カブトムシを飼う男
とら猫の尻尾
カブトムシを飼う男
とある神社の裏山には黄金色に輝くカブトムシが棲息している――――
これは昆虫マニアが集うインターネットの掲示板に書き込まれたウワサ話なのであるが、その神社というのが会社からそれほど遠くはない場所にあることを知った私は、とうとう仕事を定時に切り上げアミとカゴを持って来てしまっていた。
アラサー男がそんな信憑性もないウワサに踊らされて我ながら情けない気持ちも少しはあるが、私は大の昆虫好きなのだから仕方がないのである。こんな私にも将来、万が一にもカノジョができてたと仮定しよう。『私と昆虫のどっちが大切なの』と問われれば、昆虫を選ぶ以外の選択肢が存在しない世界に私は生きている。
火のないところに煙は立たずとはいうものの、とかくウワサというものはその多くは誰かが大げさに語り、それが伝言ゲームのように尾ひれはひれが付いた結果、真相を暴いてみると実にくだらない結果が待っていることが多い。それどころかウワサ自体が誰かの悪戯ということだってあるのだ。
そんな疑心暗鬼の中、会社帰りのスーツ姿で右手に虫取りアミ、左手に虫カゴとライト代わりの折畳み式携帯を持って、小高い山の中腹を探索するアラサー男がこの私だ。
クヌギの樹木を中心に探ってみたが、今日の収穫は普通のカブトムシのオスが2匹、メスが1匹。そしてコクワガタのメスが1匹。もろん、全てフツーに黒い奴だ。
黄金に輝くカブトムシなんている訳がない。ちょっと考えれば分かるようなことなのに、どうして私はデタラメなウワサ話を信じてホイホイとこんな場所までやってきてしまったのだろうか。
時刻は7時をとうに過ぎ、辺りはもう真っ暗闇だった。
帰ろう。
肩を落として引き返そうとしたそのとき、振り向いたその先に光るモノが見えた。
心臓が高鳴る。
もしあれが噂のアイツならば逃がしてなるものか。
肩からカバンを下ろして細心の注意をしながら手近な木の根元に置く。
携帯電話を折畳み、スーツのポケットにしまう。
虫取りアミを両手に抱えて、身を屈めながら近付いていく。
足音を立てないように慎重に。
息をするのも
私の人生はこの瞬間のために存在していた。
それはまごう事なき黄金色に光るカブトムシ。
大きさも形も普通のカブトムシとそっくりそのまま。
そしてなんと、オスの下にはメスもいた。
二匹は交尾の最中だったのだ。
私は小躍りした。もうこれは、幸運の女神に投げキッスされた気分だ。交尾中に夢中なあの子たちは、私が近づいても気づきもしない。完全に警戒心が薄れていた。
「うはぁーっ! 捕ったどぉぉぉ――――っ!!」
私はガラにもなく大声で叫んでしまった。まるでお笑いタレントが
▽
翌朝は軽い胃痛と共に目が覚めた。
継ぎはぎだらけのトタン壁のぼろアパートの2階。その左端が私の部屋。小さな流し台とアンモニア臭が漂う便所、そしてタイルが所々剥がれているカビ臭い浴室。板張りの六畳間の窓側にはベッド、壁面にはパイプを組んで作った棚があり、そこには昆虫の飼育ケースと幼虫飼育用のボトルがきれいに並べてある。
昨夜は意気揚々とアパートへ帰ってきて――そこからの記憶が霞が掛かったように曖昧だ。
空いている飼育ケースに黄金色に輝くカブトムシのペアを入れ、それを眺めながら冷凍枝豆とチーズをあてにビールで一人祝杯を挙げた。それからカブトムシを写メールで撮って……誰にも送らず……いつの間にか寝てしまったのか……
ズキンと胃に痛みが走った。
昨夜のチーズにあたったのか!? いや、あれはビールを買うついでにコンビニで買った物だから腐っていたなんてことはないはず。
なら、この胃の痛みは……?
またズキンと痛む。
そういえば……私の至宝は!?
みぞおちを手で押さえながら前屈みで棚に近寄る。
昨夜の興奮を少しでも思い出せれば痛みも和らぐかもしれない。
「――――ッ!?」
実際、胃の痛みを忘れる程の衝撃が走った。
飼育ケースの底に光を失って仰向けになったカブトムシのオス。
メスは?
メスはどこにいる?
いない。
フタが開いている。
わずか2センチほどのこの隙間から?
しかしそれ以外に考えられない。
黄金色のカブトムシのメスは飼育ケースから逃げ出したのだ。
血の気が引くほどの喪失感。
胃の痛みが激しさを増す。
腹を抱え込み片膝を付く。
ヤバい。
これはただの胃痛ではないはずだ。
私は薄れゆく意識の中、携帯電話を開いた。
▽
「アニサキス症を疑ったのですがね、内視鏡検査でそれらしき痕跡もみられませんでした」
「はあ、そうですか……」
救急車で病院に運ばれた頃には既に痛みは収まっていた。しかし、症状がアニサキス症と似通っていたために念のための検査ということになった訳だ。
「ただ……奇妙な物が胃壁にくっついていましてね……」
そう言いながら医師は透明なガラスの器を出した。
シャーレの真ん中に半透明な何かが見える。
「何ですか、それ? そんな物が私の胃の中に?」
「はい。何でしょうね?」
顔を近づけて良く観察してみると、500円玉ぐらいの大きさの胴体から足のような線が出ている虫のような形の様にも見えるが、それは私の脳が昆虫脳に侵されているからそう見えるに違いない。そもそも、それが寒天のように半透明な身体をしている時点で昆虫ではない。
「まあ、念のため病理検査に回しますね。今日はお仕事も休んで自宅で休養してください。気になることがあったらすぐ病院に連絡してくださいね」
「はあ、分かりました」
釈然としない医師の診察に首を傾げながらも病院を後にした私はタクシーに乗り込む。
胃の中で発見されたアレは何だったんだろうか。
飼育ケースから忽然と姿を消した黄金色のカブトムシのメスはどこにいるのだろうか。
全ての答えは部屋の中にあると、私の直感が伝えてくる。
ちょっと冷房が効き過ぎではないか? 私はずっと、ほぼ無意識に自分の腹を撫でていた。
アパートに辿り着いた私は流し台に直行した。
考えてみると朝から一滴も水分を口にしていなかった私は相当喉が渇いているはずだ。
うがいをするついでに水も飲んでおこう。
そう思って蛇口をひねったその途端、得体の知れない恐怖感に襲われた。
水が怖い。
私はベッドに駆け上がって布団を頭から被った。
私はどうした?
私に何が起きているのだ。
水の流れる音さえも恐怖に感じる。
私は震えながら流し台へ戻り水を止めた。
しんと静まる部屋。
国道を行き交うクルマの騒音は聞こえているが、ガラス窓を挟んだこの室内はやけに静かだ。
トイレから漂うアンモニア臭。
隙間の空いた風呂場から流れるカビの匂い。
部屋全体に漂う芳醇な香り――
静寂を破る羽音。
ハエが室内をうるさく飛び回り、飼育ケースを並べた棚の角に止まった。
その時、私の目は一点に釘付けとなる。
私の目に映るそれは、何とも芳醇な香りに満ちた魅惑の食べ物だった。
唾液が口の中にどっと湧き出してくる。
ベッドから滑り落ちるようにその袋を鷲づかみにした。
私の理性が邪魔をしようとする。
しかし動物的本能の部分が食べろと指令を下す。
乱暴に袋を破くと、手づかみでそれを口に入れる。
一口目を飲み込むと、後は理性という名の
ふと冷静に戻ると、私が食べたそれは
――私は人として大切な何かを置き忘れてきてしまったらしい。
▽
携帯に着信あり。
おそらく会社からだろうが、もう電話に出る気力も無い。
無断欠勤を続けて何日目だろうか……
真夏の太陽がぼろアパートの屋根を灼熱地獄の様に変え、エアコンの無い部屋の温度は人間の体温を優に超えている。そんな中、私はベッドに横たわり腹に手を当てている。
臨月を迎えた妊婦の様にパンパンに膨れ上がったお腹の中で、無数の何かか
――昆虫は宇宙からやってきた。
眉唾物の説だと思っていたけれど、今なら信じられる。
宇宙からやってきた新種の昆虫は、現代の地球環境から最も安全で効率的な繁殖方法を選択したのだろう。
その結果が、人間の腹の中だったのだ。
私はまんまと彼らの術中にはまった訳だ。
この一週間、口にしたのは醗酵マットだけ。
この蒸し暑い部屋の中で熱中症にもならずに生きながらえている私。
人類を代表してお前たちに敬意を払おう。
そして……
最期に一言いわせてもらおう。
「私はお前たちには屈しない!」
私は薄れゆく意識の中で折り畳み式携帯を開いた――――
▽
「ねえママ、うちの近所にある神社にさぁ、光るカブトムシがいるんだって。明日、剛史と一緒に行っていい?」
「塾の時間までには帰ってくるのよ?」
「はーい」
僕は塾の宿題を素早く片付けると、玄関に置かれた飼育ケースの虫ゼリーを交換する。
ああ、光るカブトムシってどんな奴なんだろう。
ウワサ話なんて信じていなかったけれど、インターネットである男の人が撮った写真が出回ったことで一気に信憑性が増したんだ。
それは飼育ケースに入れられた光るカブトムシのペアの写真。
ああ、僕も早く捕まえて飼いたいなぁ……光るカブトムシ。
ママがテレビをつけた。夕方のニュース番組が放送されている。
『8月2日午後、埼玉県X市のアパートで男性の変死体が発見されました。
男性はアパートに住む○○さんであると見られています。
警察は遺体を解剖し死亡原因を確認中です。
なお、男性が発見される前日の夜、アパートの換気口から光る物が大量に飛んでいく様子が観察されており、警察は事件との関連を調べています。
次のニュースです……――――――』
カブトムシを飼う男 とら猫の尻尾 @toranakonoshipo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます