第8話 受刑

受刑



府中刑務所に入所する為の私物検査室に連行され、先ず初めに称呼番号を言い渡された。


「生年月日、名前」


ファイルを持った若い担当が僕を指差し言った。


そこに余計な接続詞などは一切ない。


「五十嵐健二です。昭和53年7月4日生まれです」


直立不動の姿勢で僕は答える。


「『です』は要らない!生年月日、名前!」


途端に担当の怒声が飛んだ。


「五十嵐健二、昭和53年7月4日」


言われた通り、僕は一切の余分な言葉を省き答えた。


まあ、これも刑務官特有のパフォーマンスでは有るのだが、一番最初に名前を聞かれた僕が、洗礼を受ける形になった。


「いいか、お前達が居た静岡刑務所がどんなところかは知らないが、ここでは聞かれた事だけを答えろ、言われた事だけをやれ、自分で考えて何かをやる必要も言う必要もない。分かったか!」


「はい!」


腹の底からの一喝を受け、僕たち五名は声を揃えて返事を返した。


「五十嵐!566番、いいか、もう一回言うぞ。566番、忘れるな!」


「はい!」


「今後、何度も番号、名前と職員から聞かれる、その時は今言われた称呼番号と名字だけを言うように。いいか、下の名前は言う必要は無い。他の奴らも一緒だ。分かったか!」


「はい!」


一緒に押送された僕たち五名の声が揃った。


僅か1メートルほどの距離で向かい会っていると言うのに、声の大きさと距離感が全く合っていないから困ったものだ。


それでも…。


「声が小さい!腹の底からの声を出さんかっ!職員も本気でやってるんだ!お前らが本気でやらないなら、こっちも適当にやるぞ、それでも良いのか!」


全ての言葉尻にビックリマークを付けなくてはいけない程に、刑務官は常にどうでも良い事を捲し立てる。


しかし…「それでも良いのか」と聞かれても、何と答えたものか…余計な返事をして、またどやし付けられたのでは堪ったものではない。


どうしたものかと思いながら、僕は直立不動のまま、正面の一点を見つめていた。


「どうなんだと聞いてるんだよ」


刑務官がもう一度聞いた。


誰も返事をしない。


「あなたに聞いてるんだ!」


そう怒声を放った刑務官の目と指先は僕に向いていた。


「はい、一生懸命やります!」


反射的に僕は答えた。


「あなたは⁉︎あなたは⁉︎」


とその刑務官は、その場に居た五名全員に確認を取った。


そして全員が「一生懸命やります!」と返事をした。


「よぅし、あなた達全員、一生懸命やりますと俺に約束したんだからな。この先、あなた達が手を抜いているとこの俺が感じた時は、直ぐに調査(懲罰)にしてやるからな。分かったか!」


「はい!」


「分かったか!」


「はい!」


「分かったか!」


「はい!」


これ以上出ないと言う大声で、僕たち五名は「はい!」と言う返事を繰り返した。


「それだけの声が出るなら、最初から出すんだよ!」


刑務官が捨て台詞を吐く。


「はい!」


と僕たちは再び腹の底から返事を返した。


因みに言っておくが、この刑務官は25〜6のくそガキだ。


昨日、静岡刑務所を退所する為に調べた私物を、今度は府中刑務所に入所する為に再び一から調べ直す。


捕まった時にファイルでも作り、そのファイルを持って次の場所に移れば良いのではないかと思うのだが、場所が移る度にいちいち私物を検査し、新しい書類を作るのだ。


なんと無駄な時間と労力を浪費しているのだろう。


ところが当の刑務官は、そんな事に対する疑問など微塵も感じては居ない。


受刑者に対し「自分で物を考えるな!やれと言われた事だけをやれ!」と説教を垂れるだけあって、彼らもまた、上司からやれと言われた事だけを、ただ盲目的にこなしているのだ。


舌打ちをしたくなる様な気分で、僕は私物の検査を始めた。


ただ、退所する為の私物検査と違い、入所する為の私物検査は、刑務所内に持ち込めるものと持ち込めないものを仕分けしながら検査をして行く。


府中刑務所の場合、受刑者一人が刑務所内に持ち込める私物の量は60リットル程度までと決まっている。


それがどれくらいの量かと言えば、中くらいのサムソナイト一個分と思ってくれると分かりやすい。


持って行ける物もかなり細かく決まっている。


基本、所内に持ち込めるものは文房具、本、下着、タオルに洗面道具一式と言ったところだ。


なんだ、たったそれだけなら旅行カバン一個分も必要ないだろう…と思うかもしれないが、これが受刑期間分となれば半端な量では無い。


例えばタオル一つを例にとっても、今回の僕の2年の刑期を考えれば、一度に使うタオルの数は舎房用、工場用の2本が必要となり、2ヶ月に一度新しい物と交換したとしても24本のタオルが必要となる。


丸首シャツやパンツなども、府中刑務所の場合、洗濯の都合で舎房用だけで8組が必要だ。


その他に工場用で3組、夏用のランニングシャツが5枚、冬のメリヤス上下が4組、この他に本や雑誌が有ればとても60リットルくらいの容量では収まりきるものでは無い。


確かに刑務所と言う場所柄、着の身着のまま手ぶらで来たとしても生活は出来る。


これらすべてを官物と呼ばれる、歴代の受刑者が使い回したボロボロの物を借り受けることも出来る。


事実、逮捕時運悪く金の持ち合わせがなく、止むを得ず官物を使っている街の兄ィもいない訳ではない。


しかし、誰もが同じ服を着、同じ髪型をし、同じ物を食べている刑務所の中で、どんな私物を持っているかは、中での力関係に大きく作用するのだ。


懲役とは、全国から集まってくるヤクザかぶれの半端ものばかり。


その街の有力者であろうと、官物などを使っていたのでは、どんなに大きな話しをしたところで、誰も相手にしてはくれない。


それだけに、所内に持って入る私物は厳選に厳選を重ね、誰もが他の者との差別化を図っている。


今回僕が持ち込んだのは、カルバン・クラインの丸首シャツやボクサーパンツ、ユニクロのヒートテック、ラメ入りスケルトンの石鹸箱、誰もが知っている名前の歯ブラシ、ウチノの黒いタオル…。


まあ、そんなところだろうか。


その他に拘置所で買い込んだラックスの石鹸30個や、ガムの薬用歯磨き10本、メリットの薬用シャンプー5本、文庫本やハードカバーの本を50冊程度。


石鹸や薬用歯磨き粉、シャンプーなどは府中刑務所でも買えるのだが、各刑務所で売っている銘柄が異なり、そんな所でも他人との差別化を図りたいのが懲役だ。


娑婆ネタ…つまり、下着やタオルなどの数量の規制がない娑婆からの差し入れが許可になるものと違い、沼津拘置所在官中に出来るだけ貯め込んで置きたい石鹸やシャンプー、歯磨き粉は一度に購入出来る数も決められており、結果、誰かに拘置所まで面会に来てもらい、拘置所指定の売店から差し入れしてもらう他方法は無い。


その誰かとは、僕の場合翠しか居なかった。


今目の前にある、この中で虚勢を張る為のハッタリの小道具の全てを、翠は嬉々として揃えてくれた。


普通の女なら「中でカッコつけてどうするの、掛かるお金だって安くないのよ!」などと怒りだすのが普通だ。


事実、翠と付き合う前の彼女は、僕が初めて捕まった時の差し入れの要求が多過ぎると喧嘩になり、それが原因で別れてしまった。


しかし翠は違う。


「ねえ、ネット見てたら可愛い石鹸箱が有ったから買って置いたよ」


などと言って次から次へと差し入れを持って来てくれる。


僕が喜ぶと思ってしてくれている事なのか、或いは単に買い物が好きなのかは分からないが、何一つ文句も言わず翠は刑務所セットを揃えてくれた。


今目の前の鞄に詰め込まれているものは、その全てが翠の手を渡って僕に届いたものだ。


その翠が、簡単に僕を捨てる訳がない。


そう、簡単に二人の関係を清算できないくらいに、僕と翠は内容の濃い関係を築いてきた筈だ。


翠が僕の為に用意してくれた刑務所セットを見つめながら「絶対に面会に来てくれる」そう思えた。


そして、その思いが確かな事だと思えるように成ってもいた。


私物鞄は、持ち込んだ私物の品々でパンパンに膨れていた。


更に刑務所から貸与された私物の使用が認められていないパジャマや衣服の着替えを入れるスペースはもうどこにも無い。


困り果てていると、私物検査係りの担当が紙袋2枚を僕にくれた。


片手で抱きかかえられる程度の大きさ。


貸与されているパジャマや舎房着などは私物ではない為、私物バックからはみ出したとしても、それは反則では無い。


ただ、余り良い顔もされない。


「あなたね、私物の量が多過ぎるんだよ」


僕の私物の量の多さを見咎めた刑務官が、直ぐに苦言を供する。


「済みません、消耗品ばかりですから…」


「いちいち言い訳なんか言わなくて良いんだよ!」


またもや怒声だ。


『叱られるのも仕事のうち』


誰かが言った懲役の心得が頭に浮かんだ。


私物バックには小さなタイヤが付いており、バックの最上部にベルトが有る。


しかし、どうしたらこんなに持ちづらい物を作れるんだろうと思える程、何の機能性も考慮されておらず、100メートルも引っ張って歩けば腰が痛くなってしまう。


「よぅし、今からあなた達がしばらく生活する共同室に連れて行くから、全員荷物を自分で持って付いてくるように」


連行の刑務官はそう宣言し、僕らの前を歩き始めた。


僕は右手でバックを引き、左手で大きな紙袋二個を抱えながら、一緒に押送された5人の最後列をヨチヨチと歩いて付いて行った。


少し歩くと左手に抱えた二つの紙袋の一つがするりと腕から落ちてしまう。


直ぐに拾い上げ、歩き出すとまた落ちる。


僕の前を歩いていた同囚が、見兼ねたように床に落ちた僕の荷物を拾い上げ、手に持って歩いてくれた。


すると…。


「ぜんたぁい、止まれぇ」


とわざわざ号令を掛けて僕たちを止めた。


「オイ、あなた何をやってるんだ」


「あなた」と言う呼び掛けと、「何をやってるんだ」と言う詰問調が全く噛み合っておらず、違和感ばかりが耳につく。


言われたのは僕の荷物を拾ってくれた同囚だ。


60は超えているだろうと思える優しそうな同囚は、機転の効いた答えも浮かばないのだろう。


「荷物を拾ってあげました」


事実をそのまま連行の担当に伝えた。


「まあ100歩譲って荷物を拾うのは良いとして、何であなたがその荷物を持ってるんだ」


声のトーンは抑えているが、実に嫌味な物言いをする。


「何回も落としてたので、持ってあげました」


直立不動で答える同囚のおじさん。


「俺が最初に何を言ったか覚えてるか」


刑務官の問い掛けに


「荷物を持って付いてくるようにと言いました」


同囚のおじさんが、大きな声で返事をした。


「自分の荷物を持ってと俺は言わなかったか?」


刑務官の言葉におじさんは一瞬「ハッ」となり、「言いました」と答えた。


「じゃあ俺の話をちゃんと聞いてたんだな」


「聞いてました」


「今持ってるのは誰の荷物だ」


「今日一緒に来た人の荷物です」


「自分の荷物では無いんだな」


「はい、違います」


「よし、だったら担当指示違反だ。調査にするから全員壁を向いて立ってろ」


そう言って、連行係の担当は僕たち五名を壁に向かって立たせ、携帯している内線電話で別の担当を呼んだ。


間髪入れずに高校の新卒かと思えるような若い担当が飛んで来て「異常ありません」と直立不動で連行の担当に敬礼をした。


連行の担当はいくらか先輩なのか、横柄な態度で「異常なし」と後から来た担当に敬礼を返した。


刑務官同士の挨拶はいつだって敬礼と「異常ありません」と言う一言だ。


異常があるから応援を呼んだのでは無いのか?とツッコミを入れたい所だが、もちろんそんな事は出来るはずもなく、僕はただ、固唾を飲んで事態を見守るしかなかった。


「568番、指示違反だ。連れて行け」


連行の担当が後から来た担当に指示を出した。


「了解しました。568番、回れぇ右ぃ!」


後から来た担当の号令に合わせ、568番のおじさんが担当と向かい合った。


すかさず…。


「ちょっと待ってください。悪いのは自分ですから、自分を調査にしてくれませんか」


と、僕は言った。


これから受刑生活が始まるというのに、今懲罰を食らってしまえば冷や飯を食うのは確定だ。


僕のせいで568番のおじさんに迷惑を掛けるわけにはいかない。


「あなたね、誰が勝手に喋っていいって言ったんだよ。刑務所のルールに則って俺の裁量でやってるんだよ。いちいちあなた達が口を挟む必要はない」


連行係の担当はそう言った後、568番のおじさんを連れていくよう、後から来た若い担当にもう一度促した。


「もう一度言う、自分の荷物は自分で持て」


そう言った後「よし、付いて来い」


と連行係の担当は、意気揚々と歩き出した。


四名に減ってしまった僕たちは、後味の悪い思いを抱きながら、西2舎1階に有る分類考査の共同室に移動して行った。


僅かな道のりを、僕は何度も紙袋に入った荷物を落としては拾って歩いた。


聞きしに勝るとは言うが、これから始まる府中刑務所でのスタートで、既にこれだけの嫌な思いをするのだ。


先が思いやられると溜め息さえ漏れ出しそうな気分だと言うのに、翠が住む同じ東京の地に戻ってこれた事が、568番のおじさんに掛けた迷惑への罪悪感を遥かに超えた喜びに変えて居た。



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