11.魔物(3)
馬車はやがて丘の頂上へと着いた。一年前と、そして十五年前と、全く変わらない光景がそこにある。
フライハイトは無意識に丘の向こうの山に雨をもたらす雲がないか視線をやった。そこに何もないことを確認すると、反射的に心の中に失望が起こる。そんな自分を冷めた気持ちで
馬車が止まると、荷台からミーネたちが降りてきた。ミーネの表情に変化はなかったが、さすがに他の男たちは憔悴し、表情を歪めているのは無理からぬことだろう。ただ、それがこの場所に対するものか、樽を積んだ荷台にいたせいかはわからないが。
ミーネが簡潔な指示を与えると、男たちは黙したまま従った。彼らは湿った汚泥を踏みしめながら建物の出入口を探していたが、やはり鉄格子の入った小さな窓しか見つけることはできなかった。代わる代わるそこから中を覗く男たちの表情が驚きと恐れとに歪む。わかっていても話に聞くのと実際に見るのとでは大きな違いがある。ミーネでさえ、目を見開き、少し顔を強張らせた。
しかしその次に男の顔に現れたものは、他の男たちや自分とは違っていることにフライハイトは気づいた。魅入られたように魔物を見つめるミーネの瞳には生暖かさを感じさせる奇妙な熱があり、表情はわずかに緩んでいた。どこか淫靡なものを感じさせるその笑顔に、フライハイトは胸が悪くなるような悪寒を覚えた。
彼らは建物の周囲を巡って調べ、検討した後、リフトで上まで上がり、天井の鉄格子の一部を破壊して中に入ることに決めた。頑丈な石の壁とは違い、長く風雨にさらされた鉄格子は脆くなっていて、たやすく人が通れる程の穴があいた。
その穴から投げ入れた縄を伝って最初に下に降りたのはミーネだった。他の男たちは、穴からカラスが入り込まないようにガードしながら様子を
フライハイトは今では腰をかがめる位置にある窓からその様子を見ていた。ミーネは
ミーネはこびりついた汚物のせいで辛うじて人の形とわかる程度にしか判別できないその物体をしばらく眺めた。赤黒い腐敗した汚物で固められたそれは、怪物染みた皮膚のように見えた。その皮膚の上を無数のおぞましい虫が這い回っている。
心の中に恐怖や嫌悪がないと言えば嘘になる。それはおぞましいこの状況のせいでも、ここに座っている存在が魔物だからでもない。ミーネは今ここにいる人間の誰よりも真実に近い秘密を知っている。ヴァールと共に調べた事実を信じるならば、ここにいるのはやはり普通の人間ではない。未知の物に対する
用心深く手を伸ばし、頭とおぼしき辺りに指の先で触れた。悪寒がそこから全身に広がり、思わず手を引きたい衝動を辛うじて堪え、ミーネはどうしようもなくかすかに震える指を動かして、絡みついた筋や血管が乾いて垂れ下がっている顎のあたりに触れた。そこにごろりとした感触を感じた瞬間、何かの眼球が掌に落ちてきた。思わず手を振ってそれを払いのけた。
乾ききった喉に唾を送り、ミーネはもう一度、魔物の顎を捕らえると、上へ引き上げた。顔は汚物が乾いた上にさらに新しい汚物に覆われ、幾層にもなっていて、判別はできなかった。顔を近づけ、かなり長い間、耳をそばだてていると、鉄球をくわえさせられ、閉じることのできない口から、かすかな空気の漏れる音が聴こえた。それは、耳の奥でする自分の心臓の音に邪魔させるほどか細く、聞こえるのが気のせいではないかと思えるほどだが、確かにそれは呼吸の音だった。
それを確認すると、ミーネの恐れは驚嘆に変わった。生きている可能性が高いことはわかっていたが、この状態で長い月日を永らえていたことを目の当たりにすると、さすがに畏敬に似たものを覚えた。
持ち上げた顎の痩せて尖った感触を感じながら、ミーネの驚きは強い感銘へと変化した。死んだ方がどれほど楽だったか知れない。例え、舌を噛みきることはできなくとも、望めば自分の力で死ぬことはできたはずだ。けれど、この存在は自ら生きることを選んだのだ。その選択を思うと、ミーネは自分の中の、揺るぎない信念とそれを達成させるに必要な不屈の精神とが、この“魔物”と呼ばれている存在に共鳴するのを感じた。それは喜びとなって、ミーネの血の中を満たした。
彼は愛おしいものに触れるように、魔物の頬のあたりを撫で、動物の屍の破片を貼り付けている口の端にそっと口づけた。
束の間、自身の感傷に浸ってから、ミーネは作業を再開した。さすがに衰弱がひどく、魔物が抵抗する様子がないことを確認すると、斧で石の床に繋がれた鎖を断ち切った。その痩せた体に巻きついた食い込むほど重い鎖を解く。乾いた汚物を慎重にひきはぎ、両手と両足、そして首に鉄の枷がつけられているのを見つける。厳重な拘束はこの存在への恐れからだろうか、それとも憎しみからだろうかとミーネは考えた。自分だけでは手に負えないことを悟り、もう一人中に入るように指示した。
フライハイトは外からその様子を固唾を飲んで見守っていた。当然のことながら、やはり彼らは魔物を見物に来ただけではなかった。予想はしていたものの、それでも彼らが建物の中へ侵入し、魔物に接触する様子を見ると、怒りが湧き上がってきた。魔物の秘密が暴かれる事は、自分の中の秘められたものが暴かれる感覚に似ていた。大切なものを蹂躪され壊されていくような気がした。
その反面、どういう事情であれ、魔物がこの悪夢から救い出される期待に、安堵に似た感情が沸き上がってもいた。しかし、それを行うのが自分ではないことに憤りを覚えるのだ。そんな自分がこれまでに、そしてこれから先も魔物に安息を与える可能性などないことを知りながら、理不尽な怒りがフライハイトの心の
複雑な感情で混乱していた時、ふいに誰かが背中に触れてきた。それまで目の前の光景に心を奪われ、その気配に気付かなかったフライハイトは、完全に不意を突かれて体を強張らせた。それでも本能的に急に動くことはせず、建物の中と天井にいる男たちが自分たちの作業に集中していることを確認してから、ゆっくりと振り返った。
目の前にいる男は、ヴァールだった。
鋼色の髪をした長身の痩せた男の姿を見つけて、フライハイトは驚きのあまり、思わず声をあげそうになった。が、男が警告するように唇に指を当てるのを見て、喉元に競り上がってきた言葉を無理やり押さえ込んだ。
別れた十代の頃はほぼ同じ背丈だったが、今はフライハイトの方が高い。ヴァールの瞳が自分の視線の下にあることに違和感を覚えつつ、彼をまじまじと見つめた。十余年を経て見るヴァールは自分と同じ程度に老けてはいたが、昔と変わらぬ見る者の気持ちを落ちつかなくさせる奇妙な光を宿したブルーブラックの瞳でフライハイトを真っ直ぐに見つめ返してきた。
今までどうしていたのか、何があったのか、これは一体どういうことなのか、彼らとはどういう関係なのか、そして、今起きていることにお前は関わっているのか、実際に会うまでは訊きたいことが山とあったはずだった。
が、目の前に突如現れたヴァールを見た瞬間、全てが吹き飛んで、ただ胸が熱くなるような感情だけがあった。
しかし、ヴァールの方は再会の時を堪能する気はないようだった。その張りつめた気配を感じ取り、フライハイトは
ヴァールは小さく
魔物を
最初、ミーネは魔物を抱いたまま上に戻ろうとしたが、天井部分で待機していた男にはせまいリフトの中で二人分の体重を引き上げることが難しかった。そこで、魔物の体だけを綱で固定し、上から慎重に引き上げようとしたが、興奮したカラスが穴に群がってきて、宙につり下げられた魔物に襲いかかりそうになった。仕方なく、男たちはいったん魔物を下へ戻した。
ミーネが視線を巡らせて、窓越しにフライハイトを見た。無言だったがその視線の意味をフライハイトは悟り、うなずいた。窓から離れて建物を回り込む。すぐにリフトがおりてきて、フライハイトが乗ると、天井へと昇って行った。
上がっていくリフトの中で、フライハイトは壁に沿って立つヴァールと視線を絡ませた。彼の言葉を信じていいのかどうか、フライハイトは正直に言えば迷っていた。それでも、何かに運命をゆだねる他ないとすれば、ミーネよりもヴァールを選んだほうが後悔はなかった。
天井に達すると、男たちを手伝って魔物の体を引き上げる。一人がカラスの攻撃を防いでいる間、もう一人の男と力を合わせる。
まるでそれは、ゴミの中から取り出されたずた袋のようだった。見るもおぞましい様々なものを垂れ下げてゆらゆらと不安定に揺れる折れ曲がったままのその体に、命の気配は感じられない。それでも、まぎれもなく魔物であるという事実に基づくその存在感は肉体の重さに関係なく、それが近づいてくるにしたがい、その場にいる男たちを脅えさせた。
フライハイトは一瞬、
生きている。
体が震えた。この腕の中にいるのは、マクラーンの魔女、恐怖でブロカーデを支配してきた怪物、その行いにより五百年もの間、罰を与えられ続けた魔物。それが、少し力を入れただけで
顔を歪めて硬直していた侵入者たちは我に返ったように目を瞬かせた。自分たちの役割を思い出すと、ロープを穴の底へと投げ戻した。ミーネがそのロープにつかまる。
「手伝え」
男たちに命じられたが、興奮したカラスがリフトに横たえた魔物に襲いかかってくるために、フライハイトはそのそばから離れることができなかった。その状況を見た侵入者たちは、フライハイトの助力をあきらめ、自分たちだけで仲間を建物の底から引き上げようとした。
彼らの注意が建物の中へ向けられたその時、フライハイトはロープを持っている男の胸の辺りを思い切り蹴り上げた。
「うわっ」
不安定な足場で男の体は弾け飛び、リフトの下へ落下した。
「お前っ」
驚いたもう一人の男が事態を把握し、行動に移る前にフライハイトは胸ぐらをつかんで、投げるように下へ放った。二人は地面にたたきつけられて動かなくなったが、まだ生きているのをフライハイトは確認した。その男たちにヴァールが近づくのが見えた。
フライハイトは建物の中に視線を向けた。天井の格子に結び付けられていたロープを伝い、ミーネが登ってこようとしていた。フライハイトは男を下へ落とすか、上がってきたところを捕まえるか迷いながら、無意識に彼らが天井を破壊するために
道具であるそれはたやすく武器に変わる。握りしめたハンマーの重量感を感じた瞬間、フライハイトはそれまで押さえ込んでいた怒りが
「やめるんだ」
いついかなる時も感情が現れないらしい静かなミーネの声が下から聞こえた。建物の中で、声が静かに反響する。その静けさがフライハイトの心に反響し、彼の中で一瞬にして沸騰したものの温度をわずかにさげた。ミーネの暗緑色の瞳と視線が交錯する。ふいにフライハイトはそれが苔の色だと思った。森の中の湿った場所にある苔の色。
「どうしたというのだ?」
ミーネが平静な声で問う。愚かな子どもを諭す師のような物言いだった。それは決して主導権を手放そうとしない人間の声だった。
「家族はどうなる? おまえの行動で、すべてが決まるのだ」
言葉の意味とは裏腹に、それは命令の響きを持っていた。自信に満ち、自分の力に疑いを持たない、指導者として存在することに慣れている人間の声だった。
が、フライハイトにはその響きを無視した。我に返ったように、手にした物を武器から道具に戻して、怒りを吐き出すように、ロープをくくりつけてある鉄格子を思い切り叩いた。錆びて耐久性を失った鉄格子は数発の連打で窪んだ。
ミーネは突然のフライハイトの行動に困惑し、その愚かしさに腹を立てたが、宙づりとなった状態で為すすべはなかった。ハンマーが振り下ろされる鈍い音と共に、体ががくんと下がる。体勢を建て直そうともがくミーネに、興奮したカラスが穴から飛び込み襲い掛かってきた。それを払おうとして片手を離すが、ぬるつく手は体の重みを支えきれず、床に落下した。
中にいたもう一人の男が慌てて駆け寄り、堆積した汚物にはまり込んでしまったミーネを助け起こした。頭から腐敗物でどろどろに汚れたミーネは
ロープが結ばれた箇所は落ちてはこなかったが、人を支えるだけの耐久性はないことが見て取れた。無数のカラスがなだれ込んでくる。その黒い羽の隙間から、ミーネの目はフライハイトが視界から消えるのをとらえた。続いてガラガラというリフトが動く音がし、彼がここから去ろうとしていることに気づいて、しばし呆然とした。
何が起きたのか、理解できなかった。家族の命を誰が握っているか、フライハイトは無論わかっている筈だ。ただ与えられた平和の中で平凡に生きてきただけの男に、家族の命よりも大切なものなどあるはずはなく、抵抗するような気概も、機転も勇気も持ち得ない。自分に逆らうことなどできないはずなのだ。
ミーネは自分の思い描いた筋書き通りに事態が進まなかったことに困惑し、内心で猛烈に腹を立てながら、部下の助けを借りて立ち上がった。
「ヴァール」
その部下が驚いた声で言った。ミーネははっとして振り返った。鉄格子のはままった小さな窓の向こうで見慣れた顔が自分を見つめていた。その顔は昔と変わらず全くの無表情だったが、瞳に隠しきれない感情がかすかに浮かんでいるような気がした。ミーネも同じ顔でヴァールを見つめ返す。
ミーネはその瞬間、フライハイトが別の可能性に賭けたのだということに気づいた。ヴァールがこの状況の出口を示してくれるはずだと、信じたのだ。恐らくはヴァールの示唆によって。
それで、いいのか?
ミーネは自分を見つめてくる男に、無言で問う。すでに出口などないことをヴァールは知っているはずだった。フライハイトが行き着く先はもう決定している。それが、自分たちの仕業であれば、ただ
お前は、フライハイトを裏切ることになるのだ。それでもかまわないのか。
ミーネが心の中で発した問いかけを、ヴァールは受け止めていたはずだったが、何も返ってはこなかった。ただ、その無機質な瞳にある憎悪に気付いた時、ミーネはかすかな陶酔を感じた。自分に対するその感情の根源になっているものを思うと、優越感からくる仄暗い喜びが湧き上がる。それを嗅ぎ取ったのか、ヴァールの瞳にはっきりとした怒りが現れると、湿った喜びはさらに増した。
「ヴァール」
フライハイトの声が止まっていた二人の時間を動かした。ヴァールがはっとしたように視線を外した。自分との間にあった心地良い緊張が唐突に切れた事に失望を感じながら、ミーネはフライハイトの方を見たヴァールの顔がわずかに変化するのを見逃さなかった。それは、彼が見たことのないものだった。こちらを振り返らないままヴァールが視界から消えていくと、不快感を覚えている自分に気付いた。
痛みをこらえながら小窓まで歩み寄り、今はなすすべなく馬車が離れていくのを見送った。当然、魔物は彼らが連れていったようだった。ミーネは、長く、そして決して浅くはないつきあいで、ヴァールの全てをわかっているつもりだった。それ故に、今し方見せたヴァールの表情に驚き、その意味について考えた。
つまり、ヴァールにとっての聖域はこの「マクラーンの魔女」だと思っていたのが、そうではなかったのだ。
ミーネは暗い緑色の瞳で遠ざかっていく馬車を見つめ、薄い唇に
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