人間の“設定”で、無理なところ。

 遺書も書き終えたことだし、いつもの手紙に戻るとしよう。


 ひとつ妄想をしてみる。


 私の住む地域で戦争、もしくは紛争が起こった。かなり大規模な戦闘だ。民間人も次々と殺されている。


 さて、如何にしようか考えた。


 そして、軍隊に入ろうという結論に至った。


 入隊が許されるかは分からんが、勝算は高い。心身ともに健康体で、そこそこは体力もある。猫の手も借りたい状況なら、むしろ喜ばれるかもしれない。


 しかし目的は戦うためではない。


 銃を手に入れるためだ。


 それを使って自分の脳幹を撃ち抜くためだ。


 殺し合いなんぞまっぴらごめんだ。


 戦火を逃れるのもかったるい。


 良い機会だと、ここですべてを終わらせる所存である。


 殺し合いの何が嫌だといって『大切な人』なるエモーショナルな“設定”が幅をきかせることだ。


 大切な人を守るために戦いましょう。


 嫌である。


 なんとなればそれは「大切じゃない人たちは殺してしまって構いません」と言っているに等しいからだ。


 なんなら「憎いアイツら皆殺し」である。


 私は人間のこういう野蛮さだけは好きになれない。


 軽蔑しているといっていい。


 だが当然、私もヒトであるゆえに、この“設定”には否応なく巻き込まれる。


 嫌である。


 だからとっとと死んでおさらばしてしまおうということだ。


 戦争・紛争・暴動からやってくる殺し合いの嫌さというのは底が知れない。


 やっていることは非常に野生的というか動物的なのに、その実態はいかにもだからだ。


 動物にも当然殺し合いはあるが、常に偏桃体へんとうたい優位とでもいうのか、縄張り争いや繁殖相手の奪い合いでカッとなってやってしまったとか、食うためとか、逆に食われないためとか、とにかく、“生き残るため”に行われることがほとんどだ。


 無論、遊び半分としか思えないやりかたで他種族や同族を殺す事例もあるが、そんな場合でもサルやチンパンジーや犬猫から『大切な人を奪われた私』なる奇妙な“設定”は生まれない。


 つい私たちが忘れがちな事実であるから敢えて指摘しておく。


 友よ、『大切な人』は『他人』だ。


 そこにどんな序列をつけようと、我々の脳や認知機能が生み出した主観的な思い込みだ。無論それだけなら悪いということはないが、それを『奪われた』と感じてしまうのは大いに問題があると思う。


 自分の中の“設定”が肥大化し盛り上がり暴走しているようにしか見えない。


 否、明らかに暴走している。


 だから阿呆の極みたる殺し合いは今日もどこかで続いている。


 自分が生き残るためならば仕方ない。


 法的にも正当防衛が認められる場合があるだろうし、心情的にも自分の責任を引き受けようという気になれる。


 だがしかし、『他人を殺した他人』を殺すのは承服できない。前者の他人が『大切な人』などといくら思い込もうとしても私には無理だ。


 そう、無理なのだ。


 この人間の“設定”だけは、私には、無理なのだ。

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