安楽死の蠱惑的な魅力について


 とあるベルギー人の方が安楽死したという記事を読んだ。


 彼女は障害者であり、アスリートでもあった。パラリンピックで金メダルも獲得し、耐え難い苦痛から解き放たれるべく、安楽死を選んだ。


 善く生き、善く死んだ。そう書いて差し支えないと思う。


 私の感想はそれだけであるが、一つ、この報道を「自殺報道」だとする意見を目にした。


 語義的に間違いはないのだろうが、違和感が拭えない。


 安楽死を自殺と呼んでいいものか。


 なんというのか、『自殺』という言葉に内包された手前勝手な自由気ままさというものが、『安楽死』という文字列からは感じられない。


 自らの葬儀を取り仕切るような、淡々とした手続きの色彩を見る。


 そして、それはとても望ましいものだとも思う。


 きっと私は、自殺というのを、世の中で最もアナーキーなものだと思っており、そして、そうあるべきだと考えているのだと思う。行政への申請と審査と手続きによって為される安楽死に、当然、アナーキズムはない。


 アナーキズム(無政府主義≒権威/権力の減少もしくは廃止を目指すこと)にも魅力はある。実際、秩序を否定するものではない。だが、現在はあまりにも奔放に過ぎる。


 まるで風呂場で身体の垢をこそぎ落とすが如く、人がぼろぼろと自殺していく。まったくの無秩序。


 一方では「生は唯一にして侵しべからざるもの」と崇め奉る宗教があまねく跋扈ばっこしている。


 まったくもって不健康だ。


 我々が永遠であった試しはない。これからもだ。なのに、いつか必ず来る死はこの社会で、あたかも“穢れ”のように忌避されている。


 死を忘れてしまうほどに、生ばかりが野放図に広がった社会。だがよくよく思い起こしてほしい。死とは、我々が物心つく以前より住まう最も古い隣人の一人だ。家族ではなく、友でもないが、常に私たちのすぐ傍で年貢の納め時を待ち続けている。


 死はある日突然、私たちの家にノックもなしに土足で上がり込む。やや不作法だが、彼は悪を働きに来たのではない。そういうなのだ。


 安楽死とは、死という隣人に、せめて、ノックと、丁寧に履き物を揃えることを促す重要な儀式であると思う。 


 安楽な死。


 魅力的だ。蠱惑的ですらある。


 それはつまり、生ほどに死が適切に管理されていないということだ。


 冒頭、私は「善く生き、善く死んだ」と書いた。


 別に「善く」ある必要はないのだ。


 ただ死を、不当な穢れの檻から解放したいと思う。安楽死は、その第一歩であると思う。

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