第4話
・ネス・スミスの記憶を彼の口調で
ジュンコにもらったカレンダー。
三年前のものだが、俺は壁からはがすつもりはない。役に立つかどうかよく考えた結果、役に立つからだ。日にちや曜日より、ずっと大切なことが書かれているよ。
日本語の平仮名でぶっとく書かれた文字に、不思議とひかれる。ジュンコに言わせれば「外国人っぽい」らしい。
俺は黒人だ。しかし白色の友人も黄色の友人もいる恵まれた人間だ。食い物も寝るところにも不自由はない。車もあるし、病院にも行ける。仕事をし、給料もちゃんといただいている。人並みに稼いでいる。
ふと思う。
なんのために働いたんだ?
分からない。何か欲しいものがあったのか――そりゃ、あったさ。客の笑顔や歓声。拍手に次のステージ――でも、それは与えられるものではあるが、給料とは別で、この仕事とは別じゃないか?
頭をつかうのは苦手だ。これが正しいとか、駄目とか、ごちゃごちゃ言い合うことも不愉快で俺は思ったままにやりたい。いったん保留とか、時間をかけてとか大嫌いだった。
そんな俺はライムが大好きだ。ジェイにドレー、ラビットもいい。
ラビットなんて最高だね。茶目っ気がある毒舌でもって、舌の回る白人にろくなやつはいないっていう証拠だ。もちろん、ほめ言葉さ。
感覚が合うと群れたがるのは人間の本能らしい。共感できる言葉を放つと人間は寄ってくる。一人じゃ生きられない社会だから協力しないとな。
だが一人で生き抜いたやつもいる。そいつは伝説になった。そして言った。
ばからしい――そうして始まるライムショウは、また今度にしよう。話がそれた。ああ、なんの話だっけ? ああ、あいつの話だった。
「ゲストの登場だ」
ニッキーがP・Cから距離をとった。ナシンが怯えきった表情で俺に抱きついてくる。マーヤーよりは信頼されているらしかった。
「ちょっと離れようか」俺はメイシンを誘導した。
マーヤーとジュンコの後ろにニッキー。俺たちはその後ろについた。
新人のナシンには気味悪い光景だろう。マネキンが痙攣を起こしたように震えだし、小鹿のように四つん這いになる。ノイズのような気味の悪い不可解な音――飲みすぎた時のゲップや嘔吐に似た音も混じり選挙演説のように、延々とながれた。
マネキンの肌が徐々に変化する。雪のような白色から、真紅へ。フェラーリを連想できる艶やかなものならいいが、どう考えても、肉そのものだ。肉に線が入っていく。白と青。頭の先からつま先まで、無数のラインが肉色のマネキンを埋め尽くす。確認できないが、赤色の線もあるのだろう。つまり静脈と動脈と神経が浮き出ているってことだ。うるさい音は、さながら発声練習といったところだ。ずいぶん音痴だ。
ナシンが気持ち悪い、と言い出だす前に口を塞いだ。
「じきに馴れるさ」そう口添えすると、彼女は俺の手を握り締めた。
そしてP・Cからの音が、人間語に変わった。
「ここ、わた、あな」
日本語にちかい発音だった。肉色だった肌がきめ細やかな白へ、黄色へと変わる。やがて、マーヤーと同じブラウンの肌に落ち着いた。
「はじめまして。マーヤー・ガンディーと申します」
マーヤーは綺麗な英語で挨拶をした。
「はじめまして、ま、マーヤー」宇宙人が英語を喋った。
「私はジュンコ・ナミシマです」ジュンコも英語で挨拶すると、宇宙人は復唱した。
「ジュ、ジューコ……ジュンコ」
その調子でニッキー、俺、ナシンが続けて挨拶する。ナシンはひきつった笑顔だった。
「あなたの名前を、お聞きしたい」
マーヤーの問いは率直だが、この場合は仕方がなかったのさ。
「我らは、名前で個体を識別しています。あなたというのは個々の理解の妨げになる場合もあるからです。我々はあなたを理解したい。その初歩として名前が必要なのです」
相変わらずややこしい言い方をする。普通に聞きゃあいいのに。
「名前……私は、ネーティ……」
「ネーティ? ネーティという名前ですか?」マーヤーは聞き返した。
「はい。ネーティと申します」
全裸でスキンヘッドの子供が、まっすぐにマーヤーを見上げる。
「マーヤー、この名前はいけないのでしょうか」
俺は、マーヤーに異変を感じた。あの、ひょうひょうとした屁理屈マーヤーが、言葉を失っている。言葉は人間の武器だろうが。
「いえ。素敵な名前ですね。ネーティ」
マーヤーが唾をのむ音が聞こえた。動揺しているのか?
ネーティはニコリともせず尋ねた。
「素敵なのは、マーヤーの体です。白、青、赤……」
「これは服です。身を守り、体温を調節する。また、国や宗教、立場など――」
マーヤーが自分の、馬鹿らしいセンスを説明すると、ネーティの体が変化する。SF映画のごとく、皮膚が意思をもった液体のように動き、やがて白のクルタに変化した。
「マーヤー、あなたの頭部も服ですか」
「いいえ、僕に限りターバンという布を巻いています。他の者は髪の毛という、身体の一部で、それを自分の好みに整えることが共通の趣味なのです……ネーティはどれか、気にいった髪型がありますか?」
ネーティはゆっくりとナシンを指差し、答えた。
「このなかではナシンの髪が機能面で優れています。模倣してもよろしいでしょうか」
ナシンは石像のように動かない。汗を浮かべ、相変わらずひきつった笑顔で黙っている。俺は肘で軽く突いてやった。
「あ、ええ。どうぞ、どうぞ」ナシンが日本人に思えた。
ネーティの小さな頭から天文学的数の毛がずるずると伸びてくる。それを見たナシンは後ろ向きに倒れちまった。
宇宙人の形態変化をはじめて拝見するやつは、だいたい気絶する。俺だってそうだったからな。子供姿なのは悪意をこめていると思ったさ。だから、その後に控えている会食なんて、耐えられるものじゃない。
部屋にテーブルを運び、食器と料理を運び、礼儀作法を一から教えるだけで疲れるのに、加えて練習と実戦に付き合わなきゃならない。
テーブルの上はもう、皿が割れる、フォークが曲げられる、色とりどりの料理が散らばりカオスだった。
でも意外なことに今回、最もネーティの面倒を見たのは、ナシンだったな。
「教員免許を取る際、育児ヘルパーの免許も取りましたから」そう言うが実際に育児を経験したような慣れた手際だった。見かけによらずタフな女だ。
ジュンコの出番は無さそうだ。彼女はスシをすました様子で口にしていた。
「マーヤーのように素手で食べてはいけないのでしょうか」
ネーティの質問は当然といえる。俺は真似したくはないが。
「かまいませんよ。しかしこれはこれで、決まりがあります。まず左手は使わない。使うのは右手だけです」マーヤーは右手だけでパンを器用にちぎって、スープに浸し口へ入れる。
でもほとんどのインド人はこんな食べかたなんてしない、いつか本人が言ってたっけ。
「どうしてですか」
「右手は浄、左手は不浄とされているからです。でも手が汚れる。衛生面の問題もありますから、おすすめできません。みんなのように箸など食器を使うのが好ましい」
「何故マーヤーは自ら不利なことをするのですか」
「文化です。些細なことですが、これは僕の先祖から受け継いだものの、一つですから、後世に伝えなければいけないのです」
そこでジュンコが口を開いた。
「ネーティには、そういった伝えることはありませんか? 例えば、両親から授かった言葉とか、思想など何でもかまいません」
「ありません」ネーティは機械的に返事しやがった。
今回の、ネーティってヤツは、あっさりしてやがる。前回のタローはもっと子供っぽいやつだった。でも、何も知らないというところは共通していたな。
「私は両親というものを理解できないのです。私が言葉を喋れることは両親の関与していることなのでしょうか」
「それについては、まず俺のルーツを知ってもらいたい」
いつものどおりならニッキーの半生が語られるはずだった。
ここで、ちょっとした事件がおきたんだ。
ナシンが小さい声を上げた。割れた皿に触れて指の先を切ったんだ。ティッシュペーパーで五分間ぐらい圧迫すれば止まるような、かわいい出血だった。ナプキンで止血する俺を、ネーティは凝視していたんだ。
身を乗り出してナシンの治療を観察し、ネーティの質問が始まる。いやな予感がした。
「ナシンはどうしたのですか」
「割れた皿で指を切っただけです。問題はありませんよ」ジュンコが説明したんだがな。
「出血も、たいしたことないですし」
この説明がまずかったんだ。ネーティはジュンコに質問攻めしてきやがった。
「出血とは赤い液体が出ることですか」
「ええ。痛みとともに」
「痛みとはなんですか」
「触覚の一つで、外傷を知らせる不快感です」
「ナシンの触れた皿には私も触れました。ならば出血をするのですね」
テーブルに、これみよがしに差し出されたネーティの細い指から、赤い血がぽとぽと落ちた。俺は目を疑った。日本刀でも傷つかないP・Cの皮膚が、皿の破片で簡単に切れてしまったからだ。
「そして痛み。不快感が」
「ナシンに痛みはありません!」
マーヤーが大声を上げ否定したのは、少なくとも俺にとって初めてのことだった。
「そうだろう、ナシン!」
呆然としたね。怪我をした本人、ナシンもただ頷いていたな。
「この程度の出血は、傷口を圧迫すれば数分で止まります。痛みなどない。ジュンコ、救急セットを用意してくれ。ニッキー、君はネーティをリラックスさせて。ネスはナシンを休憩室へ、早く!」
マーヤーが、理由の分からない指示を出したのも初めてだった。この場でぼおっとしていると、崇めるべき瘤牛でも蹴飛ばしてしまう、そんな剣幕だった。
女性用休憩室にジュンコとマーヤーがやってきたのは、ナシンの傷口が塞ぎきった後だった。
ジュンコは腑に落ちないという表情を浮かべ、マーヤーは赤ん坊のように指を咥えていたっけ。
「私、とんでもないことを……」
ナシンは落胆しているが、俺には慰めの言葉が思い浮かばない。だって、理由が不明だからな。マーヤーの考えていることのすべてはわからないんだ。
「いや、君のミスではないよ。予想外の事例なので用心をしただけさ。気にしないで」
マーヤーはそう言って、ソファに座り、一点を見つめる。どうやらスウィッチが入る寸前らしい。
俺はジュンコに疑問を口にしたよ。
「ネーティの出血は止まったかい?」
「ええ。ニッキーが付き添っている。何かあれば連絡がくる」
ジュンコが答えると、しばらくの空白時間ができちまった。俺はがまんしたぞ。
だが全員が黙っているのが俺には耐えられなかった。分からないなら質問をしたさ。
「で、用心って、何の?」
俺のストレートな問いに、我らがマーヤー・ガンディーはようやく口を開いた。
「話半分に聞いて欲しい。催眠状態の人間に焼き鏝といって、氷を皮膚に押し当てると、火傷をした事例がある」
ターバンを脱いで、女のように長い髪を正すマーヤーの声は冷静だった。
「脳が刺激を誤解するのさ。冷たいと熱い、その判別を間違えた。さらに極端な例をいうと、あなたは犬だ、と催眠をかけると、四つん這いになってバウワウと吠える」
そんなTVショウを観たことがある。でも俺はあんなものは信用しない。いや誰だって、観客と前もって計画しているのだと思っている。
「ネーティは、そこまで馬鹿じゃない」
俺は手をひらひらさせて言った。
「ちゃんと物事を理解できるやつさ」
「理解とは疑問からうまれるものであって、理解するには実行も必要さ」
即刻マーヤーは返事をしたね。
「実行するには模倣が最も近道だ。ネーティが知っているのは、服や毛髪の件で、僕たちも知っている。ネーティの実行した出血行為……割れた皿に触れたナシンが出血したなら、自分も出血するはずだとしたなら?」
頭がくらくらする言い方だった。
「もしあのまま痛みを知ろうと実行したならば、ネーティ自身が痛みを忘れる方法を、僕たちは教えなきゃならない。ある対象の感覚に対し正常か異常という判断は、対象への長い観察に基づくものだ。そこまでネーティのことを、僕たちは知らない」
「つまり、痛覚なんてものは簡単に言葉で教育できるものではない、ということです」ナシンが素早く答えて、ついでに質問する。
俺にはちょいと理解できん世界だった。
「でも、小説にはそういう描写がありますよね? いくらでも説明できるのでは」
「じゃあ、ナシンちゃんには煙草を吸いたくてたまらない、現在の僕の心情を言葉で表せるかい」
「いらいらする、落ち着かない、考えがまとまらない、とか」
「ちがうね。僕は安定剤のかわりに煙草を吸ってはいない。性欲のはけぐちとして吸っている。レイプする感覚を麻痺させたい欲求だよ」
「そんなの、表現の違いじゃないですか」
「そういう屁理屈を言わずにいられないほどの嫌悪感であるから吸いたい、というのが本当の僕の気分だ。さて、こんなことを今日知り合ったばかりの人に教えて再教育することができるかい」
ナシンは無言になって首を横に振った。納得したのかよ?
「つまり……どういうことだ?」
頭が爆発しそうだ。俺には質問するしかできない。マーヤーはこう返した。
「一般的な表現というものはあくまで常識の範疇だから、天邪鬼には通用しないってこと。そしてネーティのような正直者は一般生活によって、いつしか社会意識を持つけれど、僕はそれまで付き合う義理も人情もないってこと」
「論点がズレてるぞ。痛みはどうした?」
「精神が成熟するまで痛みに苦しむ子供を観察したいのかってことさ。僕は、医者じゃないから嫌だね」
わかるようで、わからない。でも、こういうことだろう。
ネーティは俺たちを理解しようとしている。心をこめて、体を張ってだ。
それを俺たちは、どう解釈すればいいのか? 俺たちはネーティの身体が目当てだから、といって精神には無頓着でいいのか? ネーティは子供だ。赤ん坊が喋っている状態だから、俺たちがすべてなのだから、と。
ああ……マーヤー、そう言いたいならそう言ってくれ。こんな頭をつかう会話は、疲れるだけだから。
こんな話をするのは時間の無駄か?
それは人それぞれだ。そのとき俺は無駄に思ったね。簡単な結論を、ぐだぐだと引き伸ばしていたマーヤーを少々、恨んだ。こんなことしている間にインプレッサを洗車できたのにってな。
でも、どうやらあいつにとっては無駄じゃない時間だった。むしろ必要だったのさ。
何故かって?
それを知りたい?
なら俺の意見でいいかな。あくまで、俺の意見だが。
会話さ。人の話は聞かなくちゃいけない。
でも、真実というのは疑わないといけない。
なんのためにと聞かれれば、あいつはこう言うだろうな。
にんげんだもの。
#
そうだね。ボク、いや彼はもっともボクを理解しているのかもしれない。
ボクは人間だった。ただの、ごく普通の、馬鹿な子供だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます