西瓜の名産地

鯉実ちと紗

 落窪さんに呼び出されたその日は、四時過ぎごろから夕立になった。開け放っていた窓から一気に湿気が入り込み、濡れてもいないのに体中がべたつくように感じた。

「ここの演出を決めかねているんだ」

 落窪さんは不気味なほど緩慢ないつもの口調で、低い声を鳴らした。頭上では埃の詰まった冷房が、うんうんと苦しそうな音を立てている。

「スオウが首だけになった妹に、口移しで西瓜を与えるところは序盤の山場なんだ。だが、わかるだろう? スオウが両手に持っているのは実際は西瓜で、銀の盆に載っている古い西瓜と取り換えられようとしているところだ。一方、妹の首は奥の台座に“象徴”としてある。役者が実際に演じるんだ。その状態で、スオウがどう、人間としての妹の首と接吻するかが問題だ。なあ、生半可なキスや口づけなんかじゃない、接吻なんだよ」

 妹の首役は、劇団の“ダークヒロイン”愛子ちゃんが担当するのだと落窪さんは言う。顎下で切り揃えた黒髪、雪のように白い肌、宇宙を吸い込む石炭袋のような大きな瞳、薄い唇。なるほど、凍りついた天使のような愛子ちゃんなら、この芝居の雰囲気にもぴったり合いそうだ。袖のない白いワンピースを着て、音も立てずに舞台に登場する愛子ちゃんを、僕は思い浮かべた。

 遠くで、地鳴りのような雷の音がする。雨はそれをかき消すように、プレハブ造りのサークル棟の屋根を叩いていた。

 落窪さんと僕は、大学の同じ演劇サークル「劇団TNK」の先輩・後輩にあたる(劇団名は、ザ・ビートルズの好きな創立メンバーが、同アーティストの楽曲「Tomorrow Never Knows」にちなんで名づけたものだというが、真相は定かではない)。四年生の落窪さんは、この八月から自分の卒業公演の脚本を書いていた。公演の予定はまだ半年余り先だから、卒業記念にふさわしく、ある程度規模の大きな舞台にするつもりだろう。僕がこのことを知ったのはちょうど一週間前、落窪さんに最初にシナリオの構想を見せてもらったときだった。そのときはざっくりとしたあらすじしか書かれていなかったが、今回はより細かいセリフや演出などが書きこまれている。

 そうだ! と突然、落窪さんは声を上げた。

「スオウが西瓜を取り換えようとした瞬間に、クラタが慌てて妹に接吻することにしよう! これは面白い」

 興奮のまま、落窪さんは悪魔のような筆跡で、プリントアウトされた脚本案の余白に殴り書いていく。

「それは、ストーリー全体の意図するところとしては問題ないの?」

 僕は半ば呆れて言った。

「面白ければいい。クライマックスにもつながるし、むしろちょうどいいじゃないか」

 それなら、まあよかった、と僕は黙ったまま思う。落窪さんはいつもそうだ。僕に相談しておきながら、そのたび勝手に自己解決している。

僕は話を聞きながら、なんだか自分がクラタを演じる気になってしまっていた。そして、愛子ちゃんにたとえ演技でも「接吻」するのかと思うと、少しどきどきした。それを冗談交じりに落窪さんに言うと、別に真似だけでいいんだぞ、と真顔で釘を刺されて、ちょっとがっかりした。

 僕が落窪さんに敬語を使わないのは、僕と落窪さんが小学校の同級生だからである。僕たちの地元は千葉市の郊外。僕が一浪したから学年が一つ違うわけだ。小学生の当時は、そんなに仲良くはなかったと記憶している。クラスも違っていたから、顔を知っていた程度だったはずだ。それがこの劇団で再会してからは、たぶん今ではお互いに唯一の友人とも言える存在になっていると思う。敬語を使わない割に「さん」という敬称をつけてはいるが、それはもう愛称みたいなものだ。そして僕は、このようにしばしば、劇団の演出家兼脚本家である彼の作品制作に付き合わされているのであった。

 今回の脚本は、落窪さんの夢から着想を得たそうだ。オペラでも有名な「サロメ」をオマージュしたものとなっている。あらすじは次のとおりだ。


 同郷のクラタとスオウさんは、大学時代に先輩・後輩だった間柄だ。二人は同郷で、西瓜の名産地である岩手県尾花沢市の生まれである。スオウさんは交通事故で両親と妹を同時に亡くすと、精神的錯乱のなかでマンションの自室から飛び降り、自殺未遂を起こす。脳に損傷が残ったこともあり、仕事は辞めざるを得なかったが、日常生活に支障はないとのことで、数カ月の入院ののち、退院。逗子で鮮魚店を営んでいる母方の叔父のところへ引き取られる。時は二月。クラタがスオウさんのもとを訪れるところから物語は始まる。

 スオウさんは自室に案内すると、「見せたいものがある」という。それはなんと「銀の皿に載った妹の首だ」というのだった。しかし、クラタが見ると、それはただの大きな丸い西瓜である。スオウさんは「妹を父から独占するために、父と母、そして妹を殺し、こうして妹の首を愛でているのだ」というのだった。スオウさんは妹に口移しで名産の西瓜を与えるというが、実際は盆の上の西瓜を取り換えているだけであった。

 それから一週間後、クラタは地元尾花沢にスオウさんを連れ出すことに成功する。クラタは実家に招待するが、その家は空き家といっていいほどの廃墟だった。部屋に唯一残された冷蔵庫からクラタが出して見せたのは、銀の盆に載った二つの大きな西瓜である。

「これは僕の妹と、血のつながらない母の首だ」

 と告げるクラタ。それを聞いたスオウさんは笑って言うのだった。

「俺に勝ったつもりか。愚かな奴め」

 スオウさんは西瓜を思い切り床に打ち付け、割ってしまう。

「うまいから食ってみろよ。これは人間の首なんかじゃない。血も通わない冷え切った西瓜だ」

 スオウさんはすくった西瓜をクラタに差し出す。しかし、クラタは自らの手で西瓜の真っ赤な実をほじくり出して、カブトムシのようにすする――。そこで幕は閉じる。


 その間に、スオウさんの両親の出会いや、彼が生まれた経緯などについても、奇想天外なストーリーが繰り広げられるが、大筋はこうした感じだ。

 落窪さんの脚本は、これまで一度も劇団の本公演には採用されたことがなかった。日の目を見たのは、劇団非公式の自主プロジェクト公演だけである。むろん、今回の卒業公演もそうだ。落窪さんは超然とした見た目に似合わず、意外と野心的な人間だから、おそらく本音では満足していないだろう。せめて卒業公演だけでも、劇団として大々的にやりたかったに違いない。だが、彼の脚本はこのとおり奇抜すぎて、団員たちにもなかなか受け入れられなかったのだ。その一方で、彼の脚本・演出独特の世界観には熱烈なファンもいた。そこで、そうした好意的な演劇仲間を学内外問わず寄せ集めて、自分の工面した費用で公演を企画し、実施していたのである。

 ちなみに僕も、彼の脚本は嫌いではなかった。あらゆる利害関係から解き放たれた大学生だからこそできる自由な表現を、存分に味わえると思うからだ。その異世界を目の当たりにすると、観客だけでなく、演じる側までぞくぞくするした。

 ただ、今回の脚本には少し引っかかるところがあった。同郷の男性二人――狂気的な先輩とそれに振り回される凡庸な後輩。その関係が、落窪さんと僕の間柄とどうしても重ならずにはいられなかったのである。

 ほの明るい曇り空から、雨は降り続ける。日が沈むのも月が上るのも、すべて隠してしまって。

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