あきらめはすべてに通ず。しかしながら。

 私は個人的に、現在2020年4月から5月にかけて行われている。“自粛”“ステイホーム”“ロックダウン”といった政策、掛け声に関しては、明確に反対である。


 病気は迎え撃つものではなく、あきらめるものだと考えているからだ。


 罹るも罹らぬも、重症化するも軽症で済むも、生きるも死ぬも、すべては運次第であり、そのときに振られた賽の目で決まる。これは、どれほど科学が進歩し、医学が充実しても変わらない。


 そして、これは個人の意見であって、市民としての私の振る舞いは、とりあえず政府の提示するところに従っている。これもまた、あきらめである。個人の思いがどうであれ、市民として動かねばならんときは来るのだ。


 しかしながら、希死念慮に首まで浸かった自殺志願者に、市民の振る舞いは望むべくもない。他者が自分の思うままにならんからといって、それはどうにもならない。おもちゃ売り場で泣き喚く幼児のように駄々をこねても無駄だ。


 あきらめよ。


 あきらめは、すべてに通じる処世術である。


 とあるサイトに、『COVID-19の死者数を日本政府は過少申告しているのではないか』と題された記事があり、読んでみた。


 結論としては、「過少申告を疑う動機はうかがえども、実際にやるのは不可能」という穏当なものであった。私もそう思う。


 もしそうであったのなら、何らかの死因に異常な数値が出ているはずだと思う。


 と、考えたとき、各死因の死者数など知らないことに気付いてしまった。


 毎年、毎月、毎週、毎日、どれだけの人間が病死し、事故死し、過労死しているのか、私は何も知らない。


 自殺者数だけは、だいたいの数字を知っている。興味の向く死因だからだ。


 とはいえ、仕方のないことだ。


 他人がどうやって死んだのかについて、興味を持てという方が難しかろうよ。


 そもそも、死ぬこと自体は大したことではないのであるからして。


 疫病を広めてはいけないのは、死ぬからでも、人類が絶滅するからでもない。


 放っておいても人は死ぬし、人類は滅亡だ。そんなことはどうでもよい。


 感染拡大パンデミックにおける真の問題は、それが不快と苦痛を増大させることだ。


 私は、そう考える。


 苦しみは減らさねばならぬ。不快(=不幸)は根絶やしにせねばならぬ。


 病気で死ぬのは当たり前であっても、かからないに越したことはない。


 だからこそ、個人としてできる予防策を、市民として行っている。


 しかしどうやら、世間はそうした理路で動いていないようだ。


 特に中央政府だ。どうにも真剣さを感じない。


 このままでは病死<餓死者という下の下の底を抜けた結末となるだろう。


 それをあきらめる境地には、私もまだ、至っていない。

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