スキゾイドは“人間”を真似、“自分”を振る舞う。

 本はいい。別に映画でもゲームでもいいのだが、他者の価値観、思考に触れる一番お手軽な娯楽は本だと思う。


 私が小説や随筆、軽い科学書や哲学書で知りたいのは「別の視点」である。


 それが正しいのかは置いておき、支配的な言説のオルタナティブな面を知ることができる。一面だけでは“人間”は分からない。私には“人間”を知る必要がある。そういったところで、本はいい。


 ある本で、ナチスのホロコーストは存在しないという言説に出会った。


 また一方で、ユダヤ人虐殺についての本も読んだ。


 どちらが正しいかは、私の頭では分からない。


 ただ、「「ホロコーストは無かった」は人前で言わない方が良い」「誰であれ人の死には悲しんで見せた方が良い」との“適応的振る舞い”を身に着けることができた。


 そうして私はまたひとつ“人間”を知り、また一歩“人間の真似”が上手くなったのである。


 今日は少し狂った内容の手紙になると思うので、この時点で謝っておく。友よすまない、私はこんな奴なのだ。



 私のような、いわゆるスキゾイドには“自分”がない。




 自分とは何かと問われれば、私は外的影響の蓄積物だと答える。


 我々は染色体の一本、遺伝子のひと欠片かけらすら己で選べず生まれてきた。


 先天的/後天的、遺伝/環境などを問わずすべては外部からもたらされた。


 それらをレゴブロックのように積み上げたり、もしくはジェンガのようにところどころ抜いたりしてできあがったヘンテコな塔が個々人の中にある“自分”である。


 それがない。あるべき場所にないのが私だ。


 自分という器、自分を組むべき礎の部分、腹のたんの部分になんぞかが溜まった気がせんのである。いつまで経っても更地なのである。


 人と話しているときも、またこうして物を書いているときも、他人が私の口や手を借りて自動で言葉を紡いでいるような感覚がぬぐい去れない。


 かといって、それらに反抗したいわけでもないので、そのままにしてしまう。私の中の“自分”はいつまでも空虚なまさに空き地のまま存在し続けている。


 こうなってくると、もう空虚そのものが私である。自分すら他人、永遠の傍観者、人生という名のスポーツ競技を沿道から見つめるたった一人の群衆である。

 

 最初の話に戻ると、ホロコースト否定説など読んで「阿呆なことを書いている者がいるな」と思っている私はいる。


 人の死にまったく動じないわけでもない。


 だが、そういった“自分”という名の塔の有り様を、ただ見物している“自分”が同時に存在しているのだ。


 私の感情は私の心と繋がっていない。


 なので、私が何を感じようと行動の指針になり得ない。


 そうなると最大公約数的な“人間”を真似るしかない。


 どこまでも“適応的な私”を演じ振る舞うしか法がないのだ。


 それが辛いだとか苦しいだとかはない。まさしく感じない。感じないのは問題ない。面白い話だ。私にとっては無感情こそが一番信のおける感情なのだ。


 予告通り狂った話になってしまった。


 これを読み下すのはかなり難しいと思うのでざっと読んだらさっさと忘れて頂いて構わない。


 どうせまたいつか同じようなことを書くと思う。

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