花と心中

古鳥

花と心中

 ああ、夢を見ている。まどろむような春の夢だ。


 木枠の窓は開け放たれている。色褪せたカーテンが、四月の穏やかな風によって波のように寄せては引いてを繰り返す。細い陽光が窓の側に置かれた文机を通り過ぎ、無造作に積まれた本を焼いているようだった。古びた四畳半の片隅ではびろうど色の小瓶が転がっており、中から漏れ出た液体が畳に染みを作っていた。

 はらり、はらり。

 薄桃色の花びらが風に運ばれる。畳に転がる男へと、そっと静かに降り注いでいる。

 頬へ、腕へ、胸へ、足へ。

 生を終えようとする春の花をその身体に散らせる男を――――自分を見ていた。

 目線は低い。寝そべっていればこのような眺めになるのだろうかとも思ったが、それにしては見慣れた自分の部屋だというのに全てが大きく見えている。

 先ほどからこの『目』は、相も変わらず己の姿を映し続けている。楽しいことなど何一つありはしないというのに。そういえば、と思い出す。目の前にあるこの光景は、記憶にある中でのおそらく自分の最後の姿だった。まさかこんなつまらないものを夢に見ようとは。

 と、突然視界が揺れた。一歩、二歩と勝手に身体が前へ進んだかと思えばそこでぴたりと動きが止まる。その間も、畳に転がる俺からけっして視線を外すことはなかった。それだけだった。されど気付いた。たった今視界の端に映りこんだこの手足だ。驚くべきことに、今自分は真っ黒な毛並みの短い手足を持っている。

 夕霧だ。

 俺が勝手にそう呼んでいる大変美しい雌猫だ。墨を頭から被ったような艶やかな肢体を優雅に揺らし、小ぶりの顔に埋め込まれた山吹の瞳で、何が面白いのか時折俺をじっと見ていることがあった。

 そうか、彼女か。俺は今、まるで彼女に乗り移ったかのような夢を見ているのか。

 なんとも奇天烈な夢だなと興味深く思っていると、水面を震わすような微かな声がこだました。


『――春彦、どこへいく』


 年端の行かぬ幼子のようにも、俗世を生き抜いてきた老婆の声にも聞こえた。まさか、夕霧の声だとでもいうのか。

 物悲しげなその声に応える者はいなかった。

 桜の花びらが眼前を舞い散り始める。柔らかな春の色が己の視界を閉ざしていく。ああ、意識が途切れるのだなと頭の冷静な部分がかろうじて伝えていた。


 視界全体を染めていたのはぼんやりとした赤だった。それが燃えるような夕焼けだと気付いた頃には、既に己の目は緋色の中で佇む少年の背中を捕らえていた。

 明日が来ることを当然のように信じ切って別れの言葉と明日の約束を口にする子供達の声が辺りに響き渡っている。地面には、手を繋ぎ家へと帰る親子の長い影がいくつも伸びていた。

 少年は微動だにしなかった。それは触れれば消えてしまうのではないかと思うほど、小さく頼りない背中だった。

 ずっと遠くのほうでゆらゆらと揺れている夕日を、少年は飽きもせずその目に映し続けているのだ。心など、とうに置いていることにすら気付かずに、暮れゆく景色をただただその目に焼き付けていた。

 来るはずのない迎えを、待ち続けていたのだ。

 気配を感じたのだろう。ふと振り返った少年は右へ左へと視線を彷徨わせる。そうしてしばらくすると視線を送っていた俺を、いや、猫の夕霧を見つけたらしく一瞬だけきょとりと年相応の顔をしてみせた。

 そういえば彼女と出会ったのはこの時だったか。

 どこか緊張した面持ちで少年はこちらへと手を伸ばしてくる。その姿はまさに、仰ぎ見た鮮やかな夕焼けを美しいとは到底思えなかった頃の自分だった。

「オマエ、あたたかいんだな」

 恐れるような手つきで頬へと触れるその冷え切った手を、夕霧の身体を通して感じていた。こちらを覗き込む色素の薄い瞳はつるりとしていて思いのほか美しかった。

『寂しいのかい』

 大人しく撫でられている夕霧が静かな声で問う。少年には当然聞こえていない。

「オマエ、ひとりか?」

『そうだよ、気楽なもんさ。お前はどうなんだい?』

「俺はね、親戚のおばさんのところに住んでいるんだ。だからたぶん一人じゃない」

『確かに一人じゃないね。だが孤独なのか』

「時々さ、同じ夢を見るんだ」

『どんな夢だい』

「水の中。ぬるい水の中にいるんだ。口を開けばそこから水が入りこんで、息すらできなくなる。俺はおぼれるのが怖いから、だから、ずっと――」

 口を閉ざし続けるんだ、と少年の唇が動いて、その胸へとそっと身体が引き寄せられる。

 はらりと、一枚の花びらが視界を掠めた。

 瞬間、世界は転じる。


 温かい何かに包まれていた。抱きしめられていると気付くのにそう時間はかからなかった。そこはひどく落ち着く場所だった。

 頭上ではヒューヒューと、か細く喉が鳴っていた。上下する相手の胸の動きは速い。抱きしめる腕は細かく震えていた。

 雨の匂いが濃い。耳に響いているのは途切れることなく降り続ける激しい雨音だ。土や草木の濡れた匂いに混じって、男からは線香の匂いが漂っていた。それも雨によってかき消されつつあるが。

 目の前にいる男は、この時の俺は、雨の降りしきる中地面に膝をつき、胸に夕霧を抱いて離さなかった。己のために数時間も彼女を付き合わせた。

 友が逝ってしばらく経った、冷たい雨の降る夜だった。


 人付き合いをまったくせず書物と猫ばかりに向き合っている俺を、いつも構いにくるような変わったやつだった。男が楽しそうに話をしている時も、酒に酔って愚痴を聞かされている時も、病床で伏せって見舞いに行った時も、男の葬式に出た時ですら特段心が揺れることなどなかったというのに。

 ふと隣が寒々しいことに気付いた。久しぶりに雨の音を一人で聞いた。見慣れたあの騒がしい男が、もう二度と俺の前には現れないのだとこの時初めて知った。

 大切な友だったのだと、ようやく思い知ったのだ。


『――泣いていいんだよ』


 静寂から、ゆっくりと雨の音が戻ってくる。男の服がじわりじわりと水を吸い込み、色を変えていた。必死に唇を噛みしめながらも、時折我慢できずに吐き出される男の息は白く冷たい。

 降り止まない雨に、微かな涙の匂いが混じった。

『春彦、苦しいんだね。お前は、悲しいんだね』

 絡まった糸を丁寧にほぐすような、優しく慈愛に満ちた声だった。

 そうか。俺は苦しかったのか。俺は悲しかったのか。

 あの時俺は何も分からなかった。ただ胸がきつく痛んで、なぜか息もうまく吸えなくなって、あとからあとから涙が溢れて止まらなかった。

 こんな雨の日だ。辺りには人っ子一人いないというのに、それでも男は嗚咽を押し殺そうと必死になっている。

 悲しみが流れ込んでくる。男を想う夕霧の深い悲しみだ。

 ぽつりぽつりと弱々しい声で彼女が言葉を紡ぎ始める。男に届くことのない言葉を、ただひたむきに紡いでいた。

『なあ春彦、お前は自分の感情にてんで鈍い。いつまで経っても寂しい子供のまんまで、そのくせそれを表に出すことをひどく恐れている。それでも、そんな不器用なお前が私には愛おしくてたまらないんだ。あの時お前を受け入れ、共にいることを選んだこの道は間違っていないと思っている。だが一つだけ、私は後悔していることがあるよ』

 ああ、聞かせてくれ、夕霧。

 これはきっと、オレにとってあまりに都合のいい夢なのだ。己が望んでいるひどく身勝手な妄想を、夢のお前に押し付けているだけなのだ。それでも、聞きたいと願う。お前の想いも言葉も、余すことなく全て。


『どうして私は、人に生まれてこなかったのだろう』


 雨の匂いはもうしなかった。柔らかな春の匂いに一滴の涙が溶けていくばかりだった。

 どろりとした眠気が襲ってくる。身体が重く沈んでいくようだ。目を開けていられない。全てが遠くなっていく。恐怖はなかった、ただ心地良いばかりだった。ああなんて、なんてあたたかいのだろう。


 ふっと意識が戻ってくる。最初に目に入ったのは、見慣れた我が家の古い天井だった。そのことに少なからず安堵した。

 気怠い身体に活を入れ、のろのろと天井へと腕を伸ばしてみる。

 人の腕をしていた。どうやら夢から覚めたらしい。

 充分に時間をかけて息を吐き出し重い身体を起こせば、上に乗っていた桜の花びらがはらはらと畳へと落ちていった。その時、視界の端で転がる小瓶に目が留まった。それを徐に拾い上げ光に翳してみる。陽光を受けて色を深くするガラスの小瓶には、透明な液体が残っていた。

「死ねなかったか」

 どうやら自分は死に損なってしまったらしい。まったく、運が良いのか悪いのか。だがきっとこれで良かったのだろう。まだその時ではなかった、それだけだ。

 ぞんざいに小瓶を揺らしながら、どこかすっきりとした頭でそう思う。

「夕霧」

 その名前を舌にのせれば、足元で身体を丸めていた彼女は片目を開け尻尾でぱしりと俺の足を叩いた。いつものごとく咎められたのかもしれない。それが今はひどく心地良く、くすぐったかった。

「もう僅かばかり馬鹿なこの男に付き合ってくれ、夕霧」

 にゃあと猫が鳴いた。

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花と心中 古鳥 @furudori

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