フェイクな偶然・フェイクなリアル

2919年6月23日(日) 中国新聞。

フタバ図書 ジ・アウトレット広島の書店員の言うのには、

「あなたの ”偶然” ホンモノですか?」

といいう帯の「偶然仕掛け人」

という本があるそうです。

内容は未読のためわかりません><

なんとなくそそられるので、

図書館で借りることにしました。(いま予約待ち中です)


この中国新聞の記事では、書店員の仕事として、

本屋にやってきた人が 「ついでにこれも買っていくか」

と本棚を眺めて買っていくのが仕事としてやりがいがある、

と書いてあったと思いましたが、

(要約が間違ってるかもです、原文をあたってください)

意図された偶然という点では、ポケGOのような、

道を歩いているだけでモンスターと遭遇するというのもあるわけです。

これはNianticによるあきらかにフェイクなリアル(意図された偶然)というべき現象です。

ポケモンの存在は、Nianticのサーバーによってランダムに表示されますからね。


このあたりで、偶然性とリアルの関係性というものを

ちょっと考察してみたりします。

バカな考え休むに似たりですが、まあ、ほとんどアクセスがないから

言いたいことが言えるんです(これで権威ある人からコメが入ってたら緊張する 笑)


ポケモンじたいはファンタジー的世界観を持っておりまして、

Nianticはこのファンタジーを現実に侵食させることに

成功したのでした。

続けている人にとっては、日常がファンタジーになってしまったわけです。

それと同時に、現実というモノは色を失ってしまいまして、

「神社とポケモンの写真が撮れた」

とか、

「食事をしているポケモンの写真」

などというものまでネットを騒がせていましたっけ。

偶然を仕掛けた人たちによって、ポケモンなしの生活が

つまんなくなってしまった面はいなめないんじゃなかろうか。

ほんとにそれでいいのかな、とふと思う今日この頃(Nianticは嫌いじゃないが

なにを考えてるのかよくわからんところがあるんだよね……)


自転車で町をぶいぶいやってますと、

日差しがだんだん暑くなってくる実感とともに、

自分のリアルがどこにあるのか、

ときどき 見失うことがないだろうか。と思う。

家に帰って俳句の歳時記をながめつつ、

日本には四季があって、それを楽しむこころの余裕があったはずなのに、

まわりにポケモンがごろごろしているために

四季のうつろいというものへの関心が薄れていく危惧も抱くことがある。


ほんとの現実がフェイクなリアルに圧迫されて、力を失ってしまっている。

偶然が仕掛けられているというのなら、拡張された現実はどこまで人間のこころを拡張していくのか。

「はてしない物語」のバスチアンのように、

世界を創造する力をむやみとつかいすぎて

自分自身を見失ってしまい、

ものをいう機械やAIにおだてられるままに

刹那的な人生を歩むことになりはすまいか。


やがて自分自身が断片的になったとき、

地球上に巨大な力を持つ個人としての「人類」が

バラバラになって他者に無関心になる。

プライバシー保護だ、炎上がこわい、ということで

本音を言えないギスギスした世界がやってくる。


ほんとうって、なんだろう。



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