インタールード――side:チェルシー・グリン

第37話  旅立ちと祝福の輪――グリーンハート・ブレスリング


・まえがき


■登場人物紹介


カスペル・トランド  40歳

           アスコーナ村の駐在警備兵。

           クランブリン王国警備軍、西方守備隊所属。

           金髪の頭を丸刈りにした中年男性。

           体形はやや太めで、強そうに見えない。

           趣味は読書。

           旅作家『ソルティー・コウダ』の著書を愛読。

           チェルシーにはあまり頼りにされていないが、

           ネインからは一目置かれている。

           村をしょっちゅう離れるネインのことを、

           いつも心にかけている。


***



 地平線から太陽が顔をのぞかせると、まだ薄暗いアスコーナ村の家々からも炊事の煙がゆったりと立ちのぼり始める――。


 春の初めの朝の空気は肌に冷たく、夜からあかつきへとゆるやかに変わる澄んだ空はどこまでも高くて遠い。わずかに朝もやがかかる土の道には、早くも畑仕事へと向かう村人たちの姿がちらほら見える。しかし、多くの家は食事の支度を始めたばかりだった。


 野菜を切る音や、ブリキのヤカンから噴き出す白い湯気、石窯いしがまの中で弾ける焦げたたきぎと赤い炎、そして焼きあがったパンや出来立てのスープの香りなどが、村人たちの息吹を力強く感じさせる。


 特に村の中に一軒だけのパン屋は、夜明け前から大量のパンを焼き始めていた。一人暮らしの村人や、自然発生する小型モンスターなどを狩りに行く狩人ハンターたちが早朝からパンを買いに来るからだ。


 そのため茶色い髪をお下げに結ったチェルシーは、それなりに広い店内をいつもどおり忙しそうに動き回っている。そして焼き立てのパンを店頭に並べ終えると、普段なら客の来店を待つのだが、今朝はエプロンを手早く脱いで椅子に置き、店の奥に向かって声を張り上げた。


「――それじゃあ、お母さん! あたしちょっとネインの見送りに行ってくるからっ!」


 チェルシーは茶色い紙に包んだサンドイッチと黒ゴマのパンをバスケットに突っ込むと、母からの返事も聞かずにさっさと店を飛び出した。そして朝露あさつゆに濡れた雑草がわずかに生える土の道を、ネインの家に向かって走り出す。


 しかしネインの家の前に着いたとたん、チェルシーの足がピタリと止まった。家の横にある勝手口の方から、誰かの話し声がかすかに聞こえたからだ。


(……はて? こんな朝早くに誰だろ?)


 チェルシーは思わず小首をかしげ、足音を殺しながら家の角にそっと近づく。そしてわずかに聞こえてくる声に耳を傾けたとたん――不愉快そうに顔を歪めた。それは聞き覚えのある若い女性の声だったからだ。


(あの声はミーサさんね……。まったく。ネインが王都に行くからって、わざわざ見送りになんか来なくてもいいのに……。でも、なんだろ……? 今日のミーサさん、なんだか声の調子がいつもとはちょっと違うような……)


 普段は無駄に明るい声で話すミーサが、今朝はなぜか落ち着いた口調で淡々と話している。そのため2人の言葉はほとんど聞き取れない。そこでチェルシーは片手で鼻と口を押さえながら、角のギリギリまで身を寄せて聞き耳を立てた――。


「……リス様より、能力値の改ざんは完了したと……また、浮遊城から封印……スカリバーの管理は……」


「……してもらえると助か……」


「……もしご希望……王都まで空を飛ん……」


「……いえ、エクスカリ……ナザーズに狙われ……村を守って……」


(うーん……やっぱり、ぜんぜん聞き取れないわね……)


 チェルシーは思わず渋い表情を浮かべた。そしてさらに限界まで耳を近づけると、エクスカリバーという単語だけがなんとか聞こえた。


(……エクスカリバー? それってあの魔法剣のことだよね? あれはたしか教会で保管してもらうって言ってたけど、もしかしてその確認かなんかで来たのかしら……?)


 ぼそぼそと話し続ける2人の声を聴きながら、チェルシーは再び首をかしげた。そして――これ以上こうしていてもムダね――と判断したチェルシーは、5、6歩ほど後ろに下がり、小さな息を1つ吐き出す。それから前を向いて姿勢を正し、堂々と胸を張ると、たった今やって来たような顔で勝手口の方へと歩き出した。


「――あら。そこそこ美味しいパン屋さんのチェルシーさん。おはようございます」


 家の角から不意に現れたチェルシーを見たとたん、ミーサはにこりと微笑みながら明るい声で挨拶した。黒のハーフマントを羽織り、革の背負い袋を肩にかけたネインも軽く片手を上げて1つうなずく。その2人を交互に見ながらチェルシーは何気ない顔で近づき、黒い修道服姿のミーサに淡々と声をかける。


「……おはようございます、ミーサさん。ミーサさんもネインの見送りに来たんですか?」


「はぁい、そんなところです。この前お預かりした剣の保管について、少し確認しておきたいこともありましたから」


「ふーん。そうなんですか」


「はぁい。そうなんでぇす」


 わずかにじっとりとした目つきのチェルシーに、ミーサはにこにこと微笑みながら返事をする。しかし次の瞬間、ミーサがいきなりネインの腕に抱きついた。そして瞬時に引きつったチェルシーの顔を眺めながら、楽しそうに口を開く。


「それと理由はもう1つありまぁす。実はですねぇ、そこそこ美味しいパン屋さんの店員さんに昨日教えていただいたのですが、旅に出る若い男性にとって、若い女性のぬくもりと香りは心の支えになるそうなのでぇす。ですので、こうして私の体温と体臭をこすりつけるために朝一番で駆けつけたというわけなのでぇす」


「いや、体臭ってあんた……ちょっとなに言ってんのかわかんないんだけど……」


 チェルシーは思わず強張った顔のまま、呆れ果てた息を漏らした。しかしミーサはまったく気にすることなく――あっさいっちばん! あっさいっちばん!――と、なぜか満面の笑みで連呼しながらピースサインをしている。


(うーん、どうしよう……。やっぱりこの人、ちょっと頭おかしいわ……。それにあの胸、なんだか見かけるたびに大きくなってるような気がするんだけど……)


 チェルシーは、数日前より明らかに膨らんでいるミーサの胸を渋い顔でじっと見つめた。それから呆然と無反応のまま突っ立っているネインをじろりとにらむ。するとネインはキョトンと小首をかしげてから、いている手で鍵の束を取り出し、チェルシーに差し出した。


「ああ、そうだったな。悪いけど、また鍵を預かっておいてくれ。戸締りはしておいたから」


「はいはい……。しょうがないから預かっておいてあげるわよ……」


 にらんでも何も感じないネインに、チェルシーは小さな息を吐き出した。そして不満そうな顔で鍵を受け取り、ワンピースのポケットに突っ込んだ。するとミーサが小首をかしげて口を開いた。


「あら? チェルシーさんがあまり気乗りしないのでしたら、私が鍵を預かりましょうか?」


「……いえ、けっこうです」


 チェルシーは即座に断り、さらにじっとりとした目つきでミーサを見る。


「それより、ミーサさんは教会に戻らなくていいんですか? そろそろ朝の礼拝の準備をする時間だと思いますけど」


「ああ、それなら大丈夫です。あんなものより、ネインさんの方が大事ですから」


「あんなものってあんた……それはシスターが言っていい言葉じゃないでしょ……」


「いえいえ。あんな何の役にも立たない形だけの儀式なんて、ルター神父に任せておけばいいんです」


(この人、ほんとにシスターなのかしら……)


 あっけらかんとしたミーサの言葉に、チェルシーは半分白目を剥いた。するとミーサはネインを見つめ、にこやかに話しかける。


「――というわけですので、ネインさぁん。今日は私が村の外までお見送りしますのでぇ、そろそろ行きましょうかぁ」


「あ、はい。でも、ミーサさんはもう教会に戻ってください」


「がはぁっ」


 ネインに見送りを一瞬で断られたミーサは愕然と目を見開いた。


「い……いえいえ、そんな、ネインさん。べつに遠慮なんかしなくていいんですよ?」


「いえ、遠慮はしていません。朝の礼拝の邪魔をしたくないだけです。それに、チェルシーと2人で話したいこともありますので」


「ふんぐぐぐぐぐぐ……」


 さらにネインにはっきりと拒否されたミーサは思わず奥歯を噛みしめた。その心底悔しそうな顔を、チェルシーはニヤリと笑って眺めながら口を開く。


「えっと、それじゃあ、ミーサさん。ネインの見送りはがするので、ミーサさんはどうぞ教会に戻ってください」


「そ……そうですか……」


 ミーサはこれ以上ないほど渋い表情を浮かべながら、チェルシーの胸に目を向けた。それから自分のふくよかな胸に視線を落として首をひねり、ネインからそっと腕を離す。


「それではネインさん。私は教会に戻りますね。ネインさんも道中どうちゅうどうかお気をつけて行ってきてください」


「はい。神父様にもよろしく伝えておいてください」


 ネインの返事に、ミーサは微笑みながら首を縦に振る。それからチェルシーに会釈して、教会の方へと歩き出す。その遠ざかる細い背中を見送りながら、チェルシーは小さな息を吐き出した。


「……ほんっと、ミーサさんってちょっとおかしいよね。いったいなに考えてんだろ」


「さあな。でも教会のシスターってのは、ちょっと変わった人が多いってカスペルさんも言ってたから、あれぐらいは普通なんじゃないか」


「そうかなぁ。この前ササンの村のソルナ教会に行ってきたけど、あんな変なシスターはいなかったよ。というか、ネイン。あんたはもっと気をつけなさい。王都に行っても、ああいう変な女の人に引っかかっちゃ絶対にダメだからね」


「うん? 引っかかるって、どういう意味だ?」


 ネインは思わず小首をかしげた。そのキョトンとした顔を見ながら、チェルシーは自分の頭をつついてみせる。


「だから、頭のおかしな女の人に近づいたらダメってことよ」


「それじゃあ、頭のおかしな女の人って、たとえばどんな人のことだ?」


「そんなの決まってるじゃない。いきなり文句を言い出したり、いきなり大声出したり、いきなり人のことを叩いたり、いきなり人に抱きついたりする女のことよ」


「なんだ。チェルシーみたいな人のこと……ごふっ」


 チェルシーの説明にネインが納得顔で呟いた瞬間、ネインの腹にチェルシーのこぶしが叩きこまれた。


「あたし以外の人のことよ! もう! バカなこと言ってないでさっさと行くわよ!」


「はいはい……」


 チェルシーは頬を膨らませ、1人でさっさと歩き出す。その背中を眺めながらネインは軽く苦笑い。それからすぐにチェルシーの隣を歩き、村の外へとまっすぐ向かう。


「……それで? なんかあたしに話があるって言ってたけど、なんの話?」


「ん? ああ、別に大したことじゃないんだが……」


 不意に訊いてきたチェルシーに、ネインは畑に向かう村人たちに会釈しながら淡々と言葉を続ける。


「前にカスペルさんが言ってただろ。南の方で凶悪な山賊が出るって」


「山賊……? ああ、そういえばそんな話をしてたわね。たしかシンプリアの方で小さな村を皆殺しにして、根こそぎ奪う山賊がいるって話でしょ?」


「ああ、そうだ。それで、もしもそういう危ない奴らがこの村に来たら、チェルシーにはみんなを連れて教会に逃げてほしいんだ」


「今さらなに言ってんのよ。そんなこと、あんたに言われなくてもわかってるわよ。この村で一番丈夫な建物は教会だから、何かあったらあそこに逃げ込むって、この村で知らない人はいないでしょ」


「それはまあそうなんだが、もう1つ言っておきたいことがある。カスペルさんはあれでも正規軍の警備兵だからな、じゅうぶんな戦闘訓練を受けている。だからもしも教会まで逃げ込む暇がなかったら、カスペルさんを頼るんだ」


「はいはい、わかりました」


 ネインの話に、チェルシーは軽く呆れ顔で肩をすくめた。


「だけどネイン。前にも言ったけど、あの人よりうちのお母さんの方が絶対に強いと思うけど」


「たしかにダリアおばさんは傭兵として戦っていたから強いと思う。でも、今は武器を持っていないからな」


「それはたしかにそうだけど……。でも、なんで急にそんな話をするの?」


「念のためだ」


 ネインはふと顔を上げて、青く澄んだ空に目を向けた。


「あのエクスカリバーを持っていた奴もそうだったんだが、この世には自分の欲望を満たすために、他人を平気で傷つける人間がいるからな」


「ああ、なるほど、そういうこと……」


 ネインの言葉に、チェルシーは眉を寄せてうなずいた。


「でも、それはもうどうしようもないでしょ。世の中にはいい人もいるし、悪い人もいる――。そういうふうに神様が人間を作っちゃったんだから」


「そうだな……。だけどさ、チェルシー。オレはまだ、そういう世界の仕組みに納得できないんだ。悪い人間のせいで、いい人間が死んでしまうなんて、どう考えてもおかしいと思う。だからオレは、この村に住む人たちにはそういうふうに死んでほしくないんだ」


「そんなのあたしだっておんなじよ。だけど人なんていつ死ぬかわからないし、死なない人なんていないでしょ。みんないつかはソルラインに導かれるんだから。……でも」


 チェルシーもネインの横をゆっくり歩きながら空を眺めた。


「そうね……。どうせいつか死ぬのなら、毎日まじめに働いて、70ぐらいまで元気に生きて、子どもと孫に囲まれて、みんなに笑顔で見送られながらソルラインに行きたいわね……」


「そうだな……。この世界に生きるみんながみんな、そういうふうに生きて死ぬ――。それがたぶん、幸せな世界ってヤツなんだろうな……」


 ネインは空の彼方を流れる白い雲を見上げながら言葉をこぼした。そして2人はしばらく無言で歩き続け、村の入口にある馬車止めの横を通り過ぎる。さらに低い石垣の外に出て少し歩き、それから道の真ん中で足を止めた。


「それじゃあ、チェルシー。ちょっと行ってくる」


「あ、ちょっと待って」


 ネインが軽く手を上げたとたん、チェルシーはバスケットを地面に置いて、ポケットから白い紙を取り出した。そして中に包んでいたひもをネインの左手首に巻いて固く縛る。それは白と緑の細い革紐を何本か合わせて丁寧に編んだ、組み紐のブレスレットだった。


「はい、これでよし」


「なんだこれ?」


「なんだこれって、見ればわかるでしょ。祝福の輪ブレスリングよ。ちゃんとソルナ教会まで行って祝福してもらってきたんだから、ご利益りやくはあるはずよ」


「へぇ。これはまた、ずいぶんと頑丈そうなブレスリングだな」


 しっかりと編み込まれた革紐を見て、ネインは思わず感心した声を漏らした。


「でも、緑と白ってどういう意味だ?」


「はあ? あんたねぇ、ブレスリングは7色しかないんだから、それぐらい覚えておきなさいよ」


 キョトンとしたネインを見て、チェルシーは軽く呆れ顔で言葉を続ける。


「いい? 緑の紐は命の女神フェリの祝福で、危険から守ってくれるの。そして白の紐は感謝の女神ラティアの祝福で、よい人間になれるように導いてくれるの」


「なるほど、命と感謝の女神か……。でも、オレは青か黒が好きなんだけど」


「あんたはアホかぁーっ!」


 ネインの呟きを聞いたとたん、チェルシーはネインの腹をこぶしで殴った。


「黒の紐は死の女神モルスの安らぎでしょ! そんなの絶対ダメに決まってるじゃない!」


「じゃあ、青は?」


「はあ? 青? 青はたしか……戦いに向かう人を祝福する、勇気の女神クレシュだったかな」


「そうか。だったらやっぱり青がよかったな」


「あんたねぇ……人の好意にいちいちケチつけてんじゃないわよ……」


 ネインに淡々と言われ、チェルシーは大きな息を吐き出した。それからバスケットに入れていたサンドイッチと黒ゴマのパンをネインに渡して口を開く。


「はい、これ、朝ごはんとお昼ごはんね。それと、ちゃんと無事に戻ってきたら、次は青の革紐で作ってあげるから」


「ああ。わざわざ作ってくれてありがとな」


 ネインは手首のブレスリングとパンをチェルシーに向けて礼を言った。その顔にチェルシーは指を向けて言い含める。


「そうよ。あんたはもっとあたしに感謝しないといけないんだから。だから、5月までにはちゃんと帰ってくるように。わかった?」


「わかってるって。できるだけそうするよ」


「絶対よ! 必ずだからね!」


 チェルシーは頬を膨らませながらネインの胸に指を押し付けた。それからすぐに目元を和らげ、にっこりと微笑みかける。


「それじゃあ、ネイン。行ってらっしゃい。気をつけてね」


「ああ、行ってくる」


 ネインもチェルシーをまっすぐ見つめて微笑んだ。そしてすぐに背中を向けて、土の道を歩き始める。


「……まったく。弱っちいくせに旅ばっかりして。ほんと、バカなんだから……」


 チェルシーは遠ざかっていくネインの背中を見つめてさびしそうに呟いた。それから胸の前で両手を組んで、命の女神に祈りを捧げた――。



「……さてと。そろそろ店に戻らないとね」


 ネインの姿が見えなくなるまで見送ったチェルシーはゆっくりと振り返り、村の方へと足を向けた。すると不意に、誰かがあたふたと駆け寄ってくる。それは軍服姿の警備兵――カスペルだった。小太りのカスペルは意外に身軽な足取りで駆けてくると、チェルシーの前で足を止め、道の先を眺めながら言葉を漏らした。


「あちゃ~。ネインはもう行ってしまったか」


「どうしたんですか、カスペルさん。そんなに慌てて」


 珍しく真剣な顔をしているカスペルを見て、チェルシーは思わず首をかしげた。するとカスペルは丸刈りの頭をなでながら渋い顔で口を開く。


「いやぁ、実はついさっき、王都から緊急の伝令が届いたんだよ」


「緊急の伝令?」


「ああ。ちょっと信じられない話なんだが、昨日開かれた王位継承権者会談が、どうやら何者かに襲撃されたらしいんだ」


「えっ? 襲撃?」


 カスペルの話を聞いたとたん、チェルシーは思わずパチクリとまばたいた。その呆気にとられた顔を見つめながらカスペルは言葉を続ける。


「それがしかも、ただの襲撃じゃないんだ。会談に出席していた7人の王子たちを含め、その場にいた全員が暗殺されてしまったらしい」


「あっ!? あんさつ!?」


 その剣呑けんのんな響きを持つ言葉に、チェルシーは両目を見開いた。


「暗殺って、え? うそ。それってものすごく大変なことじゃないですか」


「ああ。前代未聞の大事件だ。おかげで王都は上を下への大騒ぎで、昨日から厳戒態勢がかれたらしい」


 驚きのあまり口をポカンと開けたチェルシーに、カスペルは顔を曇らせながらさらに言う。


「しかも問題はそれだけじゃない。前にシンプリアの方で残忍な山賊が悪さをしてるって話をしただろ? どうやらそいつらがクランブリンに入ってきたらしい。最近になって、南の方の集落がいくつも皆殺しにされているそうだ。しかもそいつらは王都に向かって北上している可能性がある。もしもそんな物騒な奴らと鉢合わせでもしたら、命がいくつあっても足りやしない。だからネインを引き止めようと思って走ってきたんだが……」


「そ、そんな……」


 カスペルが再び道の果てに目を向けたので、チェルシーも慌てて顔を向けた。しかしどれだけ目を凝らしても、ネインの姿はどこにも見えない。黒いハーフマントの背中は、既に地平線の彼方に消えていた。


「ど、どうしよう、カスペルさん……。あたし、ネインを呼び戻しに行った方がいいですよね?」


「ああ、待て待て、チェルシー」


 言いながら走り出そうとしたチェルシーをカスペルは呼び止めた。


「この辺は安全だと思うが、しばらくは村から離れない方がいい。それにネインは賢いからな。王都に向かう途中の村で、暗殺事件と山賊の話を耳にするだろう。だったら、先に進むか引き返すかはネインの判断に任せよう。あいつはもう、自分の足で自分の道を歩き始めた男だからな。私たちはネインを信じて、無事に戻ってくることを神に祈ろう」


 カスペルはチェルシーの横に立ち、胸の前で両手を組んで目を閉じた。チェルシーも胸に手を押し当てて、はるか遠い青空の下に目を向ける。そして心配そうに眉を寄せて、心をこぼした。


「ネイン……無事に帰ってきて……。そうでなかったら、絶対に許さないんだから……」


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