私は失敗を怒らない。

 眼鏡のレンズに傷がついてしまった。


 誰も悪くない、私の不注意からやってしまったことなので受け入れるより仕方ないのだが、かなり大事に使ってきた自負があったので、少し落ちこんだ。


 だが、自負は往々にしてうぬぼれであるのだな。


 ヒヤリ・ハットではないが、何らかの失敗が起こってしまうのは、それ以前の生活というのか、普段の過ごし方に良くない点があったのだろう。


 気を付けるとか、集中するとかではない。


 気が付けないほど良くない習慣が身についてしまっている。たとえば知人はシートベルトを付ける習慣が身についておらず、いつも走り出してから車の警告ランプを見て慌てて付ける仕草を繰り返している。


 集中力が散漫になってしまう生活の仕方や体調不良がある。たとえば睡眠不足、たとえば偏った食生活、便秘、下痢、その他生理の不調などだ。


 だから私は遅刻をとがめない。


 心配するだけだ。


 必ず、そうなってしまう原因がある。それを探して見つける方が先決だ。


 だからといって、解決できるとは思っていない。


 むしろ、解決不能な場合の方が多いと思っている。


 大抵は、どうしようもないことだ。


 歩留ぶどまりとでもいうのか、あまねく社会に適応した生活を送ることができない人間は、どうしようもなく存在する。


 工業製品であれば歩留まり(良品)から弾かれたものは捨てればいいだけだが、人類社会ではそうもいかん。『すばらしい新世界』ではないのだ。黙って殺されてやる者などいないだろう。


 すると、我ら愚かな人間たちは、無理やり“社会人”の鋳型いがたにその人を押し込むわけだ。肉がはみ出そうが、骨が折れようがお構いなしにだ。


 先ほどの話に戻せば、我らはつい、遅刻や不注意といった失敗は、原因さえ見つければ、解決できると思ってしまう。 


 正確ではないな。


 解決できる、大変なことになると思い込んでいる。


 失敗は成功の母。ではない。失敗を反省し原因を改めれば解決できるという『物語』を成立させるために、二つの間を無理やり血縁関係の線で繋いだのである。


 成功の裏には数多くの失敗があることは確かだろうが、失敗は大抵、自立独歩している。だから、正確を期すなら失敗は義母だ。そして成功は失敗の養子である。


 私如きの凡夫は、失敗の痛みなくして省みることができない。


 レンズの買い替えは痛い出費ではあるが、やってしまったことを振り返れば、いつかやる類のミスであった。遅いか、早いかだけである。仕方ない。諦めはつく。


 二度とやるまいと対策もすでに立てた。同じミスは起こらないだろう。


 しかし、こんなことは稀だ。


 ほとんどの場合、失敗は痛みとしてだけ残る。原因は見つかれど、解決も改善もできぬまま、ただ呼吸と鼓動を繰り返すごとに降り積もる痛みの果て、私の親愛なる友たちはこう漏らす。


「生きることに失敗した」


 私から何事かいうべきことはない。


 余談だが、一つ良いことはあった。


 割合と目を酷使する生活をしている自覚はあったのに、視力はまったく下がっていなかった。


 特に何も気を付けていなくても、成功は向こうから転がり込んでくる場合もある。と、そういう話である。

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