不健康な自己肯定、たまには健康的な自己否定。

 人生に、この世界にこの宇宙に、価値のあるものなど、ひとつとしてない。


 あるのはただ苦しみと、それを減らすための虚しい作業である。


 まぁ待たれよ友よ。


「こやつはまたぞろ人のトサカを立てるようなことを書き始めた」


 と笑っておられるだろうが、その通りなのだが、読んでいただきたい。


 私とて、価値観の多様性はあった方が良いと思っている。


「人生は素晴らしい」「生命には価値がある」「生きることは何らかの意味がある営みだ」と。


 そう考えることを否定したくはないのだ。


 結果的にそうなってしまうというだけである。


 なので今日はそのあたりについて考えてみたい。


「人生は素晴らしい」と考える人に「人生はくだらない」と考える自由はあるか。


 生きていれば、いろいろある。


 避けようのない小石に蹴躓いたと思ったら、それがきっかけとなり、大きな苦痛に苛まれてしまうこともあるだろう。


 そこに至ってなお「人生の価値と意味」を信じ続けるのは、辛いことだ。


 QOLが下がり続ける状況で、上がり目もなく人生を素晴らしいものだと思い続けるのは、それはいわば「価値観に食い殺されている」ようなものだと思う。


 そんなことになるくらいならば、「人生には何の意味もないんだ」と考えた方が、いっそ楽になる。


 しかし果たして、“鞍替え”することはできるだろうか。


 私は、難しいのではないかと思う。


 なんとなれば、「人生は素晴らしい。価値がある。意味がある」という価値観は、「いずれ必ず死んでしまうものを生み出す欲望」を道徳的な善にしてくれるものだからだ。


 それは単純な出産の肯定に留まらない。 


 自分自身の出生すらも認め、讃えてくれる。


 また逆に「くだらないもの」「無意味・無価値なもの」に対する、正体の無い忌避をもたらす。


 自分の命を「くだらなくてもいい」「無意味でもいい」「無価値でもいい」とは思えなくなってしまう。


 思考から、柔軟性が奪われる。


 人生は素晴らしくから、今自分が感じている苦痛も辛苦もいつか良いものになる―――もしくは、今この時点で何らかの意味や価値があるものだと


 哲学的な信念が現実の苦痛より優先されてしまっている。


 人生を肯定する価値観が、「肯定せよ」と圧力を加えてくる。


 これを『不健康な自己肯定』と呼ぼうと思う。


 たまには否定してみることもいいとお勧めしたい。


 それこそ、多様な価値観に満ちた、善き人生ではないだろうか。


 


 

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