第31話 神秘主義に寄せて
中江兆民の著作に「三酔人経論問答」という本がある。明治の哲学書で広く読まれたものである。
それは、古代中世の征服者を良しとする豪傑君と、啓蒙の思想家である紳士君の意見の対立を扱った哲学書である。
紳士君がいくらギリシャ哲学を根拠に理想主義を唱えても、そんなものは、豪傑君の暴力主義に殴り倒されてしまうと書かれている。
紳士君と豪傑君の思想には、それぞれ、現実を反映したものがあり、両者の良いところを抽出する現実主義によって政治は動くとして終わる。
これは、百年前の明治の思想であり、現代だとさらにちがうと思われる。
しかし、紳士君の理想主義とはどんなものなのか。それは、井筒俊彦の「神秘哲学」という書にある記述が最も典型であると思われる。理想主義者の井筒俊彦は1949年の書で何をいったか、それは以下のようなことである。
哲学者は、生きて帰って来なければならない。
井筒俊彦によると、神秘主義とは、宇宙の究極的救済を目的とするものである。哲学者は、哲学の散策の中でそれを発見して、さらに、生きて帰って来なければならない。
哲学の神秘主義とは、それが宇宙の究極的救済を目指すことを発見することである。
井筒俊彦はいう。「人が神に成り、神であること」が神秘主義であるが、神に成るとは、力強い力を得ることではなく、人間の身に許された限り、宇宙を救済することである。世界を救済する理想によって神に似ることが、神秘主義哲学である。
これが、暴力主義に対しての、理想主義である。
暴力主義で最強を目指すという哲学者もいるかもしれない。
机上の空論と呼ばれても、理想主義を追求する哲学者もいるかもしれない。
しかし、ぼくは、哲学者すべてが宇宙の究極的救済を目的とすることには、不安を感じる。哲学の目的は、もっと多様であるべきだ。そして、志だけを高く掲げるのではなく、目的の実現のために策を練らなければならない。
ぼくは、暴力主義でも、理想主義でもない、第三の道、現実主義を訴えたい。
科学によって、事実の確認をくり返して積み重ねる現実主義こそ、現代における哲学だと思う。
哲学を読んで感動したというだけではダメなのだ。あくまでも、物質的な実利を得るために作戦を練らねばならない。
明治の哲学者である大西祝はいった。「天地の間のすべてを物質的に解釈すべきである」と。
理想主義も良い。だが、物質的な探究の積み重ねが、暴力主義の豪傑君にも、理想主義の紳士君にも、おそらくは勝つであろう。
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