意味なんていらないんだよ

 年末だ。


 我が家では毎年年末は餅をつくことになっている。餅つき、というが、所作としては“餅こねり”の方が実態に則している。つくのは本当に最後。仕上げに少しやるだけだ。八割方はこねる作業で決まる。私は三臼こね、ついた。今は筋肉痛の名残を惜しみながら、この手紙を書いている。


 親戚が集まるということで、一歳半にさしかかろうかという甥もやってきた。彼が餅をつけるようになるまで、私はやっているのだろうか。


 あまり興味がない。


 来年に対しての感慨もない。時間の矢は止まらない。勝手にやってきて、勝手に過ぎるが良い。


 先のことを考えることが、本当になくなった。


 どうせ最期は死ぬだけだろうと、諦観がすっかり我が物となった。


 現在取り掛かっている小説や、決まっているライブなどはこなしてから、などとは露程度に思うが、できなかったとして、それもまた人生だと思う。


 今この場で心臓が止まったとしても、悔いはない。悔やむことをやめたからだ。私は私の人生について、ほぼ納得した。


 というところで、本題に入る。


 年末は自殺が増える。2019年と共に自らの命も葬ろうと画策する妙な生真面目さを持つ御仁が多いからだ。


 思えば、この『親愛なる自殺志願者へ』を始めたのは、元号が変わり、平成と共に滅ばんとする真面目人間たちに、何か一言書いておきたかったからだった。なんと、これを始めたのはまだ今年の話か。一年は長い。


 それはそうとして、自殺の話だ。


 止めはしない。だが、まだ正体も定まっていない未来に怯えて死ぬというのは、いかがなものか。


 人は、ありもしないものをあると言い張って、それを勝手に恐れ、自家中毒に陥る生き物だ。


 社会。

 世間。

 経済。

 将来。

 宗教。

 幸福。

 不幸。

 天国。

 地獄。

 霊魂。

 夢。

 絆。

 人生の意味。

 生命の価値。


 中途半端に肥大した脳みそが自意識を生み出した。それがケチのつけ始めだろう。


 死を理解することができるのに、受け入れることができなかった。


 どこまでいっても、我々はこの大地にへばりついた矮小な動物に過ぎないことを認められない。


 やがて死ぬことを分かっていながら、次世代を生み出す所業など「何となく成り行きでそうなった」以上の理由などないのに、意味がうんぬん、価値がかんぬんと、言ってる傍から疑り深くなる屁理屈を持ち出すから、おかしなことになる。


 一方で、最近は潮目の変化を感じる。


 資本主義や民主主義、はては人類について、「どうやら来るところまで来てしまった」という声が聞こえ始めている。


 人類は大した生き物である、という我々の自意識が生み出した最大にして最低の幻想が、問い直されている気配がある。


 私の甥を始めとする、新たな世代に対しては、是非この考えを突き詰めてもらいたい。


 そして、人が生きることに、何の意味もいらないんだよ、と無意味を無意味のまま受け取れる者が増えて欲しいと思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る