将来の虚栄
土砂降り。
凍えそうな冷たさの中に、彼女は立っていた。
両腕に黒猫を抱えた彼女は、微笑を浮かべていて、何度も猫の頭を撫で付ける。幾度も幾度も、そこに魂を固着させるかのように。
傘の隙間から視えた彼女は、私の白い呼気の只中にいた。
彼女の制服のスカートは真っ赤に染まっていて、遠巻きに視ている学生たちが、
女が泣いているのか、空が泣いているのか。
車に
「…………」
あの光景を前にしてから――私は、西條桃を嫌えなくなったのだ。
「渚ァ、写真撮ろうぜ!!」
「……はぁ?」
唐突に。そう、突然に。
西條桃が部屋にいても気にならなくなった頃合いに、兄さんは古いインスタントカメラを手にそう言った。
「どうしたの、急に? 貴方がなにかを始めるのは、いつも、天災みたいに予測のつかない
「いいじゃねぇかァ、ようやく、ふたりが仲良くなったんだしよぉ」
「あのね、別に、この
「渚ちゃん、この間は、傘をもってきてくれてありがとうね~」
当時のモモ姉は、無敵の人だった。
なにせ、皮肉とか悪口とか忌避とか、なにもかもの意味が通じずに、笑顔で弾かれるのだから。気の持ちようとはよく言ったもので、受け止める側が気にしなければ、私の悪口雑言は自分の喉を痛めつけるだけになるのだ。
「今思えば、仲良し兄妹で写真なんて撮ったことなかったしよぉ。俺の仲間のひとりに、コレ借りたから、せっかくだし、な?」
「……今、勉強中」
「なら、勉強終わり~! モモブルドーザー、ザーッ!!」
「はぁ!?」
けらけらと笑いながら、机の上の参考書を片付け始めたモモ姉は、こちらがわたわたしているうちに手を引っ張った。
「うおっしゃァ!! 気合い入れるぞ!! 写真を撮られると、魂が抜かれるらしいからな!!
渚ァ、抜かれねぇように、気合い入れろォ!! 闘魂!! 混入!!」
「大変! 闘魂が異物みたいになっちゃってる! 気をつけて!!」
「し、死ねばいいのに……」
庭先でギャーギャー喚きながら、カメラを構える兄に耐えられず、熱をもった頬を隠すように
「ねぇ、せっかくだし、三人で撮りましょうよ。貴方も入って」
「あぁん? んなことしたら、俺とモモの子供が渚ってことになって、若い時に子供を作ったやんちゃカップルみたいに視えねぇ?」
「それって、素敵ね!」
「だなァ!」
「たすけて……解放して……」
笑い合いながら、肩を組むふたりは、カップルと言うよりは親友みたいだった。
「そこの通りすがりの人ぉ、すんませんけど、撮ってもらっていいすかァ?」
「おねがいしま~す!」
二人三脚みたいに肩を組んだまま、突撃してくるカップルを前にして、一般人の方は大いに驚いていた。だが、事情を聞くと優しそうな笑みを浮かべて、初老のその御方は「もちろん、構いませんよ」と快諾してくれた。
「渚ァ」
兄は、いつものへらへらとした笑顔で、愛おしそうに私の頭を撫でた。
「渚は、将来の夢ってあるかァ?」
「……ないよ、そんなの」
今も昔も、私には、夢なんてものはなかった。ただ、呼吸して、生命活動を維持しているだけだ。
そこに
「ないことはねぇだろうがよ。あんなに一生懸命に勉強してる、兄ちゃんの自慢の妹なんだから、夢なんてもんはたらふくある筈だ。渚の未来には、夢がこーんなによ! こーんなに詰まっててよぉ! 兄ちゃんもびっくりの、すんげー人になるんだから!」
「……勝手に、人の将来を決めないでよ」
あの時の私には、いつも、余裕がなかった。
「誰のせいで、私が、こんなに勉強しなきゃならないと思ってるの……お父さんもお母さんも、兄さんのことを諦めきってるから……だから、私は、あんたの分も期待されて、勉強しなきゃならないんだ……もっと、遊びたいのに……な、なんで、私ばっかり……あんたのせいで……あんたのせいで……」
八つ当たりだ。八つ当たりだよ、お前のやってることは。
そんなこと、兄とは関係ない。父と母だって、お前に、必要以上の勉学を強制したことはない。ただ、他人から良く視られなければという、お前の傲慢で偏屈な心がもたらした虚栄に過ぎないんだ。
なんで、わからない。どうして、そのことがわからなかった。
「ごめんな」
微笑みながら、兄は謝って――
「ごめんなァ、ダメな兄ちゃ――」
「私のぉ!! 将来のぉ!! 夢はぁ~!!」
急に、バカでかい声で、応援団長みたいに腰の後ろに手を回したモモ姉は叫んでいた。
「将来!! 幼稚園の先生になってぇ!! 自分の担当した子供たち全員ぉ!! 幸せにすることでぇ~すぅ!!」
そして、私の方をちらりと視て、くすりと笑った。
「なんちゃって」
「……はは」
兄は、その姿を視て、笑いながら続けた。
「俺はァ!! 幸福な王子に出てくる王子様みたいにぃ!!
「あはは! おっきな声!」
ふたりは、なにかを期待するかのように私を視る。
ない、とは言えなかった。
見栄っ張りだったから。夢のない自分がみすぼらしく思えたから。
だから、雲谷渚は――叫んでいた。
「(消去しました)」
夢なんて……私には、ない。
「皆さん、とても、素晴らしい夢ですね……だから、良い写真が撮れました」
いつの間に、撮っていたのだろうか。
男性の手から、一枚の写真が差し出される。
手を握り合っていた兄とモモ姉は、本当に幸せそうに、三人の笑顔が映った写真を見つめていた。
「渚ァ」
兄は、優しい笑顔で言った。
「ありがとなァ」
愛も幸福も、まがい物だ。
本当に、愛とか幸福なんてものがあるなら……写真なんて要らない。
目に見えぬものを形として、実証として欲している時点で、欺瞞に溢れたおためごかしであることを認めている。
「う、うん」
幼い頃の私が、兄と写真を撮れたことに喜んで、これからの未来に胸を高鳴らせた三日後の晩――兄が、私の部屋を訪ねて、こう言った。
「渚」
彼は、笑って、こう言った。
「兄ちゃんの腎臓、この子にあげようと思うんだ」
この先は、思い出したくない。
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