12.禍

 フライハイトがリフトから地上に降りるとヴァールが待っていた。その手が握ったナイフの血糊をぬぐっているのを見て、フライハイトはリフトから落とした男たちにヴァールが止めを刺したのだと理解すると、軽い衝撃を覚えた。

 もう抵抗することなどできない者の命を奪う必要があったのか、そう思った。が、その行いの是非よりも、ヴァールが顔色一つ変えずにいることに驚いていた。それは、そうした命を奪い合うような暴力がヴァールの周囲に日常的に存在していることを示しているような気がしたからだ。

 フライハイトは自分もハンマーを握りしめたままなのに気づいた。その手に持った日常にありふれた道具が武器となり、自分の自制心を揺るがせた瞬間のことを思い出し、戦慄した。武器は自分の感情を増幅する装置のようだった。ふいに強い嫌悪感を覚え、ハンマーを投げ捨てると、怒りに強張っていた筋肉が感情と共に解放された。

 ヴァールに言われるまま、魔物を荷台の中に横たえた。

「急げ」

 魔物の様子を見ようとしたフライハイトに声を掛けながらヴァールが続いて乗り込む。魔物に触れていた手をそのままにして何か言いたそうなフライハイトの気配を押し止め、ヴァールは村へ戻るように急かした。フライハイトは言葉を飲み込み、束の間ヴァールを見つめたが、無言のまま荷台から降り、幌を下ろした。

 服にこびりついた汚れと虫を払い落とし、馭者台に乗ると、不安と恐れとに混乱したままフライハイトは馬を進めた。ミーネたちがあそこから脱出するのには時間が必要だろう。けれど彼らから逃れるためというよりも、早く家族の元へ戻りたくて、自然に馬車のスピードが速くなってしまう。

 しばらく行ってから、フライハイトは背後を振り返った。魔物の家は視界の遙か遠くに黒い陰のように存在していた。悪夢の家。そこから五百年もの間、村を支配してきた恐怖の源を連れ出してきたことが、フライハイトは信じられないような気がした。

 これは救出なのだろうか、それとも悪しきものを解き放ってしまったのだろうか。魔物を、村の中に入れてもいいのだろうか。わからない。ブロカーデとマクラーンを隔てる門までの道を辿りながら、フライハイトの気持ちは乱れた。が、今はそれについて考えている余裕はなかった。早く家に帰らなければならない。

 壁が見えてくる。それは遠くから見れば細長く左右に広がり、切れ目はどこにも見当たらず、永遠に続いているかのように見えた。近づいてくる巨大な壁にフライハイトはいつものように威圧され、そして不思議に思う。何故この壁は存在するのだろう。壁の堅牢さはマクラーンの脅威を象徴したものだったが、まるでぼろ袋のような無力な存在としか思えない魔物と、その壁の対比に違和感を覚えた。それともかつてはこれほどの壁が必要な程、魔物は巨大な力を持ち、人々の畏怖を煽ったのだろうか。

 門が現れる。目に捉えた次の瞬間に、それがゆっくりと開きはじめるのが見えた。いつもそのことにフライハイトは戸惑いを覚えた。おさは「当番」が帰ってくるまで、閉じた門の前で待つことになっている。長がいるのは村側であり、こちら側の様子はわからないはずだった。少なくともこの距離では車輪の音も届いてはいまい。けれど、どういうわけなのか、いつもまるで「当番」の帰還がわかっているかのようだった。

 しかしそのような様々な疑念は次第に募ってくる焦燥感に押し流された。気を抜けば狼狽えてしまいそうな自分を抑え、フライハイトは大きく息を吸い、吐き出すと、馬車のスピードを自然な速度に落とし、開いた鉄の扉をくぐり抜けた。

「何もなかったか」

 いつものように、長が聞き取りにくい声で問う。長の声を聞くのはいつも一年に一度、この言葉だけのような気がした。そんなはずはなかったが。

「はい」

 フライハイトはわずかに逡巡してから答えた。村に侵入してきた男たちと、起こった出来事について説明しなかったのは、時間を惜しんだだけでなく、荷台に乗せたヴァールと魔物のことを隠しておかなければならないと思ったからだ。

 それは、咎めを受けることを恐れたからではなく、沸き上がって来た強い不安のせいかもしれない。長は村の中で絶対的な存在のはずだった。けれど、この長と呼ばれる者にこうして実際に接して感じた奇妙な違和感がずっと過去から続いていたことに気づいた。

 フライハイトの内心の動揺に気づかなかったのか、長はそれ以上何も言葉を掛けず、見た目には不審を抱いている様子もなく、立ち去るようにうながした。フライハイトはうなずき、そのまま長から離れ、安堵を覚えながら馬車を森の中へ進めていった。


 馬車が生い茂った樹木の向こうへ消えると、フライハイトの家に残っていた侵入者の一人が静かに姿を現した。男はフライハイトの他、村でただ一人生き残っていた長が役割を終えるのを待っていた。そうして音もなく忍びより、その背に剣を突きたてると、村長むらおさは声もなく地に崩れた。それで男がミーネに与えられていた仕事の全てが片づくはずだった。が、地面に倒れたものを見て、男はぎくりとした。

 それは命を持たない人形だった。

「しまった。傀儡くぐつか」

 男は人形を蹴り飛ばした。壁まで飛んでぶつかり、骨や石、木っ端などに分解され、ばらばらになったそれは、魔術師が操る傀儡だった。男はたやすく壊れるように作られたそれを慄然と見つめた。遠く離れた地から、何かを見張るために作られたその不可思議な人形の命が消えたことを、魔術師が気づかないはずはない。それが壊されるようなこの村の異変こそを、ずっと警戒していたに違いなかった。ミーネの計画が既に狂っていることをまだ知らない男は急いでそれを知らせるために馬車を追った。


 侵入者が追いつくよりも前に、ヴァールが馬車を止めるように後ろから叫んだ。フライハイトは馬を乱暴に止め、飛ぶように馭者台から下りた。はやる気持ちが彼の表情を怖くしている。荷台からヴァールが降りてくるのを待ちきれず、フライハイトは外から叫んだ。

「薬は!」

 しかし荷台からヴァールが降りてくる気配はない。じれたフライハイトは幌をまくり上げた。ヴァールは気にも止めない様子で顔に好奇心を浮かべ、荷台に横たわった魔物を調べていた。

「今しがた、こいつが動いたんだ」

 フライハイトの焦りを気遣う様子もなくヴァールは言った。

「ヴァール!」

 叫ぶ声に怒りが混じる。一刻も早く家族の元へ戻らなければならない。あの時、ヴァールは薬の処方を知っていると言ったのだ。フライハイトはそれを信じた。だからこの時まで、ヴァールの言うとおりに動いた。しかしヴァールはどこかかれたような眼差しを魔物に向けたまま、フライハイトの必死の声を聴いていないようだった。

 瞬間的に怒りが沸点を超えて、フライハイトが荷台に飛び乗ろうとした時、ばたばたと走る慌ただしい足音を聞いた。咄嗟に身構える。

「お前は」

 フライハイトは目を見張った。家に残り、妻や息子を見張っていたはずの男だった。瞬時に何かただならぬ事態を感じてフライハイトは動揺した。同時に相手も仲間が見えないことに何かを察したらしく警戒をみせた。

「フライハイト」

 嫌になるほど冷静なヴァールの声にフライハイトは荷台をちらりと見た。ヴァールが短刀を投げて寄越す。とっさにそれを受け止めた。男が剣を抜くのを見たが、フライハイトは黙ったまま、それをヴァールに投げ返した。

 風を鳴らして襲いかかってきた剣を素早くかわし、対象を失って体勢を崩した男に拳を突き入れる。鍛え抜かれた鋼鉄のようなフライハイトの拳が男の肩のあたりに当たり、鈍い肉の音がした。男はよろめいたが、踏みとどまって素早く反転し、剣を振り回した。

 フライハイトはその腕をたやすく捕らえ、ひねり上げた。メキメキと筋肉がきしむ音がして男は悲鳴を上げ、剣を落とした。フライハイトはその腕をじってつかんだまま、男を地面へ押し倒し、その背に膝を乗せて体重を掛け、自由を完全に奪った。

「フェルトを、息子をどうしたっ?」

 彼にはない激した声で、フライハイトは怒鳴った。あってはならない予感が心をどす黒いもので満たす。悪寒が全身を包んでいく。押さえ込んだ男の背が震えた。笑っているのに気づいた途端、怒りが吹き上げてきて、フライハイトは男の腕をさらにひねりあげた。くぐもった悲鳴と共に腕の骨が肩から外れ、男は失神した。

 フライハイトは息を荒らげ、荷台にいるヴァールを振り返った。怒りと恐怖で目の前に火花が散っていた。その中にヴァールの表情のない顔があった。

「どういうことだっ!」

 フライハイトが叫んだ。ヴァールはしばらく怒りのために獣じみた光を放つ瞳を受け止めた後、視線を落とした。ざっと土を蹴る音がした。飛び掛かられると思っていたが、何も起こらず、ヴァールがはっとして視線を上げた時には、フライハイトの姿はその場に無かった。慌てて荷台から飛び降りる。

「フライハイト!」

 ヴァールの声は悲鳴のように響き渡ったが、家へと疾駆していくフライハイトは振り返らなかった。

 肺と心臓が火に包まれているように思える程、フライハイトは全力疾走で村へと引き返した。最初の家屋が見えてから、すぐに異変に気づいた。すでに太陽は登り切っている。人々はとっくに活動を始めている時間だった。仕事に出ている者、家事に追われている者、シューレへ走る少年たち、遊び転げる幼い子どもたち、日だまりで話し込んでいる老人たち、我が物顔で通りを占拠している鶏や犬や山羊、いつもと変わらない日々の生活がそこにはあるはずだった。

 が、何もない。動くものもない。何の気配もない。

 足が震えはじめたのは、限界を越えているスピードのせいではない。急速に筋肉から力が抜けていく感覚に襲われ、フライハイトは速度をゆるめ、村の中心までやってくると、足が止まった。

 しんと静まり返って、何一つ動くものはなかった。聴こえてくるのは自分の激しい呼吸の音だけ、それもやがてフライハイトの耳には聴こえなくなった。冬はまだ先なのに、冷たい空気が全身を包んでいく。背筋が凍るような感覚がする。フライハイトはおびえたようにあたりを見渡した。遠くに犬が一匹、寝そべっているのが見えた。一瞬、ほっとしたが、それは今朝、出掛ける時に見た場所で、その時から全く変わらない様子で動いてはいなかった。

 冷たい汗が熱を持った皮膚の上を流れ落ちた。

 一体、これは何の夢なのか。フライハイトは愕然としたまま、自分は違う世界にまぎれ込んだのだと思った。それとも、これは魔物のなした呪いなのだろうか。自分は禁忌を犯してしまったのだろうか。

 全身の力が抜けかけるのをかろうじて抑えながら、それでも空気が抜けたようにえて力の入らない足を引きずるようにして、フライハイトは自分の家へ向かった。途中、扉に挟まれるようにして倒れている人を見て、ふらふらと近づく。見てはいけない、見たくはないと思いながら、足は吸い寄せられていった。

 しゃがむと言うより、半ばへたり込むようにして、男を覗き込んだ。眠っているように見えた。フライハイトはまだ、侵入者たちが村人を全て薬によって眠らせたのだと、思おうとしていた。その男の顔がどれほど白くても、触れた体が自分を震わせている冷気よりもさらに冷たくて、そして固いのを知っても。向こうに倒れている見知った顔の男の妻の口からあふれて床に広がった血を見ても。それがどういうことなのか、認めることを、何かを考えることを、彼は拒絶した。

 フライハイトは立ち上がった。

「そんな、そんな馬鹿な……」

 つぶやいた声は、どこか別の空間に吸い込まれてしまったかのように、静かな村のどこにも響かない。

 彼らは、ブロカーデに一体、何をしたのか。

 思考が止まったまま、ただ機械的にふらふらと歩きはじめた足は、永遠に辿り着かなければいいと思い始めた家へ、やがてフライハイトを運んでいった。鍵の掛かっていない扉を開き、自分の家のしんとした気配に戦く。どこにも音がない、温もりがない、何者の気配もない家の中は、クラウスの家と同様に、墓場のようだった。

 フライハイトは息子の部屋に入った。妻と息子は昨日、妻が眠りに落ちた時と変わらぬ様子でベッドに横たわっていた。

 近づいて、彼は妻に震える手を差し伸べた。その肉体に命がすでに宿っていないことを、彼は知った。息子も同じだった。それでも、まだこれは薬による仮死状態なのだと、信じたかった。解毒剤を飲ませてやれば、全て元通りになるのだ。きっと村の人々も同じなのだ。

 それは捨てきれない希望だった。けれど、心がとろけるほどに柔らかだった息子の頬の硬さや、暖かだった妻の体の冷たさに触れると、希望などどこにもないのだと、フライハイトはぼんやりと理解した。何もかも、現実とは思えなかった。どこからが本当で、どこからがまやかしなのだろう。どこで、自分は迷ったのだろう。

 こんなことがあっていいはずがない。

 冷たく固くなった息子を彼は抱き上げた。自分の温もりで暖めてもその肉体は決して元には戻らない。あの屍のような魔物の体に残っていた命の気配のかすかささえ無い。その体の冷たさが体の中に染みてきて、フライハイトは自分も一緒に死んでいくような気がした。いっそそうであったならと、願った。

「フライハイト」

 どれほどそうしていたのか、フライハイトは名を呼ばれて、のろのろとうつろな瞳を上げた。戸口にヴァールが立っていた。何の感情も現れていない顔でフライハイトを見つめていた。何故、この男は平然と自分たちを見ているのだろう、とフライハイトは思った。

「最初から、知っていたのか?」

 フライハイトは低い声で問う。ヴァールは答えなかった。それが答えだった。彼はあの時マクラーンで、解毒剤の処方を知っている、自分に任せろと言った。しかし、最初から解毒剤などどこにもなかったのだ。昨日、帰宅したあの時に、息子はすでに死んでいて、そして自分の前で薬を飲んで眠りに落ちた妻は、その体内にまだ生まれていない新しい命と共に、死んだのだ。

 自分は何という愚かな男なのだろう。目の前で家族が死んでいくのをはばむどころか、気づくことすらできなかったのだ。これほどの惨い仕打ちが存在することさえ想像しないで、単純に殺戮者の言葉を真に受けた。これほど呑気のんきで愚かな人間はいない。そしてヴァールはそれを知っていて、自分をここまで操作したのだ。嘘をついて、だましたのだ。

 自分の無力と愚かしさにフライハイトの感情は嵐のように彼の心を引き裂いた。憎しみと怒りで体から炎がき出そうだった。筋肉も骨も血も皮膚も全てが燃えていく。

「何故だっ!」

 火のような息と共にフライハイトは叫んだ。ヴァールを強い視線で射るようににらむ。

「お前が、奴らにこの村のことを教えたのか? 魔物のことを? お前はこの計画を、知っていたのか?」

 しかし、ヴァールは何も答えなかった。何故、何も言わないのか、何故弁解も説明もしないのか、ただ黙って静かに自分を見るヴァールに、フライハイトは全身を燃やす感情の固まりをぶつけたい衝動を覚えた。それは、全てを破壊し、己もヴァールも殺してしまいたい衝動だった。

 自分を静かに見つめていたブルーブラックの瞳がふいに外された。それをきっかけに、フライハイトは体の中にたまったマグマのようなものを吐き出しかけた。しかし、できなかった。視線を落としたヴァールが、それを待っているのに気づいたからだ。その姿は罰を受けようとする子どものように見えた。彼が、たとえこの場で殺されてもかまわないのだと思っていることを、フライハイトは感じた。それが、罪を負っていることを認めているがためなのかどうかはわからない。けれど何かの理由によって、ヴァールが心を痛めている事実が、フライハイトに怒りのやり場を失わさせた。

 嵐のような感情を持てあまし、フライハイトは苦痛にうめき、意味のない言葉をわめき、獣のような咆哮ほうこうを何度も上げた。体の中でさかまいているものを、叫び声と慟哭どうこくとで吐き出し続けた。

 たかぶった感情は限界を越えると、突如として消えた。フライハイトの心の中に激しく燃えた炎は、内側を全て焼き尽くして、後に巨大な空洞を空けた。

 子どもを抱えて肩を震わせるフライハイトにヴァールは静かに言った。

「行こう」

 フライハイトは彼が何を言ったのか理解できず、ほうけたようにヴァールを見た。

「行こう、フライハイト」

「行く? どこへ? 何故?」

 フライハイトは混乱したまま問う。

「ここは、危険なんだ。すぐに離れなければならない」

 強い衝撃に打ちのめされて動きを止めていたフライハイトの感情が再び波立ち、癇癪かんしゃくに近いような苛立ちが吹き上げてきた。

「何故? 何のことだ? 一体、なんなんだ!」

「やつらが、やって来る」

「やつら? 何だ!」

 声を荒げたフライハイトは、ヴァールの瞳におびえと動揺が浮かんでいるのを見た。おびえは自分の怒りに対してだとわかったが、それ以外に平静な顔の下に何か切迫したものがあるのを感じ、フライハイトは戸惑った。マクラーンに置きざりにした侵入者たちにそれほど脅威は感じなかった。むしろ、こちらから出かけていき、全員殺してしまいたい衝動があった。

「ヴァール、誰がくるんだ?」

 低く抑えた声でフライハイトが再び問う。ヴァールはどこか遠くをにらむようにして唇を噛んだまま答えない。その体が揺れ始める。

「ヴァール?」

「ここを離れるんだ。すぐにやってくる」

 喉をしぼるような声で、ヴァールはただ繰りかえす。

「意味がわからない。ちゃんと説明しろ」

「時間がない。説明ならここを離れてからいくらでもしてやる。来るんだ」

 突然、自分の感情を切り捨てるようにヴァールはきつい調子で言い、そのままきびすを返した。フライハイトは茫然としたままその背を見つめた。それは自分がついてくることを待っていた。ふいに、フライハイトはその背中に憐憫れんびんを覚えた。今この状況で感じるには場違いなその感情が、過去のヴァールの背中と重なる。いつも、その背中は自分がついてくることを待っていた。一緒に来て欲しいとは言葉に出来ず、拒むような素振りで、そのようにしか、ヴァールはフライハイトの愛情を求めることができなかったのだ。

「一つだけ答えてくれ」

 フライハイトが静かな声で言う。

「今はそんな暇はないんだ!」

 背を向けたままのヴァールの声に苛立ちが混じる。フライハイトはそれをさえぎるように言葉をゆっくりと重ねた。

「奴らが、村の人たちや、フェルトや息子を殺すことを、お前は知っていたのか?」

 フライハイトの低く穏やかな声に、ヴァールの背が揺れる。その頭がうなだれるのを、フライハイトは見つめた。もしも知っていたのなら、警告を与えることぐらいはできたはずだった。それをしなかったのは、できなかったのか、知らなかったのか、見過ごしたのか、どうしても確認せずにはいられなかった。

 立ち止まったヴァールの背かがゆっくりと上下するのを見つめた。彼がどのような言葉を言った時、自分はどうするのか、考えてはいない。ただ、ヴァールが答えるのを、フライハイトは静かに待つ。

「知らなかった」

 ヴァールの声は小さく、そして震えていた。その声を震わせた感情がなんであるのか、フライハイトにはわからなかったが、さざなみのように心に届いたその震えに、彼は友の言葉を信じたいと思った。ただ、これだけの殺戮の責任が、彼にあると思いたくなかっただけなのかもしれなくとも。

「わかった。しかし、二人をこのままにしては行けない」

 フライハイトの声が苦痛にひずむ。ヴァールが振り返る。

「フライハイト!」

 自分を呼ぶ声に焦りと動揺があるのをフライハイトは聞いた。ヴァールがそんな風に感情を抑えられずにいるからには、事実ここは危険なのだろう。けれども、そうであるのならなおのこと、妻と息子をこのまま放置していくことなどできない。そうするくらいなら、自分もここで死のうと思った。

 せめて、土にかえしてやりたい。そう願いながら、フライハイトは自分のその願いに違和感を覚えていることで、まだ二人の死の事実を完全には認めてはいない自分に気づいた。まるで夢の中にいるような気がした。

「新しい墓は目立つ。やって来た人間があばくかもしれない」

 ヴァールは振り返って感情のない声で言ったが、その言葉に驚きを見せたフライハイトの顔に、ゆっくりと怒りが加わっていくのを見て、目を伏せた。

 フライハイトは握りこんだ拳を震わせた。墓を暴くような冒涜ぼうとくが行われるなど、いったいこの地に何が起きているのか。今は、それを問うても答は得られないのだろう。だからといってこのままにしていくわけにはいかない。墓を暴くような者であればなおのこと、屍をどのように扱うのか想像もできない。

「わかった。でも、急いでくれ」

 ヴァールが細い声で言うのを聞くまでもなく、フライハイトは妻の体を抱きかかえた。ヴァールに息子を頼むと、ヴァールは少し驚いた顔をした。そして少しおびえたような、らしくない表情でフライハイトを見る。自分が触れてもいいのかと言っているようだった。

「頼む」

 フライハイトが言うと、ヴァールはおずおずと彼の息子の冷たい亡骸を抱きかかえた。いつかヴァールに自分の息子を見てもらいたいと願っていた。それがこんな形になるとは思ってもいなかった。

 二人はフェルトとバルトを村の共同墓地まで運んだ。毛布の上に二人を横たえ、フライハイトはヴァールの手も借りて、両親の墓の横に穴を一つだけ掘った。

 あまり深くはないその穴の底に有り合わせの板を置き、妻が直前まで作っていた祭りのための生地を敷いた。その粗末な終の寝床にフライハイトの胸は切り裂かれるように痛んだ。彼女にこんな最期が待っていたなど、信じたくはなかった。

 フェルトの体を抱き上げ、その中に横たえる。その冷たい手を取り、唇を寄せた。かつて彼の頬や唇に触れ、髪をき、胸を撫でたその細い指は固く強張り、命の温もりのないただの形でしかなかった。

 白く美しい顔を見つめているうちに、目の奥が熱くなった。感情があふれてくるのを抑えるために、フェルトから視線をらした。

 フライハイトは息子を受け取るために立ち上がった。ヴァールはいかにも小さな者を抱き慣れない不器用な様子で、けれどしっかりとバルトを胸に抱き、その顔を食い入るように見つめていた。フライハイトの視線に気づかず、かすかに震える指で、そっとその滑らかな頬に触れた。瞬間、その表情がかすかにゆがむのを見て、フライハイトはヴァールの心の中で強い感情が揺れるのを感じた。それがどのような種類のものなのか、わからない。が、そのわかりにくい感情は季節を運ぶ最初の風にも似て、フライハイトの心に何かを伝えてきた。その瞬間、涙があふれた。

「ヴァール」

 声をかけると、ヴァールはびくりと震えた。顔を上げて驚いたように目を見開くと、さっと表情を消して、彼の息子を大事なもののようにそっと渡してくれた。

 フライハイトは小さな体を受け取り、胸に抱きしめると、そのまだ丸い頬に唇を寄せた。

 母親の胸に抱かれるような形で息子の亡骸なきがらを横たえる。その母子の姿を目にすると、様々な記憶が、音や匂い味や感触を伴ってフライハイトの心の中に流れ込んできて、それを受け止めきれず茫然とする。

 フェルトの唇に口づけをすると、嗚咽がもれた。あふれてきた感情を止められなかった。心が破れてそこから流れ出してきたもので、溺れてしまいそうだった。このまま一緒に、何もかも自分の体も心も、この土の中に収めてしまいたかった。

「フライハイト」

 ヴァールの声が遠くからのように聞こえて、フライハイトは喉の奥に押しとどめた嗚咽を震えるため息のように吐き出した。

 二人の体の上に毛布を被せると、フライハイトは穴から出た。祈りの言葉は何も浮かばなかった。土をその体にかけて、自分の中の一部と共に、二人を大地にかえした。

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