偶然か必然か

 12歳の誕生日、兄さんは、私に『幸福な王子』という短編が載った、オスカー・ワイルドの短編集をプレゼントしてくれた。


「兄ちゃんは、幸福な王子になりたいんだ」


 まだ子供だった兄さんは、繰り返し、そう言っていた。


「誰かのために、善いことを出来る人になりたいんだ……僕自身も、そうやって、人に助けられたから……」


 兄さんは、脳死判定を受けた臓器提供者ドナーの心臓のお陰で、現在いまを生きることが出来ている。移植を望んだのは、兄さんと同じくらいの歳の子供で、彼はいつも戦隊ヒーローの人形を手に「正義の味方になりたい」と言っていたらしい。


 時折、兄さんに、遺族の方々が会いに来る。


「どうか、善い人間に……」


 袋いっぱいのヒーロー人形を兄に渡しながら、臓器提供者ドナーの母親は、泣きながらささやいていた。


「どうか、あの子のような、善い人間に……なってくださいね……どうか……どうか……」

「はい」


 兄さんは、あの時から。


「絶対に、僕は、善い人間になってみせます」


 変わったのだ。






「ねぇ、渚ちゃん」

「気安く、話しかけないでもらえますか」


 私は、事あるごとに、会いに来るモモ姉に辛く当たっていた。


 たぶん、純粋な嫉妬心だった。兄との仲直りのキッカケを潰されたと、勝手に思い込んで、目の前の女性ひとに兄をとられると思った。


 だから、私は、モモ姉が嫌いだった。


「私は、貴女と兄の交際を正式に認めたわけじゃありません」

「それは困ったなぁ」


 本当に、困ったみたいに、へどもどしながらモモ姉は微笑む。


「でも、私、彼が初恋なの。はじめて、人を好きになったのよ。愛情というものが、こんなにも尊いものなんて知らなかった」

「……惚気のろけに来たんですか?」


 なぜか、兄が留守の時でも、私の部屋にモモ姉は遊びに来ていた。


 恐らく、兄から、お願いされていたんだろう――俺の代わりに、妹を見守ってくれないかと。


「え、えぇ」


 顔を赤くして、髪の毛を、指でくるくると回したモモ姉ははにかむ。


「そ、そう聞こえる?」


 恋する乙女というものは魅力的で、当時の私には、その笑顔が苛ついて仕方なかった。でも、私とて、兄の好みの女性というのはどんなものか、妹なりに気になって、情報を得たいとも思っていた。


「……兄とは、どこで知り合ったんですか?」

「渚ちゃんは、知ってるかな」


 質問には、直接応えずに、モモ姉はつぶやいた。


「ボランティア活動をしている子たちの大半はね、飽くまでも、アレを“活動”としてしか捉えてないの。内申書のためとか褒められるためとか人から良く見られるためとか、思惑はたくさんあるんだけど、彼らの間にはひとつの共通事項がある」

「……なんですか?」


 参考書から顔を上げて、振り返った私に、モモ姉は特徴的な微笑を向ける。


 まるで、聖堂に飾られている絵画の一場面……聖母が、いたずらっぽく、微笑んでいるみたいな。


「人目がないと働かないのよ。

 つまり、ボランティア団体という共同体に所属し、奉仕活動という立派な名目があって、善行と書かれたバッジを身に着けないと働かないの。まるで、行動経済学の原則にのっとっている。自分の利益を最大化するための合理的行動……それを、奉仕活動ボランティアと呼ぶのね」


 一息ついて、モモ姉は続けた。


「殆どの人たちは、一度、奉仕活動から手の離れた対象からは縁を切る。きっと、誰かに弱者を明白化してもらわないと、彼らは救うことが出来ないのね」

「社会に属する以上、当然のことだと思いますが。偽善云々の話については、私個人としては、なにもしない口だけの人間の数百倍はマシだと考えますね。

 労働に対する報酬を望むのは、当たり前のことです。古来から、狩猟や採取を行って対価を得てきた人間にとって、生きるために不可欠な生存戦略ツールですから。そこから、逸脱するほうが異常だ」

「私もそう思うよ。

 偽善というのは、善行を働きたくない人間が作り出したおためごかしだからね」


 なら、どうして、そんな話をしたんだ……そう思った私を見透かすように、モモ姉は、にっこりと笑む。


「でも、彼は違ったの。

 私のお婆ちゃんがいる老人ホームに、ボランティア活動でやって来た彼は、同じ団体のメンバーが来なくなっても毎日やって来た。そして、同じことをする。老人の中には、辛くて厳しく当たる人もいるのに、彼はいつも笑っていて人の輪の中にいた」


 祈るように、モモ姉は目を閉じて、手を組んでいた。


「あそこに、私は、愛を視た……ぬくもりが……愛情が、溢れているのだと思った……ああいうことを、出来る人間が、私の視る世界に存在していることが……その奇跡が……愛おしくてたまらなかった……」


 モモ姉は、泣いていた。


 静かに。己の胸に、なにかを抱き寄せるかのように、信仰を両手に抱いて。


 ただ、泣いていた。


「お婆ちゃんが……笑顔で死ねたのは、彼のお陰なの……救われたのよ、私たちは……だから、私は、彼になりたい……ああいう風に……なりたい……そして、出来るのであれば、傍で彼を支えてあげたい……」


 泣きながら、彼女は、美しい笑顔で私を見上げる。


「愛してるの」


 あの時の私は、なんと、答えれば良かったのだろうか。


 どうすれば、ああならなかったんだろうか。


 なにをもって、最善と言えたのだろうか。


 とある物理学者は、こう言った――この世に起きる事象のすべては、偶然であり、ともなれば必然でもある。


 私たちが巡り合ったのは、偶然だったのか、もしくは必然だったのか。


 ただ、ひとつ言えることはある。


 愛は、偶然的に発生する――必然的な呪いだ。

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