等しく未完に終わる人生にて。
今日は曲を作っていた。
私は小説より歌詞の方が性に合っていると感じる(いずれも金にはならんが)。
あまり論理的な整合性に気を遣わなくても済むからだろう。
数独の中級でもたまに解けない程度には論理的思考は苦手である。
論理の破綻した文章で紡がれた小説はただ出来損ないのドグラマグラである。おそらく。私はドグラマグラをまだ読んだことがない。
その点で、歌詞はメロディと楽器のアレンジで誤魔化せる。
そんなんだから売り物になるような創作表現ができんのだ。了解している。
また、完成までの時間が短く済むところがいい。
曲は短ければ歌詞とともに10分以内で一丁上がりといったことができる。
筋の通った物語を紡ぐには、私の能力ではどんなショートショートであったとしても数時間はかかる。
さらに悪いことに私には短編を書く能力が壊滅的にない。
当サイトに掲載している文章で一番長いのがここで250,000字を超えている。一番短い小説でも106,000字だ。そして大抵の作品は一息に書き上げられず途中で短くない連載休止期間がある。一番集中力があったときは一ヶ月で110,000字で、公募の締切という制約も手伝ってくれた。そんなレアケースを抜きにすると、小説はとても長い時間をかけねば完成しないことになる。
ならばじっくり腰を据えてキーボードをカタカタとやっておればいいだろうという話になる。
が、しかし、私には時間があまりない。
これは真実ではない。
私は私の残り時間が少ないという確信的な思い込みが離れがたく存在する。
明日も私は代わり映えなく生き残っているだろうという、少なくとも日本国内ではアベレージと考えていい思考を私はできない。
だからなので長くかかりそうな作業には二の足を踏んでしまう。
じっくりゆっくり積み上げて完成させる前に私の時間が尽きてしまうのではないかと思ってしまう。
せっかちなのだな。
つまり私は論理的思考も建設的思考も苦手なのである。なにか得意なことはないのだろうか。意外と木材を擦り合わせて火を起こすのは得意なのかもしれない。落ちているドングリや木の実を見つける感覚は研ぎ澄まされていたり。ピラミッド建造の現場では我らがファラオに迷惑をかけてばかりだっただろう。
私にとって、すべては命が続くついでに行うことである。
「○○をやるために生きる努力をする」という型の考え方が苦手だ。
常に死を念頭に置いているから、すぐに終わらないことしかできない。
不安になる。
と、ここでひとつ発想を転換してみる。
「別に未完でいいじゃないか」
と。
難しいが、確かにその通りだと思う。
狩猟採集生活や文明の黎明期からこちら、人類の人生が未完で終わらなかったことなどない。
できる限り安楽な『未完』を打ちたいものではあるが。
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