方じゃねえか」
僕はまだ引かない。
「喧嘩ごしでは話しが出来ないって言ったんですよ」
「ほらみろ、喧嘩って言ってるじゃねぇかよ。やるならやってやるから掛かって来いよ」
立ち上がる気もないのに僕は膝を立て、構えて見せる。
「五十嵐さん、ちょっと冷静になりましょうよ」
口を挟んだのは高山だ。
僕は高山に一瞥をくれ、もう一度橘を睨みつけたまま口を噤んだ。
この後、高山が何を言うか分かっているからだ。
「五十嵐さん、自分みたいな器量の無いのが口を挟むのは失礼かと思いますけど、橘さんもまだ若いもんで、許してやってくれませんかね」
こんな時、謙った物の言い方をするのも刑務所のルールのようなもの。
「高山さん、いくら若いって言ってもここは成人刑務所ですよ。俺も少刑は旅かけて来てるから、こいつが俺を試してるって事が分かるんですよ」
「別に試してなんか居ませんよ」
思わぬ高山の加勢に勢いを得たのか、橘が再び言葉を返して来る。
「なんだと、この野郎」
僕は僕で言葉を重ねる。
「まあまあ、黄さんだって言葉が分からないのに心配してるじゃ無いですか。一つここは私の顔を立てて、許してやって貰えませんか」
見ると中国人の黄が蒼ざめた顔でキョロキョロと僕と橘を見ている。
中国人のイメージと言えば、何時も大声で怒鳴り合ってるように見えるが、刑務所の中で会う中国人は、どいつもこいつもおどおどした奴ばかりだ。
「分かりました。そこまで言うなら高山さんの顔を立てますよ。で、俺の顔はどうやって立ててくれるんですか?」
僕の切り返しに、今度は高山が顔を赤くしている。
顔を立てると言った僕の言葉とは裏腹に、顔を潰されたとでも思っているのだろう。
尤も、僕自身そのつもりで言っているのだが…。
「どうしたら納得してくれますか」
高山もそこは大人、しかも懲役慣れした輩だ。
直ぐに喧嘩腰で物を言って来ることもない。
「そうですね、次のサラが来るまで橘が全部やってくれるなら我慢しますよ」
新入は次から次とやって来る。
橘にサラ仕事をさせたとしても、どうせ一日か二日だろう。
「分かりました、五十嵐さんがそれで納得してくれるなら、自分が五十嵐さんの分をやらせてもらいますから」
橘がそう言って僕に頭を下げた。
舎房の中ではこれで円満解決かも知れないが、橘がイモを引いたことは、この分類考査の住人に直ぐに広まる事だろう。
刑務所の中では、これだって立派な踊りだ。
ただでさえ住み辛い刑務所の中、自分の住む所は自分で住みやすくしなくてはいけないのだ。
「所で移入通知は出さないんですか?」
高山が満面の笑みで語りかけて来る。
忘れていたわけではない。
今のゴタゴタで手を付けられなかっただけ。
「出しますよ」
僕は答えた。
「だったら早く書いた方がいい。明日朝一番で回収に来ますから」
「ありがとうございます。今日は騒がせて住みませんでした」
僕は高山と黄に向かって頭を下げた。
「かまいませんよ」
僕がわざと騒ぎにしたのを分かっているのだろう。
刑務所で無事故、無違反で過ごすには、周りからヤバイと思われているくらいが丁度いい。
誰だってこんな所は早く出たい。
中には娑婆で自力では生きていけず、志願兵として刑務所の門を叩く奴も居なくはないが、そんな奴でもいざ刑務所に来てみれば、担当の嫌味や嫌がらせに耐えられず、早く出たい、早く出たいと漏らしている。
その刑務所からたった一つ早く出る方法…。
それが仮釈放だ。
法律では刑期の3分の1を過ぎれば仮釈放が認められることに成っているが、実際に貰えるのは雀の涙。
回を重ねる毎に刑期が増えて行くのに反比例する様に、仮釈放は少なく成って行く。
初犯のA級で刑期の3分の1、再犯の1回目で4日から5日に一日、そこから先は1年に1ヶ月、多くてもそこにおまけがつく程度だ。
6回目、7回目とも成れば、幾ら真面目に努めたからと言って、仮釈放に成る事も少ない。
それだって何も反則をせず、模範囚であって初めて叶う事で、喧嘩などした日には傷害事件として立件され、刑期が増える事さえある。
だからこそ、自分を守る為にもヤバイ奴は誰なのかを常にリサーチしておく必要が有るのだろう。
そして、そう言う奴には近づかないか、媚を売って仲良くして貰う。
そのどちらも上手に出来ない僕の様な人間は、自分がヤバイ奴だと思われる事で、誰にも近寄って欲しくないと言うオーラを発するしかない。
それは本当にヤバイ奴から喧嘩を売られる諸刃の剣でもあるが…。
真冬の刑務所の寒さの中、僕は背中を丸め「府中刑務所に移入に成りました」と一言だけ便箋に書き、封筒に入れた。
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