第5話面会

面会


近藤刑事の宣言通り、運転免許証の偽造とその免許証を使っての携帯電話の契約を、追求されることは無かった。


しかしながら、覚醒剤の使用だけはどうにも逃げ切ることも叶わなかった。


覚醒剤さえやっていなければ、僕は翠や翔太の元に帰れたのだ。


だからと言って、覚醒剤を身体に入れ、恐怖心を麻痺させなければ、泥棒だって出来はしない。


覚醒剤はあらゆる物を麻痺させる。


身体の痛み、心の痛み、恐怖心、そして人を思いやる心までも麻痺させ、なんでも有りの人格を一瞬で形成させる。


そうでなければ、誰かの思い出の詰まった大切な何かを、夜な夜な盗みに行くなんてことが出来るわけが無いのだ。


泥棒は刑法235条窃盗罪が科される。


単純窃盗なら十年未満の刑罰と成り、多くの場合一年六月そこそこの刑が相場となるが、十年以内に三度の窃盗罪で捕まれば、常習累犯窃盗罪となり、刑事罰も三年以上十年未満となる。


今回の窃盗容疑が起訴になっていれば、僕は常習累犯窃盗罪となり、覚醒剤使用、免許証の偽造、同行使及び詐欺の全てを併合裁判で審議されたとしても、五、六年の刑務所暮らしは覚悟しなければいけなかった筈だ。


その刑期を、自分の機転と刑事との駆け引きとで、どうにか覚醒剤の使用のみで乗り切ったのだから、我ながら良くやったと満足な気分でも居た。


覚醒剤の使用が起訴になった日、同時に接見禁止も解除となり、面会という楽しみが生まれた。


「今日の午後、翠が面会に来るらしいぞ」


接見禁止が外れた日の朝一番に、近藤刑事が僕に伝えた。


翠に会えるのは44日ぶりだ。


逮捕される前日「何年でも待ってて上げる」と翠から言われているだけに、翠との再会になんの不安もない。


早く午後に成らないかと、僕は時間の経過ばかりを気にしていた。


しかし…いっこうに翠が現れる様子がない…。


警察の取り調べ期間は20日間と言うのが世間の認知する所だが、20日過ぎればもう取り調べは行われないのかと言えばそれは違う。


根掘り葉掘り何度も事件のことを聞かれ、ついつい余計なことを話そうものなら、そこを追求され新たな事件へと発展することも暫しだ。


「なあ健二よ、誰から買ったかくらいは言っても良いだろう?」


近藤刑事には偽造免許の件をニギッて貰っているだけに、あまり素っ気ない態度は取りづらい。


「自分のことなら言えるけどさ、他人の絡むことは言えないよ」


薬の出所を話すと言うことは、つまりは誰かをチンコロすると言うこと。


例えば今回が初めての犯罪で、執行猶予の可能性の有る事犯なら、もしかして誰かの名前を出すことはあるかも知れないが、誰かの名前を出そうが出すまいが、打たれる刑期は変わらないのなら、何も誰かを歌って怨みを買う必要もない。


「だからよ、何も最後に仕入れたところを話せって言ってるわけじゃないんだよ。気に入らない野郎とか、手広くやってる外人とか、名前の出しやすいところは色々あんだろうが」


簡単な話、情報を寄こせと言っているのだ。


「近藤さん、そう言う駆け引きは無しにしてくれよ。俺も初犯じゃないからさ、落ちた先で誰に会うかも分かんないからね」


刑事の口車に乗り、うっかりチンコロしたばかりに、送られた先の刑務所で虫ケラ以下の扱いをされている奴も珍しくはないのだ。


それはそうと…。


「翠、来ないね」


昼飯を食べる為一度留置場に戻り、取り調べを再開したのが1時…。


時計が無いので正確な時間は分からないが、恐らく3時は過ぎているだろう。


面会時間の受付は4時半まで。


都内の警察署ならまだしも、ここは静岡県の沼津警察署だ。


時間に厳しいお役所仕事。


時間に遅れて面会が出来ないなんて事になれば、翠の落胆は如何程のものだろうか。


「車を運転して来るって言ってたからな」


近藤刑事がポツリと言った。


「車?そりゃダメだわ」


思わず言葉が漏れた。


「何がダメなんだよ」


「ダメも何も翠はどうしようもない方向音痴なんだよ」


「車にナビは付いているんだろう?」


「あいつ、ナビの言うことなんか聞かないんだよ」


翠はナビの言う事を聞かない。


運転に余裕が無いという訳でもないのに、ナビが曲がれと言った所を曲がらず、真っ直ぐ行けと言った道を曲がってみたりする。


何度も行き来している僕のアパートの帰り道に、迷子になった事もあった。


だと言うのに、何故か翠は電車を使わない。


さすがに東京から沼津までは新幹線で来るだろうと勝手に思っていただけに、自分で車を運転して来ると聞けば、もしかして今日の面会は無理かも知れないと、覚悟を決める事も必要だ。


「まあ、連絡が有れば留置管理から直ぐに連絡が来る事になってるから、もう少し待ってみろよ」


近藤刑事の慰めの言葉も、僕の不安を和らげてはくれない。


それ程に翠の方向感覚の無さは絶望的だった。


それから少しして…。


「健二よ、もう4時なんだわ。留置場に入って待つか」


と、近藤刑事が済まなそうに言った。


「まあそうだね。来ないものは仕方ないからね」


翠に会えると言う喜びが大きかっただけに、僕の落胆も底しれぬほどに大きかった。


「俺もまだ署に残っているから、デカ部屋の方に連絡が有ったら直ぐ知らせるから、落ち込まないでな…」


近藤刑事の気遣いは有難いが、その言葉が余計に僕を落ち込ませた。


「別に来ないのは仕方ないんだけど、途中で何かあったかも知れないと思うと、心配でさ」


僕は強がりと本心を吐露してみせた。


面会受付時間終了の4時半を過ぎても、結局、翠は現れなかった。


味気無い夕食の弁当をただ胃袋に詰め込み、僕は薄暗い留置場の天井を意味も無く見つめていた。


おそらく5時だって、とっくに回っているだろう。


何か有ったんだろうか…。


例え間に合わないとしても、普通の人の考えなら、この場所に向かったのなら一度はここへ来るはずだ。


翠のことだから、差し入れくらいは無理を言って置いて行くだろう。


今日はもう面会は叶わないとしても、それくらいの融通は留置管理に頼んで置こう。


そう思った矢先、留置場のブザーが鳴った。


人の出入りを知らせるブザーだ。


近頃の警察では、夕方5時以降の取り調べは厳しく禁止されているので、そのブザーの音に違和感を覚えた。


留置場の出入口から滑り込んで来たのは近藤刑事だ。


僕が仕舞われている舎房の金網に張り付き、そばに来いと手招きをする。


「健二、今翠から電話が有ってな、間違って静岡警察署に行ったらしいんだわ」


そう言った近藤刑事が笑っている。


僕は僕で今まで気を揉んでいたことが、一瞬でバカ臭くなった。


「まったく…」


そう一言吐き捨てたものの、あまりにも翠らしくて笑うしかなかった。


「差し入れも色々持って来てるらしくてな、遠方という事もあって、特別に面会させてくれる様に頼んだから、もう少し待ってろ」


「面会出来るんですか」


僕は嬉しくなり、つい声が大きくなる。


「バカ野郎、声がでかいよ。他の奴に分からない様に弁護士面会って事にしてるから」


我が意を得たりとばかりに僕は大きく頷き、近藤刑事に深々と頭を下げた。


担当刑事に借りを作るのはあまり気は進まないが、今はとにかく、ただ翠に会いたかった。


結局翠がやって来たのは7時を少し回った頃だ。


「2番さん、弁護士面会です」


兼ねてからの打ち合わせ通り、5番の担当さんが僕を呼びに来た。


僕は逸る気持ちを抑え


「何だよこんな時間に」


と、舌打ちさえして見せる演技ぶりだ。


接見室に入ると、久しぶりの再会に気合を入れて来たのか、バッチリとメイクをした翠がアクリルガラスの向こうに座っていた。


「大変だったね」


笑いながら労いの言葉を掛けた僕に、突然翠がキレる。


「大変って、何が大変なのよ。大体、アンタがこんな所で捕まるから、私がこんな目に遭うんでしょ?」


まあ、確かに翠の言う事は正しいのだが、僕自身、話しの切っ掛けで言っただけで、怒らせようとして言ってる訳ではないのだ。


「それはそうだね…なんかゴメンね」


今日の事は僕が悪いとは思えないにしても、久々の再会を喧嘩で終わりたくはないと言う一心で、僕は素直に頭を下げた。


「ナビの設定で公共施設って言うのが有るのよ」


「ああ、有るね」


「警察署を選択して静岡県を選択すると静岡県の警察署が出てくるでしょ?」


「まあ、出てくるだろうね」


翠が何を言わんとしているかは良く分からないが、今は翠の話しに合わせておいた方が良さそうだ。


「そうしたら静岡警察署ってすぐ出てくるのよ」


「まあ、出ると思うよ」


「でしょ?だから静岡警察署に行っちゃったのよ」


「いやいや、確かにここも静岡県だけど、静岡県静岡市に静岡警察署がある訳で、ここは静岡県沼津市だから沼津警察署だって分かるでしょ?」


人生には、言わなかった方が良かったって事が時々ある。


この一言も、どうやらそんな一言だった様だ。


「静岡県だから静岡警察署だって誰だって思うじゃない。何よ、私が悪いって言うの?東京ならまだしも、こんな田舎にそんなに沢山警察署が在るなんて、なんで私に分かるのよ。大体アンタがこんな田舎で捕まるのが悪いんでしょ!」


「大体アンタが」の台詞が出た時の翠は、大体、何を行っても無駄だ。


「うん、そうだね…なんか、ほんとゴメンね」


「そうやって、すぐ謝れば済むと思って」


「いや、ほんとゴメン…」


「そもそもね、あれだけ覚醒剤だけはやらないでって頼んでたのに、なんでまたやってたのよ。今回だって覚醒剤をやってなかったら、帰ってこれてたじゃない」


いちいちご尤もでございます…と思いながら、僕は只管、翠に頭を下げ続けた。


「言っとくけど、雄樹君とも付き合い方考えて貰うからね」


「考えるってなんだよ」


幾ら自分が悪いと分かって居ても、男って生き物は仲間を非難されるのが嫌いだ。


「二人揃えば悪い事ばっかするんだから、言っとくけど、私だって女一人で待つって決めた以上、そう言う事も条件の一つだからね」


やはり口では翠に敵わない。


カチンと来て顔色を変える前に畳み掛けられてしまう。


況してやそれが、刑務所から出てくるまで待って居てくれる条件と有れば、従う他に選択の余地はない。


「分かったよ」


僕は力無く答えるしかなかった。


「どれくらい行きそうなの?」


「まあ、2年か2年半かな」


「それで済むの」


「多分それで済むと思う」


「ふぅん…」と言った翠の目から、涙が零れ落ちた。


その涙が、5、6年は務めに行くと思って居たものが、2年そこそこで住んだ事への安堵の涙なのか、それとも2年も離れ離れになる事の寂しさの涙なのか…。


多分両方なのだろうと思いながら、僕は翠の顔を何も言わず見つめて居た。


僕は翠の泣き顔が好きだ。


翠が泣くと、僕はどうしようもなく優しい気持ちになれる。


泣き顔を見るのは切ないけれど、守ってやりたくて、抱きしめてやりたくて、僕は世の中の全ての事に優しくなれる。


僕は翠の笑った顔が好きだ。


周りの人を巻き込む様に、翠が笑うと誰もがその笑顔に引き込まれてしまう。


誰彼かまわず振りまくその笑顔に、僕は嫉妬を覚える事さえ有るのだ。


僕は翠の怒った顔が好きだ。


摘んだら取れてしまいそうな小さな口を尖らせて、捲し立てる様に自分の意見ばかり言うけど、赤い顔で何処か天然な正論を押し付ける、翠の必死な怒った顔が大好きだ。


だから僕たちは、10年と言う年月を深刻な喧嘩も無く過ごして来られた。


そして僕は何より、翠に叱られる事が嫌いでは無い。

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