余命が分かるなら一ヶ月は欲しい。
突然死ぬのであれば何の問題もない。
心臓よ、いつでも止まってくれ。
ただし中途半端に蘇生するな。
即死せよ。命令は以上だ。
そうでない場合、たとえば末期癌などある程度予後が掴めるものに関しては、わがままだが、一ヶ月は欲しい。
なんとなれば、100余の人々に最後のあいさつを済ませておきたいからだ。
ある日から急に連絡がつかなくなったり、毎月や隔週のペースで行っている場所に来なくなったりとなったら、無用の心配をかけてしまう方々がその程度は存在するのである。
そして私は基本的に一人で行動しているので、人づてに私の死を伝える手段というものがない。私の交友関係は、本当に私しか知らないのだ。
気が付いたらいなくなっていて、通夜も葬式も法要も済んでいる。そんな状況になる可能性が非常に高い。
なので、死期が分かったら、ひとつひとつ一人一人へ順にあいさつ回りをしたい。
行ってどうするのか。
感謝を伝える。
結局、私の中にあるのはそれだけだった。
生きるのは虚しい。死ぬことにすら意味はない。命に価値はない。
そう固く信仰している私が、いざ己の死に際してもっともやりたいことが感謝なのだ。
とても人の輪に入れるような人格ではない。人の世で生きられるような適応的な精神をしていない者が、少なくとも表面上は平穏な小市民としてどうにか擬態を続けられているのは、私などに関わってくれているすべての人のおかげだ。
犯罪者にもホームレスにもならず、ただ一人部屋で小説投稿サイトの場末にて自殺と死について25万字以上を書き連ね続ける程度の気の触れ方で収まっているのは、そうした人々のおかげなのだ。
せめて一言「ありがとうございました」と感謝申し上げねば仁義を欠く。
感謝リストに名を連ねる者の多くは、私がこの手紙を書き続けていることをほとんど知らない。
よしんば知っていたとしても、半分程度はフィクションだと思われるだろう。
それでいい。
私はあの人らにとって、最期まで“人”であらねばならない。
仁義とは、そういうことだ。
他人に付けられた名。
他人と関わるための人格。
他人と話を合わせるための言葉。
最期まで“祖父江直人”という“自分ではない何者か”をまっとうする。
最期が路上でも絞首台でもなかったことに、心から感謝を告げる。
その時間は、最低でも、一ヶ月、30日程度は欲しい。
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