第11話 元寇をシャレで解く

 日本文学は、従来、異口同音を使って複雑なことば遊びを行う。これを洒落(しゃれ)という。うまい下手があり、下手なものは駄洒落(だじゃれ)といって笑いものになる。しかし、日本で麗しきことをお洒落(オシャレ)といい、異口同音遊びの褒めことばがそのまま日常で好まれる修辞になっている。

 日本の歴史書は、シャレ文句を使って解読しなければ解けないことがあり、今からぼくが見つけた日本史におけるシャレを説明する。

 それは、一遍上人の開いた鎌倉仏教の「時宗(じしゅう)」と、同じく鎌倉時代に書かれた鴨長明の「方丈記(ほうじょうき)」である。どちらもすごい名文であり、日本文学史に名を残す文学作品である。

 一遍上人の「別号和讃」「百利口語」は感動的な仏教文学である。「一遍上人語録」として岩波文庫から出ている。

 鴨長明の「方丈記」は短いものの入手はできるだろう。どちらもインターネットで無料で公開されている。

 一遍上人の「時宗」は、これは読み方を訓読みにすると、時宗(ときむね)と読める。そうである。一遍上人の生きた時代に日本の統治をしていた執権太守「北条時宗」の名前になるのだ。

 なぜ、北条時宗の名前を示す宗教教団を一遍上人は組織したのか。それは、日本史において北条時宗がどういう人物なのか考えればすぐにわかるであろう。そうである。北条時宗は、元寇、モンゴル襲来の時の執権太守なのだ。日本の最高権力者と同じ名前の宗教教団が、モンゴル軍が九州に上陸したのと同じ年に作られたのは、偶然ではないだろう。

 ぼくは、一遍上人の「時宗(じしゅう)」はモンゴル軍と戦うための北条時宗の組織する秘密結社だと考えるのだ。モンゴル軍が攻めて来ると聞いて、北条時宗は秘術を開いて秘密結社を組織したのではないだろうか。一遍上人は、「六十万人句」といわれる札を配っていた。これは、一遍上人が六十万人の日本人を集めたという報告書であろう。

 そうだ。北条時宗は、一遍上人にモンゴル軍と戦うための日本人を集めさせていたのだ。

 元寇で押し寄せてきたモンゴル軍は、十万人いたといわれているから、それを迎えうった日本軍は、「六十万人句」の示すように、六十万人いたのではないか。それならば、モンゴル襲来において、日本が勝利したのは、神風などが原因ではなく、六十万人と十万人が戦って、普通に人数の多い日本軍が勝ったのではないか。

 もうひとつ、面白いシャレがある。元寇と同時期に書かれた鴨長明の「方丈記」である。これも面白いシャレになっている。「方丈記」は、シャレで「北条記」なのだ。「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまることなし」という名文は、日本という国が泡のように生まれ消えていくかもしれないという、モンゴル襲来の戦争を考慮して書かれたものであろう。日本の名家である賀茂氏が「方丈記(北条記)」などを書いたのは、日本存亡の戦いにおいて、司令官は北条氏がよいと暗示して提案した題名ではないのか。

 そして、日本は無事に元寇を勝利して、国を守ったのだ。ぼくは、今まで「隠者文学」とされてきた「一遍上人語録」や「方丈記」を、中世戦争文学として読むことも強くすすめたい。


1239年:一遍上人が生まれる。

1251年:北条時宗が生まれる。

1274年:モンゴル軍が九州に襲来。同じ時期に、一遍上人が遊行開始。一遍上人はその年のうちに九州にまで遊行している。

この頃、鴨長明が「方丈記」を書いたが、年代は不明。

1281年:モンゴル軍が再び九州に襲来。

1282年:北条時宗は臨済宗総本山円覚寺を建てる。

1284年:北条時宗が死ぬ。

1289年:一遍上人が死ぬ。

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