旅は道連れ地獄まで

目門

1話目

靴の下でガラス片が小さく音を鳴らした。たぶん、割れたんだろう。

背後には開かれた窓があった。その窓には腕が通せるほどの穴が開いている。今しがた自分で開けたものだ。足元には細かいガラス片が散らばっている。

前方には廊下が伸びている。人の気配はなかった。当たり前だ。事前の調査では、この家の住人である夫婦は共働きで、今の時間は留守にしている。

廊下を進むとリビングのような場所に出た。広い空間に高そうな家具が置かれている。飾り棚には派手な皿が数枚並んでいた。食材よりも目立ちそうな器は、まさに飾られるためだけのデザインだ。

白いソファに腰を下ろす。豪華ではあるが、物をしまうような家具は置いてなかった。部屋を眺めていると自然と力が入り、奥歯を噛みしめてリビングを後にする。


廊下の奥の方へ進んでいくと、今度は少し小さい部屋にたどり着いた。

さきほどのリビングと違って簡素で暗い、物置のような部屋だ。壁のクローゼットと部屋の中心にある机意外に家具はない。クローゼットの中は何が入っているのか分からない箱や旅行用らしき大きなトランクケースがいくつか入っているだけだった。埃をかぶっているところを見るに、本当にただの物置かもしれない。


「ん?ここだけ使ってる跡があるな」


クローゼットの中は埃にまみれていたが、片隅に置かれている一際大きな赤いトランクケースには埃がなかった。引きずって取り出しているのか、革張りの少し前に流行ったデザインのトランクケースはところどころ擦り切れて痛んでいた。

首を傾げて観察していると、遠くの方から何かが聞こえてきた。


「け、警察?」


耳の奥で唸るようなサイレンの音がだんだんと近づいてくる。

予想外の事態に焦ってしまう。金目のものは見つけていない。だが、警察が近づいてきている状況で逃げないわけにもいかない。

しかし、何の成果もなく帰ることに後ろ髪を強く引っ張られた。


「くそっ!運が悪いな」


次第に大きくなっていくサイレンに急かされる。地団太を踏み、目に付いたあの赤いトランクケースに手を伸ばした。想像以上に重いトランクケースを半ば引きずるようにして、来た道を急いで戻る。


トランクと身体を押し込むように窓から抜け出すと近くに止めてあった車に乗り込んだ。

一瞬かからないエンジンに冷や汗が流れるもようやくかかったエンジンに胸をなでおろす暇もなく一目散にその場を後にした。


あの場を離れた道中でも気は抜けず、すっかり見慣れた古いアパートメントの駐車場に車を停めてようやく息を吐いた。

固まった体と張り裂けそうな心臓が落ち着くのにしばらくがかかった。数分後、大きく息を吐き出して車を降りる。思わず持ってきてしまったトランクケースも運び出す。さっきよりも少しばかり軽く感じた。

錆ていて、今にも崩れてしまいそうな階段を上り203号と書かれている扉を開く。後ろ手に閉めると甲高い嫌な音がした。

一部屋しかない空間には何もなかった。椅子もなければ机もない。部屋の中心にトランクケースを置く。それだけで部屋が少し華やいで見える。

そうだ、ちょうど備え付けの押し入れの中も空だった。しばらくそこに入れておくのも良いかもしれない。

しかし、しまう前に念のためにも中身を確認しようとトランクケースの蓋に手をかける。どうやら複雑な鍵はかかってないらしい。金具を捻り留め具を外して蓋を開ける。


中に入っているのはせいぜい衣服か、使わなくなったガラクタくらいだろう。

慌てて持ってきてしまったものだから大きな期待はしていない。


だが…


「は?子ども!?」


果たして、トランクケースの中に人が入っているなんて誰が想像しただろう。

身体を折り曲げて小さく身を縮めている子どもがこちらを見ていた。

開いた口がふさがらないとはこのことだろう。呆気にとられ、起き上がり身じろぎする子どもを眺めていると突然目の前に火花が散った。

次に鼻と口の間に衝撃が走った。その衝撃が痛みだと気づいたのは少し遅れてだった。何が起きたのか分からない。鼻を押さえ、鼻血が出ていないかを確認する。良かった。血は出ていない。

前を見ると子どもが拳を構えていた。少しばかり赤い拳に、この子どもに殴られたのだと気づいた。


「何するんだ!」


ようやく言葉を発することができた。手で鼻を押さえているために声がくぐもっている。

子どもは動揺した様子もなく静かにこちらを睨んでいた。敵意に溢れている。


「それはこっちのセリフだ。この誘拐犯」

「ゆ、誘拐犯?」


身に覚えのない言葉に面食らってしまう。しかし、知らなかったとはいえ盗んできたトランクケースに子どもが入っていたのだ。この子どもからすれば俺は誘拐犯なのだろう。


「お、俺は泥棒だ!お前が入ってるなんて知らなかったんだ。慌てて盗んで…これは事故だ!」

「事故でもドロボウのじてんで犯罪じゃん。それに事実上のユウカイだろ」


怖気のない正論に閉口してしまう。

いや、待て。この状況は良くない。泥棒ならばいざ知らず、誘拐犯になるつもりはない。

ここは穏便にこの子どもに他言されずに家に帰ってもらうべきだ。


「わかった」

「なにが?」

「俺としても誘拐犯呼ばわりは不本意だ。だから、俺のことを誰にも言わないなら、お前を元いた家に帰してやる」


本心で言っている。きっとこの子どもは帰りたくて仕方がないはずだ。

俺の言葉に破顔して大きくうなずき、言う通りにするから早く帰らせて!と声をあげる子どもを想像して視線を下げる。


「いやだ」


苦虫を噛み潰したような子どもらしからぬ表情をして言った。

正直、この子どもには愛想というものがない。


いや、そんな場合ではない。俺としてはなんとしても帰ってもらわないと困る。そして俺のことを誰かに言われても困る。


「いうことを聞かないと殺すぞ!殺されたくなかったら大人しく言うことを聞け!」

「できもしないクセに。そんなことできるドキョウがあるなら始めからやってるよ」


遠回しに臆病者と言われた気がするが、事実その通りだ。殺すなんて物騒なことを言ったが、俺にはそんなことできない。誘拐犯ですら嫌気がさすのに殺人犯になんてなれるはずもない。

大人げないことも言って、それでも帰ろうとしない子どもに俺はとうとう上がっていた肩を下げた。


「そんなに帰りたくないってんなら、お前は何がしたいんだよ」


投げやりに言うと、子どもは細くしていた目を一瞬だけ丸く開かせた。やっと子どもらしい表情を見たような気がした。


「…私をここに置いておけ」

「はぁ?なんだそりゃ、ふざけんな」


聞き間違いだと思った。訊き間違いだと思いたかった。

子どもの要求は簡単なものだったが、今の俺にとって一番聞きたくない要求でもあった。


「私の要求がのめないなら、ケイサツにお前のこと言ってやる。それがイヤなら大人しく従え」


いったい誰がこの子どもにそんな言葉を覚えさせたのだろう。俺の知る子どもは要求なんてしてこない。

子どもらしいごっこ遊びめいた冗談かとも思ったが、その目は本気だ。

今、この子どもを追い出せばすぐさま警察がやってくるだろう。


「…分かった。不承不承ながらお前の要求をのんでやる」


生意気な勝ち誇った表情をする子どもなんて見たくなかった。

形式的に左手を差し出すと子どもはつられて手を差し出してきた。握手をする。

とても小さくて細い手だった。

よく見れば子ども栗毛の髪は痛んでいて、赤い古着のシャツはヨレヨレだ。この子どもが入っていた赤いトランクケースが視界に入る。


「お前もしかして女の子?」

「そういうお前はおっさんだろ」


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