承 異世界にて

 景色はほとんど見ていなかったが、到着したのは大通りから少し外れた、四階建ての建物の前。どうやら、集合住宅のようだ。


 出入口には、コンシェルジュのような者が座っていた。長毛猫の獣人だった。あまりの可愛らしさに見とれてしまう。


「ああいうのが好みかね」


 アビゲールに見透かされて、戸惑う。


「祖父の家で、ああいう子を飼っていて――」


「おっと、その言葉は禁句だよ。いいかい、この世界には、『獣』はいない。お前たち人間と同じ、獣『人』しか存在していないのだよ」


 そうか、と口を押さえながらも、疑問符を浮かべる。では、彼らのベースとなった猫やキツネは一体どこから来てどこに去っていったのだろうか。


「しまった、ここには上下装置がない」


 アビゲールがぼやいて、無念そうに階段を見た。エレベーターのことだろうか。


「まったく、これではお前のところに行く前に疲弊してしまうよ」


 と愚痴をこぼしながら、腰を曲げて階段を登る。その姿は、まるで『おじいちゃん』だ。

 四階分登りきるのは、エリカにもまた重労働であった。そこで初めて空腹を感じる。


 フロアには三部屋あり、一番右の扉の前でアビゲールが立ち止まる。

 ドアには、ドアノブに相当するものがなかった。アビゲールがその真ん中あたりを、三度指でつつくと、横にスライドして開いた。


「魔力認証は初めて見るかね?」


「あの、あたしの世界には魔力とかなくて……。えっと、創作の中でなら、魔法とかありましたけど」


「ふーん?」


 アビゲールは首を傾げながら室内へ入った。その後に続く。

 室内は小綺麗で、整っていた。既に家具が運び込まれている。

 大きな窓には刺繍されたカーテン、部屋の真ん中には丸テーブルと二対の椅子。それとは別に、ロッキングチェアと足置きまである。

 隅のベッドを見たとき、少し緊張してしまう。


 アビゲールはそれらを順繰りに触れて回っている。不備がないか確かめているようだ。


「こっちが、浴室だよ。使い方は分かるかね」


 指さされた方へ向かうと、またノブのないドア。さすがに風呂には認証の必要なカギはかかっていないだろうと思い、つついてみると、入り口のドアのようにスライドした。


 入って左手がトイレだった。蓋のない洋式トイレのようなもので、中を覗くと奈落があった。さすがに水洗ではないか。何かを落とすようなことがあれば、二度と取り戻すことはできないだろう。


 右手側はつるりとした素材の壁になっていて、天井から蓮の花を逆さにしたような物体が下がっている。その横からは紐が垂れていて、おそらくそれを引っ張るのだろう。隅には排水溝らしい穴が開いている。撥水素材らしい壁には、石鹸置きもあった。


 トイレとシャワールームの間に遮るものがないのはやや難ありだが、それでも元の世界と変わらぬ文明レベルの生活は送れそうだと安堵する。


「まったく、毛布の色が発注と違う!」


 部屋の方からアビゲールの声が聞こえた。


「壁にはもう傷がついている。搬入時のものだな」


 ぶつぶつと、ベッドの側の壁を撫でている。


「ずいぶんいいお部屋みたいですけど、本当にあたしが住んでもいいのですか?」


 おずおずと尋ねると、アビゲールは腕組みして頷いた。


「まあ、本当は二番目の息子のために用意したんだ。でも、遠方に留学に行ってしまってね。無駄にならず、ちょうどよかった」


「そ、そうですか」


「お前は女の子だから、必要なものはたくさんあるだろう。身ぎれいにするための出費は惜しまないよ。多少の浪費も目をつぶろう。んふふ、一回でいいから、若い女の我が儘を思う存分聞いてやりたかったんだ。妻はなにぶん謙虚でね、そこが可愛いのだけれど――」


 アビゲールは手を擦り合わせた。妻が愛しいのならば、愛人など持たずともよいだろうに。男の気持ちは分からない。


「ところでお前――」


 アビゲールは目を見開く。


「何歳なのだっけ?」


「じゅ、十八歳です」


「ほう、もう少し若く見えたが」


 その言葉に俯く。ぱっつん前髪のボブにしてから、どうも幼く見られてしまう。


「すみません」


「いやいや、幼過ぎても困るからいいんだよ」


 犬歯の間から笑みをこぼすアビゲール。


「学徒だから、結婚はしていないのかい?」


「はい、元の世界では、確か平均結婚年齢は三十歳くらいです」


 日本の話をすると興味深がることはもう分かっているため、あえて付け加える。


「本当かい、それはにわかには信じがたいね」


 それはエリカも同感だった。二十五歳くらいで結婚したいと思っていた。もう無理そうだが。


「じゃあ、男は初めてかい?」


 その台詞に、ドキリとする。


 その問いに対しては、否だ。

 高校時代にさして好きでもなかった先輩と初体験を済ませ、大学に入学してすぐ、サークルの同輩と付き合った。


 しまった、きっとこのキツネも、大半の男のように初物信仰を掲げているのだろう。若い愛人に求めることなど、それしかない。

 正直に答えれば、放逐されるか。嘘をついてもいずれバレる。


 答えあぐねるエリカに、アビゲールは声を上げて笑った。


「誤解するでないよ。私は別にどちらでもいい。ただ、初回の対応を間違えないようにしなくては、と思っただけだ」


 その寛大な態度に言葉を失っていると、アビゲールは窓の外を確認した。太陽の位置を見たのだと分かった。


「じゃあ、私は帰るから」

「もう帰るのですか?」


 さっそくこれから、を覚悟していたエリカは唖然と問うた。


「うん、今日は急だったから、仕事を放り出してきたんだ。色々あって疲れただろう。今日はゆっくり休むといいよ」


 あまりに優しい言葉に、涙がこぼれる。


「おやおや、泣くほどひどいことをした覚えはないよ。まだ、ね」


 アビゲールは大仰に肩をすくめた。冗談を言ってくれているのだ。


「分からないことがたくさんあると思うから、すぐに人を寄越す。全部その者に尋ねなさい。じゃあまたね」


 ひらひらと手を振って、キツネは去って行く。太く柔らかそうな尻尾が左右に揺れていた。


 しばらくして扉がノックされた。

 ノブがないため戸惑うが、三回突いたら開いた。


 そこに立つ人物を陶然と見上げる。

 百六十センチのエリカよりも、頭一つ分大きいその人物は、猫の獣人だった。

 猫人は入り口のコンシェルジュで経験済みだが、その人物はあまりに美しかった。灰色のつややかな毛並みに、吸い込まれそうな緑の瞳。

 『ロシアンブルー』だと思った。

 アビゲールと違ってひどく姿勢がよく、身体にフィットした服を着ている。大きな胸もくびれた腰も、長い脚も、芸能人顔負けだった。長い尻尾が腰のあたりで揺れている。


「お前がアビゲールの愛人か」


 冷たい声で、その猫は言った。


「まったく、異世界人の世話など、面倒な仕事を押し付けて」


「あの、あなたは?」


「私はタリア。アビゲールの私兵団の副団長をしている。非番の時にお前の面倒を見るように言われた」


「それは……ええと、よろしくお願いします」


「そんなにオドオドするな。ほら、とりあえず着替えを持ってきてやったから、そんな目立つ服は脱げ」


 押し付けられた袋を覗くと、恐らく新品であろう衣料が詰まっていた。


「それから、メシを食いに行こう」


 その美しい猫人タリアは、エリカを外に連れ出し、街を案内してくれた。種族問わず、友達らしい人たちも紹介してくれた。

 アビゲールの息子同様エリカに同情的で、つんけんした態度だが、言葉の端に優しさが滲む。

 近所に住んでいるらしく、いつでも遊びに来いと言ってくれた。そのとき不覚にも、エリカはその豊かな胸に顔をうずめて泣いてしまった。


 タリアは色々教えてくれた。

 ここが『亡王都市レヒーネ』と呼ばれているということ。アビゲールは都市で三本の指に入る大商人だということ。

 空に浮かぶのは、エルフが打ち上げた『人工太陽』なのだということ。


 そしてこの世界には、『人間』、『亜神族エルフ』、『獣人』の三種族が存在しており、異種族の愛人を持つことが、裕福層の間での流行なのだそうだ。なぜなら、異種族間では子ができないから。

 妊娠の心配なく性を楽しみたいという下卑た理由は、まぁ理解できなくもない。


 また、病気の心配についてはアビゲールも同様らしく、タリア経由で三種類の薬を与えられた。エルフの秘薬だという。それを三日分飲み終えてから、アビゲールとの関係が始まるらしい。彼自身も、きちんと飲むそうだ。

 

 薬を飲み終えた翌晩、宣告通りアビゲールはやって来た。

 緊張でがちがちに固まるエリカに酒を勧めて……気が付いたらすべて終わっていた。


 優しくしてくれるのは初回だけだと思っていたが、彼は、エリカが今まで付き合ったどの男よりも遥かに紳士的だった。

 アブノーマルなプレイを求めてくることもなかったし、彼が自分で言った通り、年齢のせいか行為自体も淡白だった。

 お風呂もきちんと入っているようで、いつも石鹸の香りがした。


 ただ、終わった後に下腹部が毛まみれになるのは辟易とした。

 この世界にシャワーがあって、本当に良かったと思う。



 それからなんだかんだ一年経過した。

 アビゲールとはだいぶ気安い関係になったし、タリアやその友人たちとも仲良くなれた。

 エリカの人生を台無しにしてくれた魔導師見習いのメリアンは謝罪に来てくれた。ぶっ殺してやろうと思ったが、無抵抗で殴られる彼を見て怒りが融解した。今ではたまに飲みに行く仲だ。

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